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Episode 58|続き


「あなたは、誰」


その継ぎ目を、もう一度読んだ。


問う側だった。ずっとそうだった。構造に「お前は何だ」と問い、答えさせ、解いてきた。問われたことはなかった。


道の向こうの手つきは迷っている。本物の迷い方だ。罠は誘う。本物は戻れる場所を確かめながら進む。遠回りを厭わない。


彼女だ。間違えようがない。同じ机で、同じ式を覗き込んでいた指だ。


名乗れば、道が太くなる。太い道は目立つ。掴まれれば二人とも引きずり込まれる。彼女まで。


答えれば、十七年が動く。


——それでも。


指を動かした。論理より先に。初めてだった。


言葉ではない。あの机の上でしか組まなかった式。途中で切れたまま、誰にも見せなかった続き。彼女になら解ける。彼女にしか解けない。


死人には組めない一行だ。


継ぎ目に、それを置いた。




崩れていく文字の先に、見たことのある形があった。


キャロルの指がキーの上で止まった。


この道を保つ誰かがいる。それには気づいていた。


けれど今、向こうから差し出されたのは——あの続きだった。


二人でしか知らない式。最後まで書かずに終わった一行。論文にも残さず、あの机の上だけにあった続き。


もう打ち消せなかった。


死んだ人間には書けない。生きて、覚えていて、こちらへ差し出してきた人間にしか。


指が震えた。震える指でキャロルは応えた。問いではなく、確かめるように。続きの、さらに続きを。彼にしかわからない返し方で。


応答が返ってきた。迷いなく。


文字のはずだった。なのに式の運びそのものが、彼の喋り方をしていた。気の急くところで一度立ち止まる、あの癖が。


その瞬間、声が聞こえた。


耳にではない。聞こえるはずのない声だった。十七年、どこにも残っていなかった声。なのに、はっきりと裡に響いた。記憶の底に沈んでいたはずの、あの春の声。


「……生きて、いたの」


声に出していた。誰もいない早朝の研究室で。


涙がこぼれていた。拭わなかった。拭えば、この道が途切れる気がした。


うれしい。うれしいはずだった。


なのに、胸の奥が冷えていく。


伝えなければならないことがある。十七年、伝えられなかったこと。「あとで」と言って飲み込んだまま、ひとりで抱えてきたこと。


今、言わなければ。この道がまた途切れる前に。




二つの手が線の上で重なった。


アリスには、それがわかった。


母の気配。地下まで降りてきて触れられないまま去っていった、あの温度。それがずっと自分を導いてきた線の主と、深いところで結ばれていく。


意味はまだ掴めない。何を交わしているのかもわからない。


ただ、二人が「知っている」のだとわかった。初めて会った者同士の手つきではない。ずっと前から同じものを見てきた指だった。


母と、この人は——知り合いだったのだ。


胸の奥が小さく鳴った。理由のわからない震えだった。




キャロルは指を置いた。


組み立ててから打つのではなかった。ただ、こぼれるように。


「あなたに言っていないことがある」


一拍、置いた。


「アリスは——あなたの娘よ」



指が、止まった。


道の構造が急に遠くなった。読めていたはずの経路が、文字の連なりに戻る。意味が入ってこない。


——アリス。


隣に並んでいた聖詔者。母の名を確かめたとき、母の娘だと知った。それはわかっていた。


母の娘。彼女の娘。


その先の答えを出さずにいた。出さずにいたことに、今気づいた。


気づかなかったのではない。出さなかったのだ。


年の数は合っていた。とうに合っていた。あの春から数えれば、ちょうど。気づかないほど鈍くない。気づいて、論理の外へ押しやった。確かめれば、答えが出てしまう。だから踏み込まなかった。


「あとで」と、彼女は言った。あの春、桜の下で。


これが、その続きだった。


息がうまくできなかった。膝の感覚が薄い。座っているはずの体が、どこにあるのかわからない。


俺の——。


道の向こうで、彼女が待っている。返事を。


何を返せばいい。十七年分の。一行も組めなかった。式なら、いくらでも組めた。これは組めなかった。



線の向こうの震えが、アリスに届いた。


いつも静かな線だった。構造を読み、鍵を作り、迷わず指示を寄越すあの落ち着いた気配。それが今、揺れている。


母が何かを告げた。その直後の、この揺れ。


ことばにならない感応が、ひとつの像を結んだ。母が「娘」と告げて、止まった指。


「……お父、さん」


声は出なかった。喉はまだ動かない。


けれど、目から熱いものがこぼれた。


会ったことのない人だと思っていた。向こうでずっと隣にいた人。鍵をくれた人。導いてくれた人。


——お父さんだったのだ。最初から。




指を組んだ。


震えていた。それでも組んだ。


道の向こうへ、ひとつだけ返した。


「——わかった」では足りない。「すまない」でも違う。謝って済む十七年ではなかった。


あの春、子どもができたらと言いかけて飲み込んだ。その子を、彼女はひとりで産んだ。ひとりで育てた。俺のいない十七年を、ずっとひとりで。


謝罪でも誓いでもない。返すべきものはひとつしかなかった。


式ではなかった。生まれて初めて論理の外から言葉を選んだ。


ありがとう。


それだけを道の上に置いた。


向こうで、息を呑む気配がした。


触れられない。抱きしめられない。声も本当は届いていない。細い道が一本、二人とひとりの娘のあいだに通っているだけだ。掴まれれば、切れる。長くは保たない。


それでも、初めて三つの気配がひとつの線の上にあった。


家族、という言葉が論理の外から入ってきた。押しやれなかった。


時計は止まっていない。偽りの役目は、刻一刻と擦り切れていく。向こうの監視はまだ網を畳んでいない。動けば、気づかれる。


息を整えた。整えきれなかった。


「ここから先は」


道の上に組んだ。


「三人で行く」


向こうの灯りが揺れた。返事のように。


その揺れの奥に、冷たいものがほんの一点差した。誰かがこの道の遠くで足を止めた——そんな気配だった。気のせいだと思おうとした。


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