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Episode 57|接触


 鍵を組みかけたまま、ケイは手を止めていた。


 近づいてくる運びを、見ている。


 罠か。読み手か。


 見分け方はある。罠は誘う。本物は迷う。


 近づく手つきは、迷っていた。こちらの引いた道を手探りでたどる指。一つ継ぎ目を確かめては、戻る。また別の継ぎ目を試す。一直線ではない。罠なら、まっすぐ来る。餌のあるところへ最短で。これは違った。


 迷いながら、それでも止まらない。


 ケイはその手つきに覚えがあった。


 同じ机で、同じ式を覗き込んでいた指。難しい証明にぶつかると、答えへ飛びつかず、わざと遠回りをした。確かめながら進む。間違える前提で、間違えても戻れる道を残す。十七年前の、その癖のまま。


 ——彼女だ。


 確信に近い。だが、名乗らなかった。


 道は、こちらが誰かまでは伝えない。向こうはケイを知らない。死んだと思っているはずだ。いきなり名を告げれば、警戒する。あるいは、罠だと疑う。せっかく伸びてきた手が、引っ込む。


 それに——確かめなければならなかった。


 近づいてくるのが本当に彼女か。彼女の手つきを装った、別の何かか。網は、そういう罠を張る。


 言葉では問わない。構造で問う。


 道の途中に、鍵を一つ置いた。継ぎ目の組み方。意味は乗せない。ただ、ある癖で組んだ。遠回りを良しとする、あの組み方で。


 読めれば、本物だ。


 ケイは指を引いた。置いた鍵から手を離す。


 向こうから、踏み込ませる。



 自分の端末は、開けない。監視の印がついている。動けば、マコトに見られる。


 キャロルは、別の一台の前にいた。空いた席の、誰のものでもない端末。指紋を当てれば、画面は開く。ここまでは、許されている。暗号を扱う、ただの一社員として。


 だが、その先はない。地下へ通じる道など、自分の手のなかに一つもない。会社は、そんな権限を与えていない。


 それでも、娘の声は届いた。


 届くはずのない場所から、届いた。誰かが、目につかない細い道を外まで通している。会社の通信路ではない。自分の権限の、ずっと外側で、保たれている道だ。


 キャロルは、その道の端を指で探した。


 あった。まだ消えていない。細い線が一本、同じ場所に保たれている。


 触れる。たどる。継ぎ目を一つずつ。


 作ったのは、自分ではない。ただ、向こうが伸ばしてきた道に、手を重ねていく。十七年、暗号を扱ってきた手だ。組まれたものを読むのは、できる。どこをどう繋いだか、指が後を追える。


 たどるほどに、わかってきた。


 この道は、内側から保たれている。監視の網は、こんな細工を見逃さない。なのに、見逃している。網の目そのものを知る誰かが、内側からそれを外している。


 ——味方が、いる。


 娘の声は、ひとりで届いたのではなかった。


 その道の途中に、一つだけ、毛色の違う継ぎ目があった。


 指が、止まる。


 これは、道を保つための継ぎ目ではない。誰かが、わざわざ置いたものだ。通りかかる者が、必ず指を引っかけるように。まるで——自分宛のように。


 読む。


 これは、ただの鍵ではない。組み方そのものに、意味が編んである。読める者にだけ、言葉になる。


 掴もうとする構えはない。罠でもない。これは、問いだった。「お前は誰だ」ではない。「お前はこれを読めるか」と訊いている。


 読めた。


 読めて、しまった。


 組み方に、覚えがあった。


 答えへ飛びつかず、わざと遠回りをする。間違えても戻れる道を、わざわざ残す。効率を捨てて、丁寧を選ぶ。そんな組み方をする人間を、キャロルはひとりしか知らない。


 雪の匂いが、よぎった。


 研究室の窓の外。卒業を間近にした冬。同じ机で、同じ式を覗き込んでいた。彼が証明を組むと、いつもこうだった。遠回りで、丁寧で、戻れる道を残す。


 「そんなやり方じゃ、間に合わないよ」


 そう言って笑った自分に、彼は答えた。「間に合わせるためじゃない。間違えたとき、戻ってくるためだ」と。


 胸の奥が鳴った。


 息をひとつ吐いた。落ち着け、と自分に言う。彼は、もういない。卒業を前に、いなくなった。死んだ人間が、こんなところに道を引けるはずがない。似た癖の、他人だ。そう思おうとした。


 思えなかった。


 ——この道を保っている誰かを、私は、知っている。


 応えることにした。同じ組み方で返す。


 届け、とだけ思った。



 アリスは、両方を感じていた。


 声は出ない。動けもしない。けれど、繋がった道の上のことなら、気配でわかる。


 一つは、ずっと寄り添っていた手つき。固く、静かで、迷わない。閉じた道に幾度も鍵を作り、開けてきた手。


 もう一つは、外から伸びてきた手。やわらかい。けれど確かに、こちらへ近づいてくる。


 二つが、同じ道の上で近づいていく。


 アリスにだけ、両方が見えていた。片方は母。もう片方は、いつもアリスを助けてくれるあの人。


 近づく。


 近づく。


 触れた。


 道の上で、二つの手つきが噛み合った。


 ずっと遠くにいた二人が、いま触れている。


 アリスの中を、温かいものが通り抜けた。


 ——会ってほしい。


 声が出るなら、叫んでいた。願うことしか、できなかった。



 応答が、返ってきた。


 ケイは、それを読んだ。


 置いた鍵に、同じ癖で組まれた答えが重なっている。


 十七年前と、同じ手つきだった。


 本物だ。彼女だ。


 指が動きかけた。組みかけの鍵を最後まで組めば、向こうへ言葉を渡せる。たった一言。それで届く。


 止めた。


 ——早い。


 繋いだ道はまだ細い。網がこの一点を見ていないとは限らない。ここで言葉を交わして、もし読まれれば。二人とも、同じ道の上で掴まれる。彼女まで、こちら側に引きずり込む。


 感傷で動く場面ではなかった。


 息を整える。次の一手を、慎重に組み直す。確かめてから渡す。それでも遅くない。十七年待った。あと少しなら——


 道の向こうから、新しい継ぎ目が伸びてきた。


 ケイの組んだ問いに、答えが返ったあとで。彼女の側から、もう一つ。


 それは、問いだった。


 遠回りで、丁寧に、戻れる道を残して。けれど、たった一つのことを訊いていた。


 ——あなたは、誰。


 問うつもりだった。問われるとは、思っていなかった。


 ケイの指が、止まった。


 答えれば、十七年が動く。


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