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Episode 55|重なる、もう一度


 地下は、静かだった。


 並ぶ寝台。眠る者たち。機械が刻む、低い一定の律動。マコトはその列のあいだを歩いていた。


 深夜に灯った、正規の認証。権限者は不在のはずの時刻に、確かに通信が外へ伸びた。周の報せは、それだけで彼をここへ降ろすのに足りた。


 足が、止まった。


 目当ての寝台の、一つ手前。壁の側へ顔を背けた、眠る者。


 何かが、ずれていた。


 耳を澄ます。寝台の眠りはどれも同じ拍で息をしている。機械が与える、完全に一定の呼吸。だが今、この影の胸の上下は——


 いや。


 合っている。薄い胸の上下は、機械の拍と寸分も狂っていない。聞き違いか。


 マコトは数瞬、そこに立っていた。影は動かない。律動は乱れない。


 目当ての寝台へ、進んだ。


 娘は、眠っていた。


 波形は一定。管は外れていない。シーツの白も崩れていない。


 彼は波形の表示を遡った。


 指が、止まった。


 補助の電極に、欠けが続いている。この二日、途切れては戻り——そして少し前の時刻に、ひときわ短い棘を残して、今は安定している。


 ——切れていたものが、今夜、戻った?


 しばらくその一点を見ていた。それから、息を吐いた。


 古い設備だ。補助系の欠けなど、どの寝台にもある。本線が生きていれば、誰も見ない数字。


 そして本線は——認証は、止まっていない。動いている以上、この娘は眠りの底にいる。深夜の認証は、外の何者かが盗んだ鍵だ。侵入者は、外にいる。


 マコトは寝台のへりに手を置いた。眠る顔を見下ろす。


 ここに、聞く者はいない。眠る者たちは、何も聞かない。彼にとってそれは、息をするより当たり前のことだった。


 声は、優しかった。


 「すまない、とは言わないよ」


 指がシーツの縁をなぞった。


 「あの夜のことは、全部、私が決めた。事故も。君をここへ運んだことも。一つ残らず、筋書きどおりだ」


 「間違ってはいない。あのときも、今も。……君には、わからないだろうがね」



 アリスは、眠っていなかった。


 事故も。筋書きどおり。


 言葉が、落ちてきた。塾の帰りの、あの夜から先のずっと暗かった場所に——答えの、最初の一片が。


 あの事故は、偶然じゃなかった。


 仕組んだのは、この人。母の隣で笑っていた、この人。


 目の奥が、熱くなった。


 だめ。泣くな。今は——


 間に合わなかった。閉じたまぶたの縁に、熱がひとすじにじんでいく。


 止められない。拭えない。すぐ上に、あの人の気配がある。


 アリスは残った力の、最後のひとつかみを通路の奥へ伸ばした。定時に巡ってくる、機械の目へ。その目に映る自分の気配の上に、薄い帳を被せる。


 目を覚ましてから、何度もそうしてきた。巡る目は、いつも素通りしていった。けれど今夜は、力が——


 ——見ないで。


 ここには、何もない。



 目尻に、何かが光った。


 マコトは身を屈めた。閉じたまぶたの縁。濡れたような、細い筋——


 涙か?


 眠る者は、泣かない。泣けるはずがない。だが、この筋は——


 指が、娘の目尻へ伸びた。


 通路の奥から、低い駆動音が近づいてきた。


 巡回の機体だった。定時の巡り。白い灯りが寝台の列を順に撫で、娘の顔の上を滑っていく。機体は速度を変えなかった。報告が彼の端末に届く。


 ——異常なし。


 マコトは伸ばした指を、止めたまま見ていた。灯りの過ぎた目尻に、もう光はない。


 機械が見て、何もない。波形の欠けは設備の劣化。呼吸は拍に合っていた。あの筋は——灯りの反射か。


 ……気のせいか。


 身を起こし、息を吐いた。眠る顔に、声が低く落ちる。


 「キャロルには、言えない」


 名を口にした声が、ほんの少しだけ和らいだ。


 「あれはまだ、君がもういないと信じている。一年、そう思って泣いて、それでも会社へ来る。知れば、壊れてしまうからね」


 「だから、眠っていてくれ。それが、君にも、あの人にも、いちばんいい」


 足音が遠ざかる。一つ。二つ。扉の開く音。閉じる音。


 静寂。



 アリスの中で、何かが切れた。


 機械の目に被せていた帳が、ほどけて消える。視界が暗く狭くなる。指の先まで、力が残っていない。


 今夜はもう、二度はできない。


 それでも。


 守れた。



 キャロルは隣の寝台で、すべてを聞いていた。


 息を、機械の拍に合わせつづけていた。足音がすぐそばで止まった数瞬は、心臓ごと止まるかと思った。それでも合わせつづけた。


 マコト。


 十七年、信じてきた。ケイが消えたときも、娘が消えたときも、いちばん親身になってくれた人。ずっと棘のように刺さっていた、ばらばらの点——番号のない命令、断たれた一本の道、自分の端末の見張りの印。


