Episode 53|触れられない
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マコトは、正規の道を下りきった。
彼だけが通れる階段。網に映らない、もう一つの道。
あの区画に、キャロルがいる。網から消えたということは、そこへ行ったということだ。古い記録を漁り、古い鍵を見つけた。彼女ならできる。暗号を、誰よりも知っている人だから。
なぜ、そこへ。何を見つけた。
あそこには、見せてはいけないものがある。誰にも。とりわけ、彼女には。
最奥の扉に、鍵をかざした。彼だけが通れる、正規の鍵を。
扉が、開いた。
冷気と、低い機械音。マコトは、暗がりへ足を踏み入れた。いちばん古い区画は、奥にある。迷わず歩き出した。
■
届いたのか、どうか。わからないままだった。
声を置いた。あの灯りのいちばん深いところへ。それきり、何も返ってこない。
アリスは寝台の上で目を閉じていた。
力が、残っていなかった。指一本、動かせない。あの道を最後まで通って、母の場所の扉を開けて、声を置いて——使い果たした。腕は寝台に沈んだまま、起こそうとしても起きない。
後頭部の管が、まだ熱を持っていた。掴まれた痕。灼けた痕。
光は変わらない。音も変わらない。低い機械の音が、途切れずに鳴っている。
ただ、ケイの気配だけが、細い糸の向こうにまだあった。それだけが頼りだった。
——届いたでしょうか。
返事はない。
そのときだった。
いつもと違う気配がした。
これまでも、気配はあった。並んだ息。管に繋がれた、たくさんの人の。遠い、眠ったままの息。温度のない機械の音。
でも、これは違った。
近い。生きている。眠っていない。こちらへまっすぐ近づいてくる。
◆
ケイは、流れの手前で待っていた。
声を届けたあと、道を閉じた。アリスの意識を、体へ戻した。
閉じるとき、戻り道に、印を残した。自分たちが通ったこの道を、別の誰かが正規の鍵で辿ってきたら、それとわかるように。侵入は、いつか気づかれる。追ってくるとすれば、同じ道だ。そう思って、残した。
その印が、いま、応えた。
誰かが、正規の鍵で経路に触れた。資格のある鍵だ。迷いがない。関門をひとつずつ正しく通りながら、奥へ——アリスの眠る、いちばん奥へ向かっている。
ケイに読めるのは、そこまでだった。印の震え。鍵の正しさ。けれど、それを使っているのが誰なのかは、掴めない。温度のない手つきだった。
止められない。経路は読める。鍵も作れる。だが、正しい鍵で下りてくる者を、押し返す手はない。ケイの意識は、糸のずっと手前にある。向こうの現場に、手を伸ばせない。
——間に合うか。
ケイは、糸の向こうへ呼びかけた。
「アリス。誰か来る」
声に、力を込めた。
「正規の鍵で、奥へ来る。気をつけろ」
届けることしか、できなかった。守ってやれる場所に、ケイはいない。
■
誰か来る、とケイは言った。
アリスは身を固くした。逃げられない。動けない体で、できることは何もない。声も、出せない。ただ、近づいてくる気配を、感じているしかなかった。
気配が、すぐそこに来た。
アリスは目を開けた。
薄く。光がしみた。
顔があった。逆光だった。緑の灯りを背に、表情は見えない。
誰、と思う間もなかった。
「……アリス」
声が、降ってきた。
その声を、アリスは知っていた。一年、聞かなかった声。塾へ送り出してくれた声。事故の朝、迎えに行こうか、と訊いた、あの声。
母だ。
間違えようがなかった。毎日聞いて、ある日から聞けなくなった声。
——お母さん。
声を返そうとした。出なかった。喉が、形を作れない。
手を伸ばそうとした。動かなかった。腕は寝台に沈んだまま。
それでも、アリスは母を見ていた。逆光で、顔は見えない。それでも、目だけが母を捉えていた。瞬きも惜しかった。
届いたのだ。声は、届いたのだ。だから母は、ここにいる。
涙が、こめかみを伝って耳のほうへ落ちた。それだけが、動いた。
♣
キャロルの足が、動かなかった。
数えきれないほどの人が、管に繋がれて眠っている。その光景の前で、息が浅くなった。
ここは、何。
答えを探している場合ではなかった。
声は、ここから届いた。娘の声が。なら、娘はここにいる。
キャロルは足を踏み出した。
一台ずつ、顔を見ていく。眠った顔。知らない顔。年老いた人。若い人。みんな管に繋がれて、ただ眠っている。
知らない。知らない。知らない。
列は長かった。奥の端が、暗くて見えない。それでも歩いた。一台、また一台。緑の非常灯の下で、顔を確かめながら。
——アリス。どこ。
声には出さなかった。出せば、誰かに聞かれる気がした。
いちばん古い一画に来た。
ほかより寝台が古い。管の繋ぎ目が黄ばんでいる。長くここにいる者たちだ。
その奥のほう。一台の前で、キャロルの足が止まった。
痩せた少女が、横たわっていた。
頬がこけていた。腕は、骨の形がわかるほど細い。ずっと使われなかった体。動かされることのなかった、一年分の体。
その顔を、キャロルは知っていた。
知らないはずがなかった。
十六年、毎朝見た顔だった。髪を梳いてやった。熱を出せば額に手を当てた。塾へ送り出した。事故の日、迎えに行こうかと訊いて——いい、と断られた、あの声の持ち主。
アリス。
死んだはずの娘。車だけが見つかって、体は戻らなかった、娘。
その娘が、ここにいた。
後頭部から、太い管が伸びていた。髪の下に潜り込んで、どこまでが頭で、どこからが管か、わからない。皮膚と混ざっていた。
口の脇に、管を抜いた痕があった。乾いた、薄い汚れ。鼻にも。胸には、剥がされた電極の痕が三つ。右腕の内側に、点滴の針を抜いた、小さな血の痕。
寝台の縁に、抜かれた管がいくつも垂れていた。
——自分で。
キャロルの喉が鳴った。
この子は、自分で抜いたのだ。目を覚まして、たった一人で。動かない腕で、この管を一本ずつ。誰もいない場所で。
腰の奥には、まだ抜けなかった管が残っている。手が届かなかったのだ。届かないところで、この子は諦めるしかなかった。
一人で。ずっと。
キャロルは、膝から崩れた。
すぐそこだった。すぐ足の下に、この子はいた。一年。自分が毎朝この建物に来て、暗号を組んで、コーヒーを飲んでいた、そのあいだずっと。
この足の下で。一人で。
手を伸ばした。頬に触れたかった。髪に。一年ぶりに。
その手が、止まった。
後頭部の太い管。腕の点滴の痕。腰の、抜けなかった管。
技術者の頭が、止めた。
これは、ただ繋がれているのではない。この管は、この子の生きる仕組みと混ざっている。一年かけて、混ざってしまっている。乱暴に触れれば——抜けば。
とりわけ、後頭部のあの太い管。あれは、頭の奥——脳のいちばん深いところへ通じている。手が触れて、わずかにでもずれたら。
わかってしまった。わかりたくなかった。
触れられない。抱きしめることができない。すぐそこにいる娘に、手を伸ばせない。
それでも。
声だけは、止められなかった。
「……アリス」
そのとき。
足音がした。
自分が下りてきた道ではない。別の方から。硬い床を踏む音。ひとつ、またひとつ。まっすぐ、こちらへ。
キャロルの背が、こわばった。
誰か、来る。




