表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
53/58

Episode 53|触れられない


 マコトは、正規の道を下りきった。


 彼だけが通れる階段。網に映らない、もう一つの道。


 あの区画に、キャロルがいる。網から消えたということは、そこへ行ったということだ。古い記録を漁り、古い鍵を見つけた。彼女ならできる。暗号を、誰よりも知っている人だから。


 なぜ、そこへ。何を見つけた。


 あそこには、見せてはいけないものがある。誰にも。とりわけ、彼女には。


 最奥の扉に、鍵をかざした。彼だけが通れる、正規の鍵を。


 扉が、開いた。


 冷気と、低い機械音。マコトは、暗がりへ足を踏み入れた。いちばん古い区画は、奥にある。迷わず歩き出した。




 届いたのか、どうか。わからないままだった。


 声を置いた。あの灯りのいちばん深いところへ。それきり、何も返ってこない。


 アリスは寝台の上で目を閉じていた。


 力が、残っていなかった。指一本、動かせない。あの道を最後まで通って、母の場所の扉を開けて、声を置いて——使い果たした。腕は寝台に沈んだまま、起こそうとしても起きない。


 後頭部の管が、まだ熱を持っていた。掴まれた痕。灼けた痕。


 光は変わらない。音も変わらない。低い機械の音が、途切れずに鳴っている。


 ただ、ケイの気配だけが、細い糸の向こうにまだあった。それだけが頼りだった。


 ——届いたでしょうか。


 返事はない。


 そのときだった。


 いつもと違う気配がした。


 これまでも、気配はあった。並んだ息。管に繋がれた、たくさんの人の。遠い、眠ったままの息。温度のない機械の音。


 でも、これは違った。


 近い。生きている。眠っていない。こちらへまっすぐ近づいてくる。




 ケイは、流れの手前で待っていた。


 声を届けたあと、道を閉じた。アリスの意識を、体へ戻した。


 閉じるとき、戻り道に、印を残した。自分たちが通ったこの道を、別の誰かが正規の鍵で辿ってきたら、それとわかるように。侵入は、いつか気づかれる。追ってくるとすれば、同じ道だ。そう思って、残した。


