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Episode 54|息を殺す


 地下は、いつも同じ温度をしている。


 マコトは通路を歩いた。両側に、蓋のない寝台が並ぶ。一つひとつに人が横たわり、胸がゆっくりと上下する。眠っているのではない。眠らされている。後頭部から伸びた管が、それぞれの頭を床下へ繋いでいた。


 リソース、と彼は胸の内で呼ぶ。世界中の通信を、暗号を、この足の下で支えている演算の束。顔のない労働力。誰も降りてこない無人の階。巡る目は、すべて自動の機械に任せてある。


 だから、見過ごせなかった。


 周から連絡が来たのは昨夜だ。あの経路で、クラックの疑い。娘の寝台から外へ、深夜に一度認証が伸びた。鍵を作ったのはケイ。その鍵を証明できる者は、この世にひとりしかいない。あの娘。眠ったまま役目を果たしている──そう答えることもできた。


 だが、答えなかった。


 キャロルが古い保守記録を漁った痕跡がある。端末を置いて、最下層へ消えた。暗号セクションの彼女が触れられるはずのない場所。来るはずのない場所。


 もし、ここへ来ていたら。


 マコトの足が速くなった。あの娘がここにいることを知る者は、自分だけだ。引き入れたのは自分だ。キャロルがあの寝台にたどり着けば、すべてがひと目で繋がってしまう。


 確かめる。彼女がここにいないか。あの寝台が暴かれていないか。


 通路の先で、空気の流れがわずかに乱れた。


 彼は歩を緩めない。



 足音だ。


 キャロルは顔を上げた。遠い。だが近づいてくる。一定の間隔。迷いのない歩き方。誰かがこの階を、まっすぐ歩いてくる。


 時間がない。


 娘を見た。寝台のアリスは、目を開けている。痩せた頬。むき出しの腕。胸には、剥がれた電極の痕。口元から、鼻から、抜けた管が幾本も垂れて、寝台の縁で揺れている。床に、電極の線がこぼれていた。


 ひと目でわかる。ここで何かが起きた、と。誰が見ても。


 膝をついた。床に手をついた。


 そこで、気づいた。乾いた染み。白く固まって、床にこびりついている。栄養の——流動食の跡。抜けた管からこぼれたもの。


 濡れてはいない。丸一日でも垂れ流されていれば、床は汚れて湿っているはずだ。なのに乾いている。少ない。


 理解が背を冷やした。管が抜ければ、流量の異常を機械が読む。そして、止める。一滴も無駄にしないために。眠る者がひとり管を抜いたところで、施設は眉一つ動かさず栓を閉める。ただ、それだけ。


 ここは、そういう場所だ。


 キャロルは震える指を止めた。十七年、この手で娘を育ててきた。抱いて、なだめて、髪を梳いて。今はその手で、娘を隠す。


 足音。一つ。


 垂れた管を拾った。口元の一本。これは栄養の管。命綱ではない。後頭部の本管が、娘を生かしている。だから——戻せる。


 差し込んだ。


 娘の喉が跳ねた。


「っ……」


 アリスの口から、声が漏れかけた。


 キャロルは、とっさに娘の唇へ指を当て、すぐに離した。


「しっ」


 声にもならない息だけで言った。だめ。声を出しては、だめ。


 娘の目に、涙が盛り上がる。痛い。わかっている。ごめんね。心の中で、何度も。それでも指は止めない。


 足音。二つ。


 鼻の管を戻す。指が滑る。汗だ。手のひらが湿っている。これまで、かいたことのない汗。もう一度つまんで、差した。娘の鼻翼が震える。構わない。痛みは見えない。剥がれた痕は、見える。見えるものから消す。


