Episode 57|接触
◆
鍵を組みかけたまま、ケイは手を止めていた。
近づいてくる運びを、見ている。
罠か。読み手か。
見分け方はある。罠は誘う。本物は迷う。
近づく手つきは、迷っていた。こちらの引いた道を手探りでたどる指。一つ継ぎ目を確かめては、戻る。また別の継ぎ目を試す。一直線ではない。罠なら、まっすぐ来る。餌のあるところへ最短で。これは違った。
迷いながら、それでも止まらない。
ケイはその手つきに覚えがあった。
同じ机で、同じ式を覗き込んでいた指。難しい証明にぶつかると、答えへ飛びつかず、わざと遠回りをした。確かめながら進む。間違える前提で、間違えても戻れる道を残す。十七年前の、その癖のまま。
——彼女だ。
確信に近い。だが、名乗らなかった。
道は、こちらが誰かまでは伝えない。向こうはケイを知らない。死んだと思っているはずだ。いきなり名を告げれば、警戒する。あるいは、罠だと疑う。せっかく伸びてきた手が、引っ込む。
それに——確かめなければならなかった。
近づいてくるのが本当に彼女か。彼女の手つきを装った、別の何かか。網は、そういう罠を張る。
言葉では問わない。構造で問う。
道の途中に、鍵を一つ置いた。継ぎ目の組み方。意味は乗せない。ただ、ある癖で組んだ。遠回りを良しとする、あの組み方で。
読めれば、本物だ。
ケイは指を引いた。置いた鍵から手を離す。
向こうから、踏み込ませる。
♣
自分の端末は、開けない。監視の印がついている。動けば、マコトに見られる。
キャロルは、別の一台の前にいた。空いた席の、誰のものでもない端末。指紋を当てれば、画面は開く。ここまでは、許されている。暗号を扱う、ただの一社員として。
だが、その先はない。地下へ通じる道など、自分の手のなかに一つもない。会社は、そんな権限を与えていない。
それでも、娘の声は届いた。
届くはずのない場所から、届いた。誰かが、目につかない細い道を外まで通している。会社の通信路ではない。自分の権限の、ずっと外側で、保たれている道だ。
キャロルは、その道の端を指で探した。
あった。まだ消えていない。細い線が一本、同じ場所に保たれている。
触れる。たどる。継ぎ目を一つずつ。
作ったのは、自分ではない。ただ、向こうが伸ばしてきた道に、手を重ねていく。十七年、暗号を扱ってきた手だ。組まれたものを読むのは、できる。どこをどう繋いだか、指が後を追える。
たどるほどに、わかってきた。
この道は、内側から保たれている。監視の網は、こんな細工を見逃さない。なのに、見逃している。網の目そのものを知る誰かが、内側からそれを外している。
——味方が、いる。
娘の声は、ひとりで届いたのではなかった。
その道の途中に、一つだけ、毛色の違う継ぎ目があった。
指が、止まる。
これは、道を保つための継ぎ目ではない。誰かが、わざわざ置いたものだ。通りかかる者が、必ず指を引っかけるように。まるで——自分宛のように。
読む。
これは、ただの鍵ではない。組み方そのものに、意味が編んである。読める者にだけ、言葉になる。
掴もうとする構えはない。罠でもない。これは、問いだった。「お前は誰だ」ではない。「お前はこれを読めるか」と訊いている。
読めた。
読めて、しまった。
組み方に、覚えがあった。
答えへ飛びつかず、わざと遠回りをする。間違えても戻れる道を、わざわざ残す。効率を捨てて、丁寧を選ぶ。そんな組み方をする人間を、キャロルはひとりしか知らない。
雪の匂いが、よぎった。
研究室の窓の外。卒業を間近にした冬。同じ机で、同じ式を覗き込んでいた。彼が証明を組むと、いつもこうだった。遠回りで、丁寧で、戻れる道を残す。
「そんなやり方じゃ、間に合わないよ」
そう言って笑った自分に、彼は答えた。「間に合わせるためじゃない。間違えたとき、戻ってくるためだ」と。
胸の奥が鳴った。
息をひとつ吐いた。落ち着け、と自分に言う。彼は、もういない。卒業を前に、いなくなった。死んだ人間が、こんなところに道を引けるはずがない。似た癖の、他人だ。そう思おうとした。
思えなかった。
——この道を保っている誰かを、私は、知っている。
応えることにした。同じ組み方で返す。
届け、とだけ思った。
■
アリスは、両方を感じていた。
声は出ない。動けもしない。けれど、繋がった道の上のことなら、気配でわかる。
一つは、ずっと寄り添っていた手つき。固く、静かで、迷わない。閉じた道に幾度も鍵を作り、開けてきた手。
もう一つは、外から伸びてきた手。やわらかい。けれど確かに、こちらへ近づいてくる。
二つが、同じ道の上で近づいていく。
アリスにだけ、両方が見えていた。片方は母。もう片方は、いつもアリスを助けてくれるあの人。
近づく。
近づく。
触れた。
道の上で、二つの手つきが噛み合った。
ずっと遠くにいた二人が、いま触れている。
アリスの中を、温かいものが通り抜けた。
——会ってほしい。
声が出るなら、叫んでいた。願うことしか、できなかった。
◆
応答が、返ってきた。
ケイは、それを読んだ。
置いた鍵に、同じ癖で組まれた答えが重なっている。
十七年前と、同じ手つきだった。
本物だ。彼女だ。
指が動きかけた。組みかけの鍵を最後まで組めば、向こうへ言葉を渡せる。たった一言。それで届く。
止めた。
——早い。
繋いだ道はまだ細い。網がこの一点を見ていないとは限らない。ここで言葉を交わして、もし読まれれば。二人とも、同じ道の上で掴まれる。彼女まで、こちら側に引きずり込む。
感傷で動く場面ではなかった。
息を整える。次の一手を、慎重に組み直す。確かめてから渡す。それでも遅くない。十七年待った。あと少しなら——
道の向こうから、新しい継ぎ目が伸びてきた。
ケイの組んだ問いに、答えが返ったあとで。彼女の側から、もう一つ。
それは、問いだった。
遠回りで、丁寧に、戻れる道を残して。けれど、たった一つのことを訊いていた。
——あなたは、誰。
問うつもりだった。問われるとは、思っていなかった。
ケイの指が、止まった。
答えれば、十七年が動く。




