Episode 60|内側
◆
王都の、祈りの間。
朝の務めは、ここから始まる。高い天井。床まで届く長い窓。光が縦に落ちている。人は、いない。
ミアは一人で立っていた。両手を、空にかざしている。胸の内で、唱えていた。アリスの言葉で。言葉の終わりを、ほんの少し長く引く。何度も隣で聞いてきた誦み方だ。
——お護りを。
結界が、応えた。
薄い。
ミアは、もう一度、手に力を入れた。
——お護りを。
二度目で、わずかに締まった。三度目で、ようやく昨日と同じ厚さになった。
額に、汗が滲んでいた。
ミアは、聖詔者の見習いだ。アリスがいないあいだ、その務めを預かっている。胸に抱いた写しは、アリスから預かった祈祷の文言だ。これがある限り、王都を覆う結界は、ミアの手からでも上書きできる。封鍵が街に近づかぬよう、毎朝、新しくする。そう託された。
だが、アリスがかざせば、護りは一度で厚く締まった。指の先まで、張りが伝わった。ミアの手では、三度かけて、ようやく届く。
写しは、アリスの言葉を、一字も違わず写している。それでも、同じ言葉なのに、ミアの手では届かなかった。アリスの手と、自分の手とでは、何かが違う。生まれつき備わったものの差のような気がして、それ以上は考えないことにした。
扉の向こうで、足音が止まった。
「聖詔者様」
大神官の声だった。年老いた、長くアリスを見てきた神官の声。
「お目通りを、願えませんでしょうか」
ミアは、扉の方を見なかった。両手を、空にかざしたまま、答えた。
「アリス様は、深い祈りに入っておられます」
それは、何度も言ってきた言葉だった。
「お取り次ぎは、わたしが」
扉の向こうで、間があった。
「……ノデッサの本山からも、お戻りを、待つ声が」
「お伝えしておきます」
足音は、すぐには離れなかった。しばらく止まったまま、それから、ゆっくり遠ざかった。
ミアは、手を下ろした。
——あと、何日。
写しを、胸に戻した。
——あと、何日、保つでしょう。
アリス様の身に、何が起きているのか、ミアは知らない。ただ、いるように見せる。それだけを託された。日ごとに、護りが薄くなる。手をかざすたび、締まるまでの時が、長くなる。
喉の手前まで、口癖が上がってきた。私で、大丈夫でしょうか。そこで止めた。今日も、その先には行かなかった。
代わりに、背を、昨日と同じ角度に保った。
——私で、やります。
そう、決めた言葉だった。決めた日から、変えていない。
——明日も、護りを上げる。
祈りの間を出るとき、扉に手をかけた。押す前に、一度、息を吸った。
■
灰色の天井。ファンのような音。
寝台の上で、アリスは目を開けていた。
胸の管も、鼻の管も、後頭部から伸びる太い束も、同じ位置にあった。指は動く。肘から先も、動くようになっていた。だが、立てない。声は、出ない。
線が、震えていた。ケイと自分を繋ぐ、細い線だ。
アリスは、目を閉じた。
——ミアさんは、いま。
王都の祈りの間が、まぶたの裏に浮かんだ。自分が毎朝、護りを上げていた場所だ。今は、ミアが上げている。送り出される前に、写しを託したのだから。
託したときから、わかっていた。自分がここに長くいるほど、向こうの務めは、ミアの肩にかかる。護りを保つのは、軽い務めではない。毎朝、結界を締め直す。一日でも空ければ、街に封鍵が近づく。
——私が、戻らないと。
だが、戻れなかった。
この体に意識を置いているあいだ、母と父に繋がる線は、生きている。だが、意識をこの体に留めておくのは、楽ではなかった。覚めてから、ずっと留めている。留める力が尽きれば、意識は向こうの体へ引き戻される。引き戻されれば、ミアの肩は軽くなる。だが、その間、この線は止まる。母も、父も、待たせることになる。
