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Episode 62|素


母が動いた。


線の上で、母の気配が遠ざかっていく。手の届かない方へ。


決めたのは、自分たちだ。母が、あの人のもとへ行く。本人に、語らせる。止めたいのに、その言葉を運んだのは自分の手だった。


あの人の前に立つとき、自分は何も運べない。崩れた文字も父の組んだ式も、あの人の前では使えない。動かせば、気づかれる。母が今からすることは、誰にも助けてもらえない。


だから、見ているしかなかった。母が、あの人の懐へ自分から入っていくのを。


灰色の天井。ファンの音。


アリスは奥歯をかんだ。


——お母さん。


声は、線に乗せなかった。乗せれば母のいる先まで光が伸びて、あの人に気取られる。アリスは、その一言さえ呑んだ。



廊下の匂いは、変わっていなかった。


キャロルは、扉の前で足を止めた。プレートに、見慣れた名前。十七年、隣にあった名前だ。


ノックする前に、一度だけ息を整えた。


これから会うのは、あの男だ。娘を運んだ男。事故を仕組んだ男。


地下の寝台のあいだを歩きながら、あの男は漏らしていた。誰も聞いていないと信じて。何もかも自分が決めたのだと。


その声を、わたしは聞いた。


膝の裏が冷えていた。けれど、顔は別のものを作らなければならない。すがる顔を。頼る顔を。十七年、この男がずっと見たがっていた顔を。


キャロルは、扉を叩いた。


「マコト。少し、いい?」


「キャロル」


声がすぐに返った。穏やかな、低い声。扉が内側から開く。


「珍しいな。君から来るなんて」


マコトは少しだけ目を細めた。笑ったのだとわかるのに、一拍かかる笑い方だった。


「入って」


部屋は片づいていた。机の上に、書類が一束。画面はすべて伏せられている。マコトは椅子を引いてキャロルに勧め、自分は机の角に浅く腰かけた。距離を、わざと作らない座り方だった。


「どうした。顔色が悪い」


「……眠れていないの」


これは、嘘ではなかった。


「もうすぐ、一年になる。あの子が、いなくなって」


部屋が静かだった。


マコトは何も言わなかった。ただ、わずかに目を伏せた。痛みをこらえるような、いたわるような、よくできた沈黙だった。十七年、この男はいつもこうだった。アリスがいなくなったときも、誰よりも親身に、傍にいてくれた。


その手が、あの子を運んだ手だと知るまでは。


「あなたにしか、言えなくて」


キャロルは、声を少し震わせた。震わせるのは簡単だった。本物の震えを、別の理由に見せかけるだけでいい。


「今日になって、急に端末が動かなくなったの。昨日まで開いていた場所が、開かない。誰に訊いても、教えてくれない。まるで——」


そこで言葉を切り、マコトの目を見た。


「まるで、わたしが、何かから遠ざけられているみたいで」


マコトの指が、机の縁でほんの少し止まった。



——気づいたのか。


マコトは、その問いを奥へ押し込んだ。


今朝、彼女の端末を絞ったのは自分だ。夜明け前、古い保守通路に認証が一つ残っていた。誰のものか、記録は語らない。だが、あの区画へ通じる道を選べる者は限られている。


彼女ではないか。そう疑って、彼女の手の届く範囲を今朝のうちに狭めた。


その日のうちに、彼女が来た。絞ったばかりの扉のことを、まっすぐ口にして。


偶然か。彼女は本当に、ただ不安なだけなのか。娘を失い、権限を絞られ、理由も教えられず。誰だって、そう感じる。


だが、なぜ今日なのか。絞ったその日に。


十七年。この女は、一度も自分から来なかった。研究室のころも、ケイがいなくなったあとも。傍にいることは許しても、頼ることはしなかった。距離は、いつも彼女のほうが決めていた。


その彼女が今日、自分の扉を叩いた。すがる顔で。


マコトは、キャロルを見た。


青い目が、まっすぐ自分を見ていた。十七年、横顔ばかり見てきた目だ。それが正面から、自分を映している。


胸の奥が、灯った。


疑え、と冷たい声がした。絞った当日に来た。探りに来たのかもしれない。何かを掴みかけて。


けれど。


彼女が、私を見ている。


その一事が、冷たい声をたやすく押し流した。


「……心配いらない」


マコトは、できるだけ穏やかに言った。


「侵入があってね。夜明け前に、妙な認証が一つあった。念のため、しばらく権限を絞っている。君だけじゃない。何人もだ」


「君を疑っているわけじゃない。むしろ、逆だ」


「逆?」


「君を煩わせたくなかった。それだけだ」


嘘の中に、本当を一つ混ぜた。煩わせたくない。それは、本当だった。


キャロルが睫毛を伏せた。安堵したように。


「……よかった。あなたが、そう言ってくれるなら」



「ありがとう、マコト。少し、楽になった」


キャロルは椅子から立った。すがる顔のまま。


扉まで、数歩。その数歩のあいだだけ、マコトに背を向けられた。顔を作らなくていい、ただ一つの時間だった。


ドアノブに手をかけて、振り返った。もう一度、すがる顔で。


「また、来てもいい?」


言ったあと、ドアノブを握る手に力がこもった。早く出たい。この部屋の空気から。その焦りが、ほんの一瞬すがる顔をほどいた。


「ああ」マコトの声は柔らかかった。「いつでも」


柔らかいまま、その声が一拍だけ遅れた気がした。


扉を閉めた。


廊下に出て、キャロルは一度だけ壁に手をついた。指が冷たかった。


見られた、だろうか。あの一瞬を。


一歩、近づいた。あの男の懐へ。


あと何歩で、あの口から「決めた」と言わせられるだろう。来るたびに、この顔を作る。来るたびに、あの手を、信じたふりで握る。


それでも。


あの子を運んだのが誰か、世界に証す。そのためなら、何度でも、この扉を叩く。



扉が閉まったあと、マコトは机の角に座ったまま、しばらく動かなかった。


彼女が座っていた椅子を見た。まだ、温度が残っている気がした。


去り際の、あの一瞬。すがる顔の下で、何かが動いた。柔らかいものではなかった。


見間違いか。


なぜ、今日だったのか。なぜ、あの顔をしたのか。


問いは消えなかった。夜明け前の認証も、絞った端末も、去り際の横顔も、すべて胸の灯りの下に沈んでいった。沈めば、見えなくなる。見えなければ、ないのと同じだった。


「……また、来るといい」


誰もいない部屋で、マコトはもう一度、そう言った。


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