Episode 59|同じ手
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地下の寝台で、アリスは目を開けていた。
母の言葉が届く。
声ではない。ここに、声は届かない。届くのは文字の形をした気配だ。遠くの机で、母が一字ずつ置いていく。崩れた、たどたどしい連なり。それを、アリスは読む。
読んで、糸へ移す。父へ。糸でなら、声が通う。
父の声が返る。それをまた文字に変えて、母へ送る。
そうやって、二人のあいだに立っていた。
動けない。喉も、まだ動かない。それでも、これだけはできた。父の言葉を母へ。母の言葉を父へ。運ぶこと。
父、と胸の中で呼んでみる。まだ、慣れない。
向こうでずっと隣にいた人。背の高い、静かな人だった。鍵をくれた人。けれど——若い。母と同じだけの年を重ねた顔ではなかった。わたしより、少し上に見えるだけの。
父なら、母と同じ年のはず。なのに、そうは見えない。
あの人も、わたしと同じように、どこか遠いところから来たのだろうか。違う時間から、ひとりだけ。
わからなかった。今は、わからないままでいい。
それでも、線の向こうのあの気配はまちがいなく父だった。
線の上で、父が問うた。
——アリス。お前をここへ運んだのは、誰だ。
知っていた。
母が去ったあと、もう一度この場所に降りてきた足音がある。寝台のあいだを、ゆっくりと。
知っている人だった。幼い頃、母の隣でよく聞いた声。頭を撫でられたこともある。母がいちばん信じていた人。
その人が、誰も聞いていないと思って独りごとを言った。
——事故も。ここへ運んだことも。一つ残らず、筋書きどおりだ。
胸の奥が冷たくなる。あのとき、たしかにそう聞いた。
アリスは聞いたままを糸へ乗せた。
「あの人が、言いました」
「わたしの事故は、偶然じゃなかった」
「全部、あの人が決めた、と」
線の向こうで、父の気配が静かになった。聞き入っている。
——誰だ。
問いが、もう一度来た。
けれど、その名をアリスは呼べなかった。
知らないのではない。呼べば、母が信じてきたものが崩れる気がした。口にした瞬間に。自分の口からは、まだ。
母なら、言える。
アリスは母の机へ文字を返した。たどたどしく、一字ずつ。
——お父さんが、知りたがっています。あの人が、誰なのかを。
◆
糸の先から、娘の声が届いた。
事故ではなかった。仕組まれていた。誰かの手で、この場所へ運ばれた。
組みかけた式が、途中で止まった。
誰だ、と問うた。娘は答えなかった。答えられない、という沈黙だった。あの娘が名を呑むほどの相手。
——母なら、知っている。
線の奥で、もう一つの気配が動いた。娘を介して、その向こうにいる。それが答えるのを待った。
♣
自分の端末は使わない。あの画面には見えない印がついている。指の動きを見張るための印が。
今いるのは、明かりを落とした別室。誰も使わない時刻の、誰のものでもない端末。彼がここまで道を通してくれている。アリスの文字が届くのも、その道があるからだ。
長くはいられない。足音がひとつでもすれば、終わる。
その端末に文字が灯った。
崩れているのに、まっすぐな問いだった。あの人が、誰なのか。
キャロルは、知っていた。
地下で聞いた、寝台のあいだの独りごと。あれを漏らした口が、十七年前にもひとつ嘘を運んできた。
——海外の研究機関に、出ていった。連絡するな、と本人が。
卒業の数日前。彼が消えた朝。気の毒そうな顔で、そう告げに来た人がいた。信じた。信じて、十七年。
同じ口だった。あのときの嘘も、地下の独りごとも。
名を打とうとした。指がキーに触れた。
触れて、止めた。
この文字を読むのは娘だ。娘の口から父へ渡る。名を書けば、その文字を娘が読む。読めば、娘がもう一度あの人を呼ぶことになる。名前は重すぎる。あの娘に、もう一度あの人の名を呼ばせたくなかった。
ならば、彼にだけわかるように。
キャロルは組んだ。あの研究室を。三つ並んだ机を。一字ずつ、娘の読める速さで。
——あなたが消えた朝、それを私に告げた人。
——あなたとわたしの、いちばん近くにいた人。
——あなたの式を、誰より長く横で見ていた人。
指が震えた。
この文字が娘を通り、彼に届いたとき。彼が誰を思い浮かべるか。
わかってしまうから。
◆
娘の声が母の言葉を運んできた。一字ずつ。たどたどしく、けれど確かに。
あなたが消えた朝、それを告げた人。式を、誰より長く横で見ていた人。
考えるまでもなかった。
机は三つだった。自分と、キャロル。そして、もう一つ。式が解けると、自分のことのように喜んだ男。笑う男だった。
口の中で、名を転がした。
——マコト。
そして、あの夜。
記憶がある一点で途切れている。研究室。誰かがコーヒーを淹れた。湯気が立った。それきりだ。その先を思い出そうとすると、白い。ただ、途切れている。
次に目を開けたときには、もうこの世界にいた。ずっと自分の身に起きた事故だと思っていた。
違った。
あの夜、自分を消した手。娘をここへ運んだ手。十七年、キャロルに嘘を重ねた手。
一つだ。同じ手だ。
指が式の上で止まった。
笑う男だった。式が解けると、誰より喜んでくれた。そう思っていた。
——喜んでいたのではなかったのかもしれない。
冷えていく。怒りではない。怒りはもっと熱い。これはもっと底の方で固まっていくものだった。
息を吸った。
問われる側だった。十七年ぶりに問われて、指が止まった。
今度は、こちらから問いにいく。
糸の先で、娘の気配が薄れていく。目を開けていられる時間は、長くない。向こうでは、偽りの役目が刻一刻と擦り切れていく。道も細い。掴まれれば、切れる。
それでも。
三人で結んだ線の先に、敵の顔がひとつになった。
止まっていた指が、動いた。