 電極を拾った。剥がれた痕へ押し当てる。貼りつかない。粘着がもう乾いて、布のように娘の肌を滑る。一度、二度。指の腹で押さえて、温める。ようやく、ついた。


 一つ。二つ。


 三枚目が指から逃げた。


 ひらりと、床へ。


 息を止めた。電極が床を打つ。その小さな音さえ、今は爆ぜるように聞こえる。拾う。手が震える。つまむ。痕へ戻す。押さえる。


 足音。三つ。四つ。もう数えるのが間に合わない。


 線を寝台の影へ流す。音を立てない。管が縁に触れて、かちりと鳴りそうになる。指で押さえて、殺した。


 後頭部。


 最後に残った太い一本。


 手が伸びかけた。これも戻さなければ——いや。


 止めた。指先が管の手前で止まる。


 これは、違う。これだけは、違う。床下へ消えていくこの管が、娘の頭の奥で命と混ざっている。引けば、頭の中ごと引く。奥が裂ける。それだけで終わる。


 戻すのではない。残すのだ。繋がったまま残す。触れずに残す。


 キャロルは、手を引いた。


 シーツを引き上げた。音もなく。痩せた身体を、こぼれた線を、剥がれかけの痕を、白い布の下へ。垂れた裾を床の染みの上まで引いた。それも、隠す。


 足音は、もう列の入口に近い。



 異物が、喉に戻ってくる。


 アリスは、それを受けた。冷たい管。喉の奥を擦る感触。引き抜いたものが、また入ってくる。声が出そうになった。母の指が唇を塞ぐ。


 しっ、と。


 わかった。喉の奥で、悲鳴を噛む。奥歯で噛みしめる。


 母の手が、震えている。震えながら、迷わない。痛いだろうと知りながら、止めない手。痕を隠し、線を流し、布を引く。


 そのとき、響きが届いた。声ではない。頭の奥に、まっすぐ。


 ──来る。


 ケイだ。


 ──閉じた道に残した見張りが応えた。正規の鍵だ。お前のいる方へ降りてくる。


 知っている。もう、足音が聞こえている。


 動けない。指の先しか動かない。隠れることも、起き上がることも、できない。できるのは、ひとつだけ。


 母に、伝える。


 アリスは、布を引く母の手を指の先でつかんだ。力はほとんど入らない。それでも、つかむ。母の目がこちらを向いた。


 目で、伝える。


 足音のする方へ視線を投げた。来る。それから母へ視線を戻す。あなたは。もう一度、入口の方へ。隠れて。お願い。逃げて。


 声は、いらなかった。



 娘の指が、手をつかんだ。


 力のない指。けれど、つかんだ。キャロルは娘の目を見た。一点を見て、戻ってくる。また、その一点へ。母には、わかった。技術も言葉もいらない。


 来る。あなたは、隠れて。


 わかってる。


 キャロルは、最後の布を引いた。娘の額に手を置く。指をまぶたへ滑らせた。


「……眠って」


 唇の動きだけで言った。息もほとんど乗せない。マコトの耳に、髪一筋ほども届かないように。


 娘のまぶたがゆっくり下りる。涙が一筋、こめかみへ流れた。親指で拭う。眠っているように。ただ、眠っているように。


 抱きしめたかった。


 一年だ。車だけが見つかって、あの子は戻らなかった。葬る身体さえなかった。それが、ここにいる。息をして、自分の手をつかんだ。


 なのに、抱けない。


 腕を回せば、頭が動く。頭が動けば、あの管が引かれる。奥が裂ける。抱きしめることが、娘を殺す。


 キャロルは、手を離した。額から指を。指からぬくもりを。一本ずつ引き剥がすように。動作を二つに分けた。離して──止まる。それから、立った。


 足音は、もう列の入口にいる。


 隠れる場所を目が探した。床下の点検口。遠い。間に合わない。


 ──隣。


 アリスの隣の寝台が空いていた。主のいない寝台。垂れたままの管。剥き出しの電極。誰かがいた跡。あるいは、これから来る誰かの席。


 見つかれば、終わる。自分がではない。この子だ。眠ったふりの嘘が剥がれる。


 キャロルは、そこへ身を入れた。


 音を立てない。シーツの内側へ滑り込む。仰向けになり、顔を壁側へ背けた。


 顔さえ見られなければ。マコトは、こちらの顔を知っている。横顔ひとつで終わる。


 垂れた電極を胸へ当てる。管を肩口へ寄せる。繋がれている者のように。眠っている者のように。


 息を殺した。


 自分が今、何のふりをしているのか。繋がれた者。囚われた者。娘と同じ姿。


 ──ここにいる人を、ひとり残らず。


 娘の声が、ふいに胸をよぎった。いつか、必ず。


 今は、息を殺す。


 足音が、列に入った。



 区画の入口で、マコトは足を止めた。


 空気が乱れている。誰かが、ここを通った。あるいは、いる。


 通路へ目を走らせた。寝台の列。胸の上下。床下へ伸びる管の束。いつもと同じ眠り。いつもと同じ温度。


 何も、変わっていない。


 そう、見える。


 マコトは一歩、踏み込んだ。靴底が硬い床を打つ。その音が、列の奥まで響く。二歩目。眠る顔を横目に確かめながら進む。三歩目。彼が探しているのは、ただ一つの寝台だ。


 あの娘の寝台。列の奥。


 足音が、近づいていく。


 マコトは気づかない。


 一つ手前の寝台で、シーツの下の息が止まる。


 あと、数歩。


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