 その印が、いま、応えた。


 誰かが、正規の鍵で経路に触れた。資格のある鍵だ。迷いがない。関門をひとつずつ正しく通りながら、奥へ——アリスの眠る、いちばん奥へ向かっている。


 ケイに読めるのは、そこまでだった。印の震え。鍵の正しさ。けれど、それを使っているのが誰なのかは、掴めない。温度のない手つきだった。


 止められない。経路は読める。鍵も作れる。だが、正しい鍵で下りてくる者を、押し返す手はない。ケイの意識は、糸のずっと手前にある。向こうの現場に、手を伸ばせない。


 ——間に合うか。


 ケイは、糸の向こうへ呼びかけた。


 「アリス。誰か来る」


 声に、力を込めた。


 「正規の鍵で、奥へ来る。気をつけろ」


 届けることしか、できなかった。守ってやれる場所に、ケイはいない。




 誰か来る、とケイは言った。


 アリスは身を固くした。逃げられない。動けない体で、できることは何もない。声も、出せない。ただ、近づいてくる気配を、感じているしかなかった。


 気配が、すぐそこに来た。


 アリスは目を開けた。


 薄く。光がしみた。


 顔があった。逆光だった。緑の灯りを背に、表情は見えない。


 誰、と思う間もなかった。


 「……アリス」


 声が、降ってきた。


 その声を、アリスは知っていた。一年、聞かなかった声。塾へ送り出してくれた声。事故の朝、迎えに行こうか、と訊いた、あの声。


 母だ。


 間違えようがなかった。毎日聞いて、ある日から聞けなくなった声。


 ——お母さん。


 声を返そうとした。出なかった。喉が、形を作れない。


 手を伸ばそうとした。動かなかった。腕は寝台に沈んだまま。


 それでも、アリスは母を見ていた。逆光で、顔は見えない。それでも、目だけが母を捉えていた。瞬きも惜しかった。


 届いたのだ。声は、届いたのだ。だから母は、ここにいる。


 涙が、こめかみを伝って耳のほうへ落ちた。それだけが、動いた。




 キャロルの足が、動かなかった。


 数えきれないほどの人が、管に繋がれて眠っている。その光景の前で、息が浅くなった。


 ここは、何。


 答えを探している場合ではなかった。


 声は、ここから届いた。娘の声が。なら、娘はここにいる。


 キャロルは足を踏み出した。


 一台ずつ、顔を見ていく。眠った顔。知らない顔。年老いた人。若い人。みんな管に繋がれて、ただ眠っている。


 知らない。知らない。知らない。


 列は長かった。奥の端が、暗くて見えない。それでも歩いた。一台、また一台。緑の非常灯の下で、顔を確かめながら。


 ——アリス。どこ。


 声には出さなかった。出せば、誰かに聞かれる気がした。


 いちばん古い一画に来た。


 ほかより寝台が古い。管の繋ぎ目が黄ばんでいる。長くここにいる者たちだ。


 その奥のほう。一台の前で、キャロルの足が止まった。


 痩せた少女が、横たわっていた。


 頬がこけていた。腕は、骨の形がわかるほど細い。ずっと使われなかった体。動かされることのなかった、一年分の体。


 その顔を、キャロルは知っていた。


 知らないはずがなかった。


 十六年、毎朝見た顔だった。髪を梳いてやった。熱を出せば額に手を当てた。塾へ送り出した。事故の日、迎えに行こうかと訊いて——いい、と断られた、あの声の持ち主。


 アリス。


 死んだはずの娘。車だけが見つかって、体は戻らなかった、娘。


 その娘が、ここにいた。


 後頭部から、太い管が伸びていた。髪の下に潜り込んで、どこまでが頭で、どこからが管か、わからない。皮膚と混ざっていた。


 口の脇に、管を抜いた痕があった。乾いた、薄い汚れ。鼻にも。胸には、剥がされた電極の痕が三つ。右腕の内側に、点滴の針を抜いた、小さな血の痕。


 寝台の縁に、抜かれた管がいくつも垂れていた。


 ——自分で。


 キャロルの喉が鳴った。


 この子は、自分で抜いたのだ。目を覚まして、たった一人で。動かない腕で、この管を一本ずつ。誰もいない場所で。


 腰の奥には、まだ抜けなかった管が残っている。手が届かなかったのだ。届かないところで、この子は諦めるしかなかった。


 一人で。ずっと。


 キャロルは、膝から崩れた。


 すぐそこだった。すぐ足の下に、この子はいた。一年。自分が毎朝この建物に来て、暗号を組んで、コーヒーを飲んでいた、そのあいだずっと。


 この足の下で。一人で。


 手を伸ばした。頬に触れたかった。髪に。一年ぶりに。


 その手が、止まった。


 後頭部の太い管。腕の点滴の痕。腰の、抜けなかった管。


 技術者の頭が、止めた。


 これは、ただ繋がれているのではない。この管は、この子の生きる仕組みと混ざっている。一年かけて、混ざってしまっている。乱暴に触れれば——抜けば。


 とりわけ、後頭部のあの太い管。あれは、頭の奥——脳のいちばん深いところへ通じている。手が触れて、わずかにでもずれたら。


 わかってしまった。わかりたくなかった。


 触れられない。抱きしめることができない。すぐそこにいる娘に、手を伸ばせない。


 それでも。


 声だけは、止められなかった。


 「……アリス」


 そのとき。


 足音がした。


 自分が下りてきた道ではない。別の方から。硬い床を踏む音。ひとつ、またひとつ。まっすぐ、こちらへ。


 キャロルの背が、こわばった。


 誰か、来る。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