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Episode 61|近づく


監視の向きは、まだ内を向いたままだった。


ケイは糸を握り、その隙を読んだ。侵入検知が、外から内へ向きを変えている。システムの底を、下から洗い直す手つきだ。急いで掘れば、その動きに痕跡を捉えられる。


だから降りるのは一度だけと決めていた。深い層へ。十七年前の底へ。


被験体を一つ受け入れた記録が、どこかにあるはずだった。日付。経路。運び込んだ手。ケイは塗り潰された行の隙間を、一つずつ辿った。


あった。


搬送の記録。日付は、自分の記憶が途切れた夜と重なっていた。経路は、外から地下へ。眠らせた体を一つ、運び込んだ証だ。


掴んだ。確かに、運ばれている。


だが、決裁の欄が潰れていた。誰が承認したか。なぜ運んだか。その二つだけが、黒く塗られている。手が動いた跡は残っている。指図した者の名は、ない。


ケイは指を止めた。


記録は、手が動いたことを語る。なぜ動いたかは語らない。あの男が地下への道を断った跡は出る。十七年前に体を運んだ跡も出る。けれど——事故を仕組んだ、という一点だけが、どこにもなかった。


偶然そこにいた被験体を、たまたま運んだ。記録は、そう読むこともできてしまう。


検知の動きが、奥へ一つ近づいた。


ケイは降りた道を畳んだ。アクセスの痕跡を拭いながら、上へ戻る。今夜は、これ以上もたない。


糸に意識を乗せた。娘へ。


——記録は、運んだ事実までしか出ない。なぜ運んだかは、塗り潰されている。これだけでは、あの男は逃げられる。



灰色の天井。ファンの音。


父の声が線を伝ってきた。アリスはそれを読み、奥歯をかんだ。


記録だけでは、届かない。あの人は、跡を残す人ではない。それを残させるには——


アリスは目を閉じた。線の上に、もう一つの気配があった。母だ。別の部屋で、表の記録を繰っている。


二つの言葉を運ぶ。父から母へ。母から父へ。動けない自分にできるのは、それだけだった。アリスは父の言葉を母の机へ移した。一字ずつ。崩れた文字で。


——記録は、運んだ事実までしか出ないと。なぜ運んだかは、塗り潰されていると。これだけでは、あの人は逃げられると。


送り終えて、指が重くなった。意識を留めている力が、また少しほどけた。指の先から温度が抜けていく。アリスは握り直した。まだ戻れない。母の返事を聞くまでは。



明かりを落とした別室。


キャロルは、誰も使わない端末の前にいた。娘の文字が灯る。——記録は、運んだ事実までしか出ない。なぜ運んだかは塗り潰されている、と。


息を吐いた。その通りだった。手元の表にも、同じ壁があった。


番号の抜けた処理。承認者の空欄。並べれば、あの男が権限を越えて手を動かした跡は浮かぶ。けれど、それだけだ。事務の遅れ。手続きの不備。問い詰めても、あの男は落ち着いた声でそう答えるだろう。いつものように。そして、誰もが納得してしまう。


越権は、示せる。事故を仕組んだことは、示せない。


裏の記録も表の記録も、同じ場所で止まっていた。あの男が手を動かした、その先の「なぜ」だけが、どこにもない。


キャロルは画面を見つめた。


跡を残さない男だ。番号を振らず、名を伏せ、欄を黒く塗って、十七年、何食わぬ顔で隣に立っていた。


残させるには、本人に言わせるしかない。


決めたなら、決めたと。仕組んだなら、仕組んだと。記録の残る場所で、あの男自身の口から。


そんなことが、できるのか。


あの男は、もう警戒している。番号のない命令で地下への道を断ち、わたしの端末に見張りの印をつけ、この区画から遠ざけようとした。気づかれている。あと一歩、踏み込めば。


それでも。


——あの男は、わたしを突き放せない。


十七年、突き放せなかった。気づかないふりをしてきた視線。地下で漏れた独りごとの、その奥にあったもの。警戒と、その底の執着と。その二つのあいだにしか、付け入る隙はない。


危ない橋だ。けれど、近づけるのは、わたししかいない。


キャロルは、娘の机へ一行を送った。


——わたしが、あの人に近づく。本人に、語らせる。



母の文字が線を伝って届いた。


アリスは息を止めた。


母が、あの人に近づく。あの人の前に、自分から立つ。


だめだ、と思った。母も、聞いたはずだ。寝台のあいだを歩いた足音を。誰も聞いていないと信じて漏らした、あの声を。母は知っている。あの人が何をしたか。事故を仕組み、自分をここへ運んだ、その人が誰なのかを。


知っていて、それでも、自分から近づこうとしている。


アリスは父へ運んだ。母の言葉を、一字ずつ。


線が強く震えた。父が、止めようとしている。


——危険だ。あの男は、お前のことなら何でも読む。近づけば、こちらの手も読まれる。


アリスはそれを母へ運ぼうとして、止まった。


父の言葉は正しい。けれど。


あの人が母のことを何でも読むのなら。その目が、母から離れないのなら。近づけるのも、母だけだ。


アリスは、その皮肉に唇をかんだ。父が止める理由が、そのまま母が行ける理由になる。運べば運ぶほど、母の賭けが固まっていく。止めたいのに、自分の手が、母を送り出してしまう。


それでも、運ぶしかなかった。二人のあいだに立って、言葉を渡すことしか、できないのだから。


アリスは父の言葉を母へ送り、母の答えを待った。


返事は短かった。


——わかってる。だから、わたしが行く。


線の上で、母が一歩、踏み出すのを感じた。


あの人の前に立つのは、母ひとり。父は届かない。自分は、見ていることしかできない。


気づかれれば、終わる。母も。


アリスは目を開けた。灰色の天井。ファンの音。何も変わらない。


ただ、線の遠くで、誰かがこちらの気配を探していた。外からの侵入を追う動きとは、違う向きで。


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