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Episode 50|動く


 「キャロル」


 マコトだった。


 廊下の向こうから歩いてくる。スーツ姿。こんな時刻に、髪も乱れていない。いつもの穏やかな顔だった。


 「こんな時間に、どうした」


 その声はいつもどおり優しかった。アリスがいなくなったときも、この声で何度も支えてくれた。


 キャロルは口を開きかけた。


 ——娘の声が、届いた。


 そう言いかけて、止まった。


 なぜ止まったのか、自分でもわからなかった。マコトは信頼できる人だ。ケイを知る数少ない人。なのに——


 マコトの視線が一瞬、キャロルの後ろの扉に動いた。ほんの一瞬。それから、キャロルに戻った。


 「眠れなくて」


 キャロルはそう言った。娘のことは、言わなかった。


 「少し、仕事をしようと思って」


 「そうか」


 マコトは頷いた。だがその目は、キャロルの背後の扉を、もう一度確かめていた。


 「実は、ゆうべ、面倒なことがあってね」


 「面倒なこと?」


 「侵入があった。社内のシステムに。外部から、誰かが入り込もうとした」


 キャロルの心臓が跳ねた。


 侵入。ゆうべ。自分の端末に残っていた、あのログ。未明のアクセス。


 「君の端末も、調べさせてもらうことになる。権限者の認証が、いくつか洗われていてね。念のためだ」


 マコトの声は穏やかだった。


 「だから、この区画にはしばらく近づかないでくれ。調査中だ。危険もある。私が責任を持って処理する」


 キャロルは扉を見た。


 開かない扉。一年、考えもしなかった場所。その向こうに、娘がいる。そう確信していた。


 その扉を、マコトは「近づくな」と言っている。




 キャロルが立ち去るのを、マコトは見送った。


 廊下の角を曲がり、その背が見えなくなるまで。


 それから、端末を取り出した。


 ——なぜ、キャロルがあそこに。


 ゆうべの侵入。周からの報告では、最奥の端末が深夜に起動した。本人認証の一台。権限者は不在。なのに、正規の認証を通って開いた。


 鍵が盗まれた。周はそう結論づけた。外部の誰かが権限者の認証を複製し、忍び込んだ。その権限者が、キャロルだった。


 マコトは、それ自体は疑っていなかった。キャロルは何も知らない。施設のことも。あの扉の奥に何が並んでいるかも。キャロルはただの暗号屋だ。ケイの遺した式を撫でているだけの。


 だが、なぜ、よりによってあの扉の前にいた。


 偶然か。


 マコトは少し考えた。偶然だろう。眠れずに、ふらりと来た。それだけだ。キャロルがあの奥を疑う理由はない。


 それでも、念のためだ。


 マコトは指を動かした。


 ——キャロルのアクセス権限を制限。あの区画への立ち入りを記録。動きを見ておけ。


 送信した。事務的な処理だった。


 キャロルを疑いたくはなかった。


 十七年。ケイが消えてから、ずっとそばにいた。支えてきた。彼女が娘を失ったときも。誰よりも近くにいた。


 ケイがいなくなった日から、この場所を埋めてきたのは自分だ。なのにキャロルは、いまだにケイの遺した式ばかり見ている。あの男は、消えてもなお、彼女の中にいる。


 ——あと、少しなんだ。


 キャロルがすべてを忘れて、自分のほうを向く日。それまで、彼女に何も知られてはいけない。あの扉の奥のことも。ケイのことも。あの娘の、本当の居場所も。


 知れば、キャロルは自分を許さない。だから隠し通す。最後まで。それが愛情なのだと、マコトは信じていた。


 侵入者のことは、心配していなかった。せいぜい、それだけのことだ。あの奥の本当の中身までは、たどり着けない。何重もの壁がある。


 それに、とマコトは思った。


 あの娘は眠っている。ずっと。鍵と認証は一対だ。あの娘だからこそ、ケイの鍵を証明できる。その認証が、今も止まっていない。なら、あの娘は変わらず眠ったまま役目を果たしている。


 ——そう、信じて疑わなかった。


 マコトはそれ以上、考えなかった。考える必要がなかった。




 部屋に戻った。


 キャロルは椅子に座らなかった。


 マコトの言葉が頭の中で回っていた。侵入。調査。近づくな。私が処理する。


 すべて筋が通っていた。優しさも、いつもどおりだった。


 なのに。


 ——なぜ私は、娘のことを言わなかった。


 信頼している。はずだった。なのに、とっさに言葉を飲み込んだ。体が先に知っていた気がした。言ってはいけない、と。


 それに——マコトは、私が何も言わないうちに「君の端末も調べる」と言った。なぜ、私の端末だとわかったのだろう。考えすぎ、かもしれない。でも、小さな棘のように、それは残った。


 キャロルは端末に向かった。指紋で画面が開く。


 だが、声の届いたあの区画へ入ろうとした手が止まった。


 画面に、短い一行。


 『アクセスが拒否されました』


 さっきまで自分の権限で通っていた経路が、はじかれている。


 ——制限、された。


 マコトの言った「調査」。その名目で、自分のアクセスが止められていた。


 胸が冷えた。


 侵入を調べるなら、なぜ私の権限を止める。私は被害者のはずだ。なのに、まるで——私を、何かから遠ざけるように。


 キャロルは立ち上がった。


 娘の声が届いた。あの台所のやり取りを知っているのは、あの子だけだ。生きて、この建物の中にいる。それだけは確かだ。


 そして今、誰かがそれを隠そうとしている。


 ——わかった。


 正面から開かないなら、別の道を探す。暗号を十七年扱ってきた。閉じた扉を開ける方法なら、知っている。


 ケイが、いつか言った。


 ——この鍵は、開ける人のためにある。正しい人にだけは、開く。


 私は、正しい人だ。あの子の、母親だ。


 キャロルは実験衣を脱いだ。椅子の背に掛けた。それから、もう一度、端末の前に座った。


 今度は、被害者としてではなく。


 ——迎えに、行く。


 指が、動きはじめた。


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