Episode 52|地下
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娘は、この足の下にいる。
キャロルは端末を机に置いたままにした。
持っていけば、印が居場所を知らせる。ならば、置いていく。
古い図面を一枚だけ手に取った。誰も電子化しなかった、紙のままの図面。
廊下に出た。非常灯の緑。早朝の研究棟は、まだ眠っている。
図面の道をたどる。見慣れた廊下を一本逸れると、空気が変わった。
古い区画だった。
壁のタイルは黄ばみ、目地が黒い。配管がむき出しで天井を這う。新しい棟の磨かれた白い廊下とはまるで違う。ここだけ、時間が止まっていた。
——この建物は、古い。
ルッキンググラスがまだ小さかった頃。世界を変えるより前。
体内チップが、スマホを過去にした。いまや世界中の通信が、この会社の暗号の上で動いている。
その始まりがこの建物だった。会社は大きくなり、新しい棟がいくつも建った。本社も移った。なのに、ここだけは残された。
なぜ。
建て替えればいい。古い建物など壊してしまえばいい。世界的な企業にその金がないはずがない。
なのに、残してある。
——動かせない何かがあるからだ。
キャロルは足を止めた。
動かせないもの。新しい棟に移せないもの。だから建物ごとここに置いておくしかないもの。
それが、地下にある。声があの地下から届いた。窓口さえない、誰も知らない場所から。
背筋を冷たいものが伝った。
図面の示す先に扉があった。
保守用の古い扉。電子の鍵がついている。だが新しいものではない。ずっと昔の方式。キャロルがまだ駆け出しだった頃に使われていた認証だ。
今のセキュリティは、ケイの理論を組み込んだ動的な鍵で守られている。絶えず変わり続ける、破れない鍵。マコトが固めたのも、その最新の網だ。
だが、この扉は違う。
こんな古い鍵のことなど、誰も覚えていない。台帳の隅で忘れられたまま生きている。
キャロルはその古い鍵の前に立った。
皮肉だった。最新の鍵は誰にも破れない。けれど、いちばん古い鍵はそれを知っている人間にしか開けられない。
そして自分は、知っている。
指が動いた。古い手順を体が覚えていた。
かちり、と音がした。
扉が開いた。
その奥に、下りる階段があった。
足元から、かすかな風が這い上がってくる。
キャロルは振り返った。誰もいない。緑の灯りだけ。
ここから先は、もう誰も見ていない。網の外だ。
一段、下りた。
階段は思ったより長かった。
下りるごとに、空気が冷えていく。匂いが変わる。消毒のつんとした匂い。それから低い音。空調のファンのような音。ずっと途切れずに鳴っている。
壁が変わった。
黄ばんだタイルではない。灰色の継ぎ目のない壁。冷たく清潔で、無機質な。
窓はない。時間も季節もない場所。
階段を下りきると、扉があった。
さっきの古い扉とは違う。新しい。けれどこの奥が、図面の終わり。声の届いた場所。
キャロルは手をかけた。
鍵は、かかっていなかった。内側から出る者は、いないのだろう。
扉を押した。
暗かった。
非常灯のわずかな光。冷気。低い機械音。
目が慣れてくる。
並んでいた。
何かが等間隔に。いくつも。いくつも。奥行きの端が見えないほど。
ベッドのような、何か。
その一つひとつに——人が横たわっていた。
一人ではない。二人でも、三人でもない。
数えきれないほどの人が、管に繋がれて眠っていた。
病院ではない。研究所のどんな設備でもない。こんな場所を、自分はひとつも知らなかった。
ここは——何。
キャロルの足が動かなかった。
♠
マコトの端末に報告が上がっていた。
キャロルの端末に仕掛けた印。それが、彼女の動きを伝えてきていた。深夜から早朝にかけて、彼女の権限が古い記録に何度も触れていた。設備の。保守の。意味のない古い紙の控え。
なぜ、そんなものを。
そして痕跡は、ふつりと途切れていた。
端末は止まっている。机に置かれたまま。彼女はそれを置いてどこかへ行った。
位置がつかめない。
マコトは監視の網を呼び出した。最新の隙のない網。社内のどこにいても、人ひとりの動きは追える。
だが、キャロルはどこにもいなかった。
網のどこにも映らない。
まるで、この建物の網のかからない場所へ消えてしまったように。
マコトの指が止まった。
——まさか、あの区画に。
穏やかな顔から表情が消えた。
マコトは椅子を引いた。地下へは、正規の道がある。彼だけが通れる道が。




