Episode 49|キャロル
♣
廊下は暗かった。
非常灯の緑だけが等間隔に灯っている。キャロルは早足で歩いていた。実験衣のまま。どこへ行くとも決めずに。
数歩で、足が止まった。
——どこへ。
いても立ってもいられず、部屋を出た。だが、どこへ行けばいいのか。この建物は広い。階がいくつもある。研究棟だけで何百人が働いている。そのどこかに娘がいる。それしかわからない。
一年前と同じだった。
あの日も、こうして走り出した。警察に電話して、車で街を回って、あの子の名前を呼んで。どこにもいなかった。事故現場には車だけが残されていた。あの子は、いなかった。
走っても、走っても、たどり着かない。
その感覚を体が覚えていた。
キャロルは壁に手をついた。冷たかった。膝がわずかに落ちそうになる。
——また、なのか。
また走って。また見つからなくて。またあの部屋に一人で戻るのか。
違う。
キャロルは奥歯を噛んだ。今度は違う。あの子は生きている。声が届いた。あの台所のやり取りを知っているのは、あの子だけだ。
なら、闇雲に走っても駄目だ。
落ち着け。技術者だろう。手がかりからたどれ。
キャロルは壁から手を離した。深く息を吸った。
◇
ケイと出会ったのは十七年前の春だった。
日本に来たばかりで、勝手がわからなくて。研究室で誰ともうまく話せずにいた。異国の言葉と、異国の数式。どちらも半分しか、わからなかった。
そんなとき、ケイが隣に座った。
キャロルが解けずにいた式の続きを、何も言わずに書いた。書いて、また自分の論文に戻っていった。
それが、はじまりだった。
ケイは変わった人だった。口数が少なくて。説明をしなかった。ただ、数字の話をするときだけ、少しだけ饒舌になった。鍵と、鍵穴の話。
——この鍵は、開ける人のためにある。
ケイは言った。
——どんなに複雑でも、正しい人にだけは開く。そういうふうに作る。
その横顔を、覚えている。
二人でたくさんの式を書いた。ケイの理論は誰よりも先を行っていた。動的に変わり続ける鍵。止まれば破られる。走り続けることで守る。
学会で、ケイの発表は評価された。
桜の咲く頃、キャロルは伝えようとしたことがあった。
お腹に、子がいること。
でも、言えなかった。ケイはこれからの人だ。自分の子で、その足を止めたくなかった。
——あとで。
そう言って、その日は別れた。
あとで言おう。落ち着いたら。
その「あとで」は、来なかった。
ケイが、消えたからだ。
卒業の数日前。研究室からいなくなった。連絡がつかなくなった。荷物も、そのまま。
マコトが言った。ケイの、親友だった人だ。
——ケイは出ていったよ。急に決まったらしい。海外の研究機関に。連絡もしないでくれと。そういう奴だろ、あいつは。
キャロルは信じられなかった。だが、ケイはそういう人でもあった。何も言わずに、式だけ解いて、去っていく。
待っても、ケイは帰ってこなかった。
キャロルは一人で産んだ。
女の子だった。ケイに、よく似ていた。
アリスと名付けた。ケイが好きだった物語の名。自分の名にも、どこか似ていた。ケイはいつか言いかけたことがある。いつか子どもができたら、と。その先は、照れたように笑って、言わなかった。
だから、その続きを勝手に引き受けた。
アリスは、ケイに似ていた。
数字を見る目が。何も言わずに構造を見抜く目が。塾の問題を解けないと言いながら、本当はもっと先を見ていた。
五つか六つの頃。買い物のレシートを指でなぞっていた。何してるの、と訊くと、あの子は笑った。おかあさん、これ、たすと、おなじになる、と。誰も教えていなかった。その横顔が、式を解くケイにそっくりだった。
その目を見るたびに、ケイを思い出した。
ケイが消えて、数年後。世界が変わった。
体内チップ。脳から脳への通信。それを守る暗号。
その根幹に、ケイの理論があった。あの研究室で、二人で書いた、あの式が。世界中の通信を守っていた。
ルッキンググラスという会社が、それを実用化した。世界中の通信が、ケイの鍵の上で動くようになった。
キャロルは、その会社に入った。ケイの理論を扱う仕事に。
毎日、ケイの遺したものに触れていた。ケイはいない。どこにいるのかも、生きているのかも、わからない。だが、ケイの鍵だけが世界を動かしている。
皮肉だ、と思った。会えない人の遺したもののそばで、その人の子を育てている。
それでも、よかった。ケイの鍵に触れているあいだは、ケイがまだ、どこかにいる気がした。
マコトも、同じ会社にいた。今は、上の立場にいる。キャロルを何かと気にかけてくれた。アリスがいなくなったときも、親身に力を貸してくれた。
——あまり、無理をするな。
そう言ってくれた。ケイのことを知る、数少ない人だった。
♣
息を吐いた。
廊下の緑の灯り。冷たい壁。
十七年。ケイを失って、アリスを育てて。そして一年前、アリスも失った。
二度、同じことをした。
ケイのとき、「あとで」と言って伝えられなかった。アリスのとき、「いい」と言われて迎えに行かなかった。
二度とも、手を伸ばさなかった。そして二度とも、失った。
ふと、思った。
さっきの声も。あの子の「おかあさん」も。——ケイの鍵を、通ってきたのだ。この建物の暗号は、すべてケイの理論の上にある。会えない人の遺した鍵が、娘の声を自分に届けた。そんなことも知らずに、自分は一年、その鍵に触れていた。
——もう、しない。
キャロルは顔を上げた。
今度は伸ばす。どんなに走ってもたどり着かなくても。あの子が生きているなら。すぐそばにいるなら。
迎えに、行く。
まず、声の出どころだ。
あの声は、自分の端末に届いた。なら、どこかから信号が来たはずだ。キャロルは端末に戻り、崩れかけた通信の経路をたどった。
発信元は、この建物の中だった。地下。自分の通行証では一度も入ったことのない区画。何があるのかも知らない場所。
暗号の仕事をして十七年。この建物は知り尽くしているつもりだった。開かない扉は、ほかにもある。役員のフロア。機密のサーバー室。どれも、何があるかは見当がついた。だが、その地下の区画だけは、何のための場所か、まるで思い当たらなかった。
キャロルは、その区画へ向かった。
廊下の突き当たり。普段は素通りしていた、セキュリティの扉。その奥が、地下へ続いている。キャロルはその前に立った。通行証をかざした。
赤い、ランプ。
開かなかった。
——ここだ。声は、ここから来た。
胸が鳴った。開かない扉の向こう。一年、考えもしなかった場所。そこに、何があるのか。
そのとき、廊下の向こうから足音がした。一定の、ためらいのない足音。こんな時刻に、誰も来ないはずの場所へ、まっすぐに。
振り返った。
「……マコト?」