意識を留める力は、指を握り続けるのに似ていた。握る力が少しずつ緩んでいくのが、自分でわかった。
留めていれば、向こうに穴があく。引き戻されれば、こちらが止まる。
——どちらも、置いていけない。
目尻が、湿った。
線に、意識を乗せた。ケイへ。
——急がないと、いけません。
——ミアさんが、保てるうちに。
線が、震えで答えた。
◆
工房に、ケイは一人だった。
机の上には、何もなかった。右手にイブの糸を乗せていた。糸が、いつもより細かく震えていた。
——急がないと、いけません。
アリスの声が、糸の上を渡ってきた。声ではない。意識の縁に置かれた言葉だった。
ケイは、糸を握った。
アリスの代わりに祈りを上げている者がいる。その者が、いつまで保つか、わからない。アリスもそれを知っていて、急げと言っている。
——時間が、ない。
内声が、ひとつ落ちた。
扉が、開いた。
サトルだった。盆を持っている。水と、椀がのっていた。潜っている間は自分で気づけないだろうと、食事を運ぶ役を、サトルが引き受けていた。
「ケイ君」
盆を机の端に置いた。
「少しは、食べてください」
ケイは糸から目を上げなかった。
「ああ」
サトルは、すぐには出ていかなかった。眼鏡の縁に、指をやった。
「アリスさんは、まだ、戻りませんね」
「ああ」
「あなたも、ずっと、糸ばかり見ている」サトルは、言葉を選ぶ間を置いた。「……何か、大きなことが、起きていますね」
ケイは答えなかった。
サトルは、続きを待った。続きは、来なかった。
「訊きません」サトルが言った。「ケイ君が話さないことは、いま話せないことだと、わかっていますから」
盆の椀を、ケイの手の届く位置に寄せた。
「私にできるのは、これくらいです」
ケイは、糸を握ったまま答えた。
「助かる」
サトルは頷いて、出ていった。扉が閉まった。
工房が、静かになった。
ケイは、糸を見たまま、あの男のことを考えた。
事故を仕組み、自分を運び、十七年、嘘を重ねた男。名前は、ひとつになった。だが、像が結ばれただけでは、何も倒せない。証拠がいる。
キャロルが地下で聞いた声は、二人だけのものだ。残らない。だが、あの男が自分は正しいと信じて動いた分だけ、痕は残る。番号のない命令。十七年前の搬送の記録。個人の権限で動かした足跡。どこかに、必ずある。
糸は細っている。アリスの代わりに祈りを上げている者は、限界に近い。時間は、こちらの味方ではなかった。
ケイは椀に手をつけなかった。糸の上に、指を戻した。指先に、力が入った。
——取りにいく。今度は、こちらから。
♠
運用室に、夜も昼もない。
周は、ログの前にいた。並んだ数字。流れの記録。深夜に弾かれた認証。消された痕跡。あの夜から、ずっと洗い続けている。
侵入者がいる。それは、もう疑っていない。外から来た何者かが、最奥の端末に触れた。出所を洗え、と指示を出した。網は、外へ向けて張ってある。
だが、数字が合わなかった。
外から来た者にしては、痕跡の消し方が、内側を知りすぎていた。
周は、別の記録を開いた。古い接続の稼働ログだ。ずっと前から、わずかに沈黙している一点がある。野生の勘の役を担う者——本人も知らぬまま、こちらの覗き穴にされていた者だ。その者から上がってくるはずの信号が、ある時から、ぱたりとやんでいた。設備の劣化だと処理してきた。誰も、気に留めなかった。
周は、その沈黙が始まった時を、侵入の時に重ねた。
重なった。
周は、指を止めた。
外から来た者に、内側の覗き穴は塞げない。塞げるのは——内側にいる者だけだ。
網の向きが、わずかにずれた。外へ張った網の、内側の一点へ。
周は、その一点を見た。まだ、名はない。顔もない。
「中に、いるのか」
声に出した。返事はなかった。
ファンのような音だけが、変わらない速さで響いていた。