 その点が今、一本に繋がった。


 ——あの夜のことは、全部、私が決めた。


 他の誰でもない、マコト自身の声で。耳の奥で、まだ繰り返している。


 怒りが喉元までせり上がった。今すぐ寝台を蹴って、追いかけて、胸ぐらを掴んで——


 動かなかった。


 動けば、終わる。娘が、終わる。


 奥歯を、噛んだ。


 扉の音が消えてなお数十拍を数えてから、ゆっくりと身を起こした。自分に当てていた管を外し、冷たい床へ足を下ろす。一歩。二歩。隣の寝台へ。


 娘が、目を開けていた。


 涙で濡れた目が、まっすぐに自分を見上げている。


 「……アリス」


 声にならない。口の形だけで、名を呼んだ。瞬きが一つ、応えるように返ってくる。


 キャロルは娘の頬に触れた。涙を指で拭う。温かい。生きている。一年探しつづけた娘が、目を開けて、ここにいる。


 連れて帰ろう。


 思いが、先に身体を動かした。シーツをめくる。繋がれた管を、一本ずつ——


 後頭部の、いちばん太い一本に、指が触れた。


 止まった。


 わかっている。とうに、わかっていた。この子を見つけた、あの瞬間から。この一本だけは抜けない。一年かけて、命と一つになってしまった管。引けば、娘は死ぬ。


 知っていても、手が伸びる。


 たとえ、抜けたとして。この管だらけの身体を、どうやって運び出す。波形が乱れれば、認証が止まれば、それだけで露見する。あの男は、全力で動く。娘を、確保しに。


 会えた。やっと、会えた。


 なのに、連れて帰れない。



 アリスは、母の手が震えているのを見ていた。


 だめ。


 声は出ない。首を、ほんのわずかに振る。動かない身体でできる、精いっぱいの否定。


 それから、ゆっくりと視線を横へ流した。


 隣の寝台。その隣。さらに、隣。列の端は見えない。一つひとつに、人がいる。眠ったまま、繋がれたまま。あの世界で出会った、たくさんの——


 目を母に戻す。もう一度、横の列へ。また、母へ。伝わるまで。


 私だけ、助かりたいんじゃない。


 ここにいる、ひとり残らず。置いていけない。



 キャロルは、娘の視線を追った。


 並ぶ寝台へ。その先の、見えない列へ。そして、自分へ戻ってくる濡れた目へ。


 わかってしまった。


 この子は、自分だけ助かることを拒んでいる。


 胸の奥で、何かが形を変えた。


 マコトへの、この場所すべてへの、煮えるような怒り。それが冷えて、固く、まっすぐな一本の芯になった。


 いいだろう。


 ひとりも、置いていかない。あなたを連れ出すために、この場所ごと、暴く。


 キャロルは娘の額に、自分の額を寄せた。


 管には触れない。ただ、額と額が重なった。一年前まで、毎朝そうしていたように。眠った娘を起こすとき、こうして額を合わせて、名を呼んだ。


 「……行ってくる」


 口の形だけで、言った。


 「今度は、私が迎えに行く」


 アリスの目が応えた。瞬きが、一つ。


 行って。私は、ここで。


 二つの決意が、額の重なる一点で触れ合った。


 キャロルは身を起こした。シーツを掛け直す。乱れのないように。痕跡の残らないように。最後にもう一度、濡れた目を見た。


 それから、背を向けた。振り返らなかった。振り返れば足が止まる。止まれば、二度と動けない。そう、わかっていた。



 ケイは、糸の手前で待っていた。


 見張りの印は、もう応えない。正規の鍵で道を辿っていた何者かは、立ち去った。


 糸の向こうで、アリスの気配が戻ってくる。


 何かが、違った。


 送り出したときの心細さとも、壁に挑んでいた怯えとも違う。もっと静かで——もっと、固い。


 何があった、とは訊かなかった。糸は、心までは運ばない。ただ、伝わってくるものがある。決まった、という手応え。退かない、という重さ。


 ここから先は、内側からだ。


 囚われた者を、ひとり残らず外に出す。その道を、探す。


 糸が、かすかに震えた。


 遠い場所で、二つの意志が、同じものを目指して重なっていた。


 外から、ひとつ。内から、ひとつ。


 まだ互いを知らない、二つが。


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