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Episode 49|キャロル


 廊下は暗かった。


 非常灯の緑だけが等間隔に灯っている。キャロルは早足で歩いていた。実験衣のまま。どこへ行くとも決めずに。


 数歩で、足が止まった。


 ——どこへ。


 いても立ってもいられず、部屋を出た。だが、どこへ行けばいいのか。この建物は広い。階がいくつもある。研究棟だけで何百人が働いている。そのどこかに娘がいる。それしかわからない。


 一年前と同じだった。


 あの日も、こうして走り出した。警察に電話して、車で街を回って、あの子の名前を呼んで。どこにもいなかった。事故現場には車だけが残されていた。あの子は、いなかった。


 走っても、走っても、たどり着かない。


 その感覚を体が覚えていた。


 キャロルは壁に手をついた。冷たかった。膝がわずかに落ちそうになる。


 ——また、なのか。


 また走って。また見つからなくて。またあの部屋に一人で戻るのか。


 違う。


 キャロルは奥歯を噛んだ。今度は違う。あの子は生きている。声が届いた。あの台所のやり取りを知っているのは、あの子だけだ。


 なら、闇雲に走っても駄目だ。


 落ち着け。技術者だろう。手がかりからたどれ。


 キャロルは壁から手を離した。深く息を吸った。




 ケイと出会ったのは十七年前の春だった。


 日本に来たばかりで、勝手がわからなくて。研究室で誰ともうまく話せずにいた。異国の言葉と、異国の数式。どちらも半分しか、わからなかった。


 そんなとき、ケイが隣に座った。


 キャロルが解けずにいた式の続きを、何も言わずに書いた。書いて、また自分の論文に戻っていった。


 それが、はじまりだった。


 ケイは変わった人だった。口数が少なくて。説明をしなかった。ただ、数字の話をするときだけ、少しだけ饒舌になった。鍵と、鍵穴の話。


 ——この鍵は、開ける人のためにある。


 ケイは言った。


 ——どんなに複雑でも、正しい人にだけは開く。そういうふうに作る。


 その横顔を、覚えている。


 二人でたくさんの式を書いた。ケイの理論は誰よりも先を行っていた。動的に変わり続ける鍵。止まれば破られる。走り続けることで守る。


 学会で、ケイの発表は評価された。


 桜の咲く頃、キャロルは伝えようとしたことがあった。


 お腹に、子がいること。


 でも、言えなかった。ケイはこれからの人だ。自分の子で、その足を止めたくなかった。


 ——あとで。


 そう言って、その日は別れた。


 あとで言おう。落ち着いたら。


 その「あとで」は、来なかった。


 ケイが、消えたからだ。


 卒業の数日前。研究室からいなくなった。連絡がつかなくなった。荷物も、そのまま。


 マコトが言った。ケイの、親友だった人だ。


 ——ケイは出ていったよ。急に決まったらしい。海外の研究機関に。連絡もしないでくれと。そういう奴だろ、あいつは。


 キャロルは信じられなかった。だが、ケイはそういう人でもあった。何も言わずに、式だけ解いて、去っていく。


 待っても、ケイは帰ってこなかった。


 キャロルは一人で産んだ。


 女の子だった。ケイに、よく似ていた。


 アリスと名付けた。ケイが好きだった物語の名。自分の名にも、どこか似ていた。ケイはいつか言いかけたことがある。いつか子どもができたら、と。その先は、照れたように笑って、言わなかった。


 だから、その続きを勝手に引き受けた。


 アリスは、ケイに似ていた。


 数字を見る目が。何も言わずに構造を見抜く目が。塾の問題を解けないと言いながら、本当はもっと先を見ていた。


 五つか六つの頃。買い物のレシートを指でなぞっていた。何してるの、と訊くと、あの子は笑った。おかあさん、これ、たすと、おなじになる、と。誰も教えていなかった。その横顔が、式を解くケイにそっくりだった。


 その目を見るたびに、ケイを思い出した。


 ケイが消えて、数年後。世界が変わった。


 体内チップ。脳から脳への通信。それを守る暗号。


 その根幹に、ケイの理論があった。あの研究室で、二人で書いた、あの式が。世界中の通信を守っていた。


 ルッキンググラスという会社が、それを実用化した。世界中の通信が、ケイの鍵の上で動くようになった。


 キャロルは、その会社に入った。ケイの理論を扱う仕事に。


 毎日、ケイの遺したものに触れていた。ケイはいない。どこにいるのかも、生きているのかも、わからない。だが、ケイの鍵だけが世界を動かしている。


 皮肉だ、と思った。会えない人の遺したもののそばで、その人の子を育てている。


 それでも、よかった。ケイの鍵に触れているあいだは、ケイがまだ、どこかにいる気がした。


 マコトも、同じ会社にいた。今は、上の立場にいる。キャロルを何かと気にかけてくれた。アリスがいなくなったときも、親身に力を貸してくれた。


 ——あまり、無理をするな。


 そう言ってくれた。ケイのことを知る、数少ない人だった。




 息を吐いた。


 廊下の緑の灯り。冷たい壁。


 十七年。ケイを失って、アリスを育てて。そして一年前、アリスも失った。


 二度、同じことをした。


 ケイのとき、「あとで」と言って伝えられなかった。アリスのとき、「いい」と言われて迎えに行かなかった。


 二度とも、手を伸ばさなかった。そして二度とも、失った。


 ふと、思った。


 さっきの声も。あの子の「おかあさん」も。——ケイの鍵を、通ってきたのだ。この建物の暗号は、すべてケイの理論の上にある。会えない人の遺した鍵が、娘の声を自分に届けた。そんなことも知らずに、自分は一年、その鍵に触れていた。


 ——もう、しない。


 キャロルは顔を上げた。


 今度は伸ばす。どんなに走ってもたどり着かなくても。あの子が生きているなら。すぐそばにいるなら。


 迎えに、行く。


 まず、声の出どころだ。


 あの声は、自分の端末に届いた。なら、どこかから信号が来たはずだ。キャロルは端末に戻り、崩れかけた通信の経路をたどった。


 発信元は、この建物の中だった。地下。自分の通行証では一度も入ったことのない区画。何があるのかも知らない場所。


 暗号の仕事をして十七年。この建物は知り尽くしているつもりだった。開かない扉は、ほかにもある。役員のフロア。機密のサーバー室。どれも、何があるかは見当がついた。だが、その地下の区画だけは、何のための場所か、まるで思い当たらなかった。


 キャロルは、その区画へ向かった。


 廊下の突き当たり。普段は素通りしていた、セキュリティの扉。その奥が、地下へ続いている。キャロルはその前に立った。通行証をかざした。


 赤い、ランプ。


 開かなかった。


 ——ここだ。声は、ここから来た。


 胸が鳴った。開かない扉の向こう。一年、考えもしなかった場所。そこに、何があるのか。


 そのとき、廊下の向こうから足音がした。一定の、ためらいのない足音。こんな時刻に、誰も来ないはずの場所へ、まっすぐに。


 振り返った。


 「……マコト?」


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