Episode 56|二つの線
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足音が、消えた。
地下に、ファンの音だけが戻ってきた。
アリスは寝台に横たわったまま、天井の灰色を見ていた。母が去った扉のほうへ、首は向けられなかった。動かない。声も出ない。さっき、精いっぱいに振った首が、もう重かった。
それでも、胸の奥は静かだった。
母が、来た。触れた。額を重ねて、行ってくる、と言った。
夢ではなかった。頬に、まだ指の感触が残っている。
——お母さんは、外にいる。
その一事が、灰色の部屋の温度を、わずかに変えていた。
頭の奥に、細い線の感覚がある。あの人——ケイへ繋がる線。いつもそこにあって、震えで応えてくれる。
母は、迎えに行く、と言った。けれど、もう一度ここへ来るのは危ない。あの男が、すぐ近くまで降りてきた。次は、間に合わないかもしれない。
母を、危ない場所へ来させたくない。だったら、自分から動くしかない。動かない体の、どこを使ってでも。
アリスは目を閉じた。
ケイへの線に、意識を寄せる。動かない指の代わりに、内側だけで、言葉を形にする。
——ケイさん。お母さんが、来ました。
線が、かすかに震えて応えた。
——会えました。すぐ近くまで。
まだ、それしか送れなかった。会えた嬉しさも、母を巻き込む怖さも、言葉にはならない。けれど、あの人になら、この震えだけで、半分は届く気がした。
いつもそうだった。だから、ここまで来られた。
♣
キャロルは、古い通路を、来たときと逆にたどった。
非常灯の緑。埃の匂い。誰ともすれ違わなかった。網に載っていない道は、帰りも誰の目にも触れない。
地上の扉を押すと、研究棟のいつもの廊下だった。早朝の白い光。清掃の機械音。何も変わっていない。
変わったのは、自分のほうだった。
エレベーターで、同じ階の研究員と一緒になった。おはようございます、と声をかけられ、同じ言葉を返した。自分の声が、平らに出たことに、内心驚いた。
——昨日までと、同じ顔をしていろ。
胃の底が、固く冷えている。地下で見たものが、瞼の裏に焼きついて消えない。並ぶ寝台。管。娘の、痩せた頬。
あの男は、まだ気づいていない。そう信じるしかなかった。気づかれた瞬間に、娘は確保される。それだけは、させない。
自室に入り、扉を閉めた。
端末の前に座る。指紋を当てれば、画面が開く。ここまでは、いつもどおりだ。会社が自分に許した、暗号の仕事の範囲。
この一台に、娘の声が届いた。崩れた文字の、あのかけらが。
もう一度、開きたい。応えたい。
けれど、指は止まっていた。
この端末には、監視の印がついている。マコトが仕掛けたもの。下手に動けば、見られる。娘と繋がった線をたどられる。
それに——おかしいのだ。
自分の権限はここまでしかない。あの地下へ通じる扉など一つも持っていない。本来なら、届くはずがないのだ。あの声が、この一台に届くことが。
なのに、届いた。
キャロルは、画面に残った声のその道を指でたどった。会社の通信路ではない。誰かが、目につかない細い道を地下からこの閉じた一台まで通している。自分の権限の、ずっと外側から。
——内側にいる者でなければ、できない。
監視をかいくぐって、地下から外まで道を保つ。そんな真似ができるのは、この仕組みを内から知り尽くした誰かだけだ。
娘の声は、ひとりで届いたのではない。運んだ手が、どこかにある。
その継ぎ目の取り方に、ふと指が止まった。
——この組み方を、知っている。
どこで、とは出てこなかった。ずっと昔の、雪の匂いのする記憶の縁で、何かが揺れた。
そのとき、扉が二度、鳴った。
心臓が、跳ねた。指が、たどっていた線をとっさに離す。
「キャロルさん、おはよう。早いね」
ドアの向こうは、同僚の声だった。それだけだった。返事をして、足音が遠ざかるのを待つ。
画面には、まだ細い線が残っている。これを、誰かに見られたら。
——時間は、味方じゃない。
キャロルは首を振って、また指を寄せた。今は、感傷の時ではない。
◆
ケイは、糸の手前にいた。
アリスの気配は、もう怯えていなかった。決まった、という重さだけが、伝わってくる。
——お母さんが、来ました。
糸を渡ってきた言葉に、ケイは手を止めた。
——会えました。すぐ近くまで。
地下まで、キャロルが降りてきたらしい。アリスに、触れた。糸は心まで運ばないが、熱は伝わる。会えた、という熱。置いていかない、という固さ。
それから、アリスの気配は、また静かになった。
どれだけ、そうしていたか。
経路の、ずっと先で、何かが動いた。
ケイは、アリスの通した細い道を、奥までたどった。あの閉じた一台へ続く、一本の道。これまで、その先は静かだった。
いま、向こうから、誰かが近づいてくる。
その道を外からたどり、継ぎ目を一つずつ確かめながら。迷いの少ない運びだった。決めた順にしか進まない。
——キャロル。
名を、胸の内で呼んだ。同じ机で、同じ式を覗き込んでいた指だ。忘れるはずがない。
彼女は知らない。この道を組んだのが、誰か。糸の手前で息をしている男が、誰か。
近づいてくる。あと少しで、アリスの道と、彼女の手が、触れる。
ケイは、鍵を組みかけて——止めた。
急いてはいけない。いま繋がりかけているこの道を、向こう側も見ているかもしれない。一度繋がれば、別々には隠れられない。罠なら、二人とも掴まれる。
確かめてからだ。
それでも、近づいてくる運びから、意識は離れなかった。十七年ぶりに見る、その癖から。
糸が、震えた。アリスが、待っている。
ケイは、組みかけた鍵を手のなかに残したまま、その動きを、ただ見ていた。




