Episode 50|動く
♣
「キャロル」
マコトだった。
廊下の向こうから歩いてくる。スーツ姿。こんな時刻に、髪も乱れていない。いつもの穏やかな顔だった。
「こんな時間に、どうした」
その声はいつもどおり優しかった。アリスがいなくなったときも、この声で何度も支えてくれた。
キャロルは口を開きかけた。
——娘の声が、届いた。
そう言いかけて、止まった。
なぜ止まったのか、自分でもわからなかった。マコトは信頼できる人だ。ケイを知る数少ない人。なのに——
マコトの視線が一瞬、キャロルの後ろの扉に動いた。ほんの一瞬。それから、キャロルに戻った。
「眠れなくて」
キャロルはそう言った。娘のことは、言わなかった。
「少し、仕事をしようと思って」
「そうか」
マコトは頷いた。だがその目は、キャロルの背後の扉を、もう一度確かめていた。
「実は、ゆうべ、面倒なことがあってね」
「面倒なこと?」
「侵入があった。社内のシステムに。外部から、誰かが入り込もうとした」
キャロルの心臓が跳ねた。
侵入。ゆうべ。自分の端末に残っていた、あのログ。未明のアクセス。
「君の端末も、調べさせてもらうことになる。権限者の認証が、いくつか洗われていてね。念のためだ」
マコトの声は穏やかだった。
「だから、この区画にはしばらく近づかないでくれ。調査中だ。危険もある。私が責任を持って処理する」
キャロルは扉を見た。
開かない扉。一年、考えもしなかった場所。その向こうに、娘がいる。そう確信していた。
その扉を、マコトは「近づくな」と言っている。
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キャロルが立ち去るのを、マコトは見送った。
廊下の角を曲がり、その背が見えなくなるまで。
それから、端末を取り出した。
——なぜ、キャロルがあそこに。
ゆうべの侵入。周からの報告では、最奥の端末が深夜に起動した。本人認証の一台。権限者は不在。なのに、正規の認証を通って開いた。
鍵が盗まれた。周はそう結論づけた。外部の誰かが権限者の認証を複製し、忍び込んだ。その権限者が、キャロルだった。
マコトは、それ自体は疑っていなかった。キャロルは何も知らない。施設のことも。あの扉の奥に何が並んでいるかも。キャロルはただの暗号屋だ。ケイの遺した式を撫でているだけの。
だが、なぜ、よりによってあの扉の前にいた。
偶然か。
マコトは少し考えた。偶然だろう。眠れずに、ふらりと来た。それだけだ。キャロルがあの奥を疑う理由はない。
それでも、念のためだ。
マコトは指を動かした。
——キャロルのアクセス権限を制限。あの区画への立ち入りを記録。動きを見ておけ。
送信した。事務的な処理だった。
キャロルを疑いたくはなかった。
十七年。ケイが消えてから、ずっとそばにいた。支えてきた。彼女が娘を失ったときも。誰よりも近くにいた。
ケイがいなくなった日から、この場所を埋めてきたのは自分だ。なのにキャロルは、いまだにケイの遺した式ばかり見ている。あの男は、消えてもなお、彼女の中にいる。
——あと、少しなんだ。
キャロルがすべてを忘れて、自分のほうを向く日。それまで、彼女に何も知られてはいけない。あの扉の奥のことも。ケイのことも。あの娘の、本当の居場所も。
知れば、キャロルは自分を許さない。だから隠し通す。最後まで。それが愛情なのだと、マコトは信じていた。
侵入者のことは、心配していなかった。せいぜい、それだけのことだ。あの奥の本当の中身までは、たどり着けない。何重もの壁がある。
それに、とマコトは思った。
あの娘は眠っている。ずっと。鍵と認証は一対だ。あの娘だからこそ、ケイの鍵を証明できる。その認証が、今も止まっていない。なら、あの娘は変わらず眠ったまま役目を果たしている。
——そう、信じて疑わなかった。
マコトはそれ以上、考えなかった。考える必要がなかった。
♣
部屋に戻った。
キャロルは椅子に座らなかった。
マコトの言葉が頭の中で回っていた。侵入。調査。近づくな。私が処理する。
すべて筋が通っていた。優しさも、いつもどおりだった。
なのに。
——なぜ私は、娘のことを言わなかった。
信頼している。はずだった。なのに、とっさに言葉を飲み込んだ。体が先に知っていた気がした。言ってはいけない、と。
それに——マコトは、私が何も言わないうちに「君の端末も調べる」と言った。なぜ、私の端末だとわかったのだろう。考えすぎ、かもしれない。でも、小さな棘のように、それは残った。
キャロルは端末に向かった。指紋で画面が開く。
だが、声の届いたあの区画へ入ろうとした手が止まった。
画面に、短い一行。
『アクセスが拒否されました』
さっきまで自分の権限で通っていた経路が、はじかれている。
——制限、された。
マコトの言った「調査」。その名目で、自分のアクセスが止められていた。
胸が冷えた。
侵入を調べるなら、なぜ私の権限を止める。私は被害者のはずだ。なのに、まるで——私を、何かから遠ざけるように。
キャロルは立ち上がった。
娘の声が届いた。あの台所のやり取りを知っているのは、あの子だけだ。生きて、この建物の中にいる。それだけは確かだ。
そして今、誰かがそれを隠そうとしている。
——わかった。
正面から開かないなら、別の道を探す。暗号を十七年扱ってきた。閉じた扉を開ける方法なら、知っている。
ケイが、いつか言った。
——この鍵は、開ける人のためにある。正しい人にだけは、開く。
私は、正しい人だ。あの子の、母親だ。
キャロルは実験衣を脱いだ。椅子の背に掛けた。それから、もう一度、端末の前に座った。
今度は、被害者としてではなく。
——迎えに、行く。
指が、動きはじめた。




