Episode 51|影
♣
窓の外は、まだ暗い。
端末の光だけがキャロルの顔を青く照らしていた。
端末は開く。指紋を当てれば、いつもどおり画面が立ち上がる。日々の仕事に使う権限は、何も変わっていない。
変わったのは一か所だけだった。
さっき入ろうとしたあの地下区画への道。そこへ手を伸ばすたびに、画面は同じ一行を返す。
『アクセスが拒否されました』
だが、開く扉だけが扉ではない。閉じた扉の形を読むこともできる。十七年、それを仕事にしてきた。
いまは、読むことだ。
さっきの、マコトの言葉。私が何も言わないうちに、彼は「君の端末も調べる」と言った。なぜ、私の端末だと分かったのか。
まず、誰が自分のアクセスを止めたのか。
ふだん社内のシステムに侵入があれば、動くのはセキュリティの部署だ。周のところ。手順が決まっている。番号が振られる。権限が凍結され、記録が残る。被害者も加害者も、同じ網の上で扱われる。それが正しいやり方だった。
キャロルは自分の権限に残った凍結の痕跡をたどった。
番号が、なかった。
インシデント番号がない。セキュリティの処理を経ていない。手順を飛ばして、誰かが自分の権限だけを止めていた。
その誰かの印が命令の末尾に残っていた。
マコト。
キャロルは息を止めた。
侵入があった、とマコトは言った。だから君の端末も調べる、と。穏やかな声で。筋は通っていた。
だが、筋が通ることと、正しいことは違う。
侵入を調べるなら、なぜ正規の手順を踏まない。なぜ周の部署を通さず、自分ひとりの権限でこっそり止める。
止められた範囲をもう一度たどった。
やはり、あの地下区画への道だけ。ほかはどこも触られていない。狙ったように、そこだけが断たれている。
侵入者を追うなら、入口を塞ぎ、出口を見張り、足あとをたどる。だが断たれていたのは入口でも出口でもなかった。地下へ続く、ただ一本の道。
これは、侵入者を捕まえる動きではない。
私を、あの場所から遠ざける動きだ。
胸の奥が冷えた。
キャロルはもう一歩踏み込んだ。地下区画そのものの記録に触れようとした。誰が出入りし、何があるのか。
届かなかった。
記録そのものが外から見えないように遮断されていた。ふつうの機密ではない。機密には手続きがある。申請すれば「見る資格がない」と返ってくる。だがここは、申請の窓口さえなかった。はじめから、存在しないことになっている場所。
その遮断を握るのもごく少数の最上位だけだった。
その中に、マコトがいた。
十七年、この建物にいた。隅々まで知っているつもりだった。なのに、自分のすぐ足の下に窓口さえない区画があった。何のための場所か、誰がいるのか、わからない。
その場所から、娘の声が届いた。
そしてその道を、マコトが塞いでいる。
キャロルは、自分の端末そのものを調べた。
——見張られているなら、痕跡がある。
あった。小さな印。いつ端末に触れ、何を見ようとしたか。それがひそかにどこかへ送られていた。送り先はたどれなかった。だが、たどれないように作れる者は限られている。
侵入者ではなく、私が見張られている。
被害者のはずの、私が。
キャロルは椅子の背に手をかけた。立っているのが少しつらかった。
マコト。
十七年、そばにいた人。ケイが消えたとき、「海外の研究機関へ行った、連絡もしないでくれと言っていた」と教えてくれた人。アリスがいなくなったときも、誰より親身に力を貸してくれた人。無理をするな、と言ってくれた人。
その同じ人がいま、娘の声の出どころを私から隠している。
——マコト。あなたは、何を知っているの。
声には出さなかった。出せなかった。
考えすぎ、かもしれない。番号のない命令も、断たれた道も、見張りの印も、ひとつずつなら別の説明がつくのかもしれない。緊急だったから手順を飛ばした。危ないから近づけたくない。心配だから見ている。全部、優しさで説明がつく。
つくはずだった。
なのに、ひとつに繋がってしまった。番号のない命令。断たれた道。見張りの印。ばらばらだった点が、一本の線になる。——マコトが、私をあの地下から遠ざけようとしている。一度そう見えると、もう、ほどけない。
ここまで、この人の言葉を通して世界を受け取ってきた。ケイのことも。アリスのことも。もし、その言葉が——。
そこで、止めた。
まだ、わからない。証拠と呼べるものは何もない。あるのは、断たれた道と、消えない棘だけ。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
娘の声は、あの地下から届いた。生きて、すぐそこにいる。そして誰かが、そこへの道をひとつ残らず塞ごうとしている。
なら、塞ぎ忘れた道を探すだけだ。
正面の扉は全部閉じられた。けれど、こういう建物には誰も気にとめない道が必ずある。古い道。使われなくなって台帳の隅に残ったままの道。
設備の保守。外部への委託。建物は古くなれば必ず手を入れる。配管も、配線も、空調も。その作業の記録は機密の網とは別の場所に、雑然と積み上がっている。誰も隠そうと思わないから、隠されていない。
見張られているのは、わかっている。指を動かすたび、印が誰かに届くのも。それでも止めなかった。十七年、ケイの遺した鍵に触れてきた手だ。閉じたものを読むだけが仕事ではない。閉じたものの隙間を見つけるのが、仕事だ。
キャロルは古い記録の山を一枚ずつめくっていった。地上の階。どれも、見慣れた場所だ。
この建物は古い。ルッキンググラスがまだ小さかった頃から使っている。何度も新しい棟が建ったのに、ここだけはずっとそのままだった。
——そして、ある一行で指が止まった。
ずっと昔の設備の図面。そこに、地下へ下りる一本の保守通路が残っていた。あの窓口さえない区画へ続く道。
今の警備の網には載っていない。




