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48/52

Episode 48|迎え


 声を置いた。


 返ってこなかった。


 アリスは灯りのいちばん深いところに、もう一度自分の声を差し入れた。お母さん、と。


 灯りは揺れている。さっき確かに揺れた。眠っていたものの奥で、何かがひとつ目を覚ますように。それきり動かない。


 届いた。それはわかった。けれど、届いたことと伝わることは違う。ケイが前にそう言っていた。


 この灯りは母そのものではない。母が毎日、指で触れてきた場所。母のいちばん近くにあるもの。けれど、母ではない。


 ——お母さん。聞こえますか。


 呼んだ。声の出ない体で。


 後頭部の管がまだ熱を持っている。壁に掴まれた痛みが引かない。指の先が寝台の上で、かすかに震えていた。動くはずのない指が。


 それでも呼んだ。


 灯りは揺れない。


 ——わたしは、ここにいます。


 もう一度。


 怖かった。ここまで来たのに。あの壁を痛みごと抜けたのに。最後のところで母に届かないのが。差し入れた声が誰にも拾われないまま、暗いところで消えていくのが。


 一年。いや、もっと長いのか短いのか。時間の数え方をもう忘れていた。ずっと灰色の天井を見ていた。ずっとファンの音を聞いていた。そのあいだずっと、母に会いたかった。


 その思いのぜんぶを。


 アリスは灯りに預けた。


 ——おねがい。誰か。これを母に。


 灯りの奥がふっと深くなった。


 何かがその声を受け取った気がした。


 それが母なのかどうかはわからなかった。




 夜明けにはまだ間があった。


 キャロルは七〇五号室に一人でいた。窓の外はまだ暗い。研究棟の他の階は灯りが落ちたままだ。警備員のほかには、誰も来ていない時刻だった。


 眠れない夜が、もう一年も続いていた。夜中に目が覚める。天井を見る。それから起きる。布団の中にいるより、ここに来るほうがましだった。


 家には誰もいない。娘の部屋の扉は閉じたままだ。開ければあの子の匂いがする。机の上の解きかけの問題集。畳まれないままの制服。だから、開けられない。


 ここでなら、数字の中にいるあいだだけは何も考えずにすむ。体内チップの暗号の研究。世界中の脳から脳へ流れる通信を守る仕組み。それを見ているあいだは、娘のことを考えずにすむ。


 白い実験衣の袖を肘までまくった。後ろで束ねた髪が少しほつれている。鏡は、ずっと見ていない。


 端末に向かった。


 本人認証の、閉じた一台。外には繋がっていない。日中、自分の指だけが開く端末だ。中には進めかけの解析が入っている。続きをするつもりだった。


 指を当てた。開いた。


 画面の隅に、見慣れないものがひとつ灯っていた。


 ログだ。アクセスの記録。時刻は未明。ほんの数時間前。自分がまだ家の天井を見ていた時刻だった。


 キャロルの指が止まった。


 ——誰かが、開けた。


 あり得なかった。この端末を開けるのは自分の指だけだ。指紋を登録してある。複製できないはずの、それだけがこれを開ける。


 不正アクセス。


 真っ先にその言葉が浮かんだ。誰かが認証を破ったか、指紋を盗んだ。研究の中身を狙っている。体内チップの暗号は世界中の通信の根幹だ。狙う者はいくらでもいる。


 キャロルはログを隔離しようとした。痕跡を保存して、朝になったら上に報告する。——もう、上は気づいているかもしれない。この端末が夜中に開いたことに。


 指がコマンドの上で止まった。


 ログの下に、もう一つ何かが貼りついていた。


 文字だった。


 崩れていた。声にならない何かが、文字の形を取ろうとして、なりきれていない。声でもなく、文字でもない。意味をなさない羅列。ノイズ。


 その、ノイズの中に。


 ひとつだけ、読める言葉があった。


 「おかあさん」


 キャロルは画面を見つめた。


 平仮名で。たどたどしく。何度も書き直したように。「おかあさん」と。


 ——悪質だ。


 そう思おうとした。侵入者がこちらを揺さぶろうとしている。私が子どもを亡くしたことをどこかで調べて。それを餌にしている。


 よくある手だ。人のいちばん柔らかいところを突いてくる。揺さぶって判断を狂わせて、その隙に本丸を抜く。


 キャロルは奥歯を噛んだ。指がもう一度、消去のコマンドへ伸びた。


 こんなものに揺さぶられはしない。一年、耐えてきた。今さら。




 指が触れる前に。


 文字が続いた。


 ノイズの中からまた一つ、言葉が形になっていく。ゆっくりと。痛みをこらえているような途切れ方で。


 「あのとき、いいって言って、ごめんなさい」


 キャロルの指が宙で止まった。


 「むかえ行こうか、って。お母さんが言ったのに」


 息が止まった。


 あの朝。


 台所だった。コーヒーを淹れていた。あの子は塾に出かけるところだった。夜は遅くなると言うから、迎えに行こうかと訊いた。あの子は、いいと答えた。いつものように。手をわずらわせたくないという、あの子の癖だった。


 それきり、あの子は帰ってこなかった。


 その朝のやり取りを知っている者はいない。あの台所にいたのは二人だけだった。なんでもない、最後のやり取りだった。


 誰にも話していない。話せるはずがなかった。あの一言を断らなければ、と。自分を責めた夜のことを、誰にも。


 画面の文字がにじんだ。


 にじんだのは画面ではなかった。


 キャロルは片手で口を覆った。実験衣の袖が頬に触れた。


 ——そんな。


 声が漏れた。掠れていた。


 侵入者には書けない。これは誰にも書けない。あの子と自分しか知らない。盗める情報ではない。どこにも記録されていない。二人のあいだにしかなかった。


 あの子だ。




 文字がまた崩れた。信号が弱っている。届くこと自体がぎりぎりなのが、画面の乱れからわかった。


 キャロルは椅子から身を乗り出した。両手を端末の縁に置いた。技術者の手だった。何千時間も鍵盤の上を動いてきた手だった。


 その手が震えていた。


 ——どこ。あなた、どこにいるの。


 訊きたかった。だが、この端末は受けるだけだ。こちらから返す道がない。外と繋がっていない一台。そう作ったのは自分だ。安全のために。その安全が、今は壁だった。


 それでも口が動いた。


 「アリス」


 誰もいない部屋で声に出した。


 「アリス。聞こえてる?」


 画面の崩れた文字が、最後にひとつ束になった。


 今度はさっきよりはっきりしていた。届く力の残りぜんぶを、その一言に集めたように。


 「おかあさん、たすけて」


 そして。


 「わたし、お母さんの、かいしゃの、なかに、います」


 キャロルは画面を見た。


 会社の中。


 この建物の。自分が毎晩、眠れずに座っているこの場所の。どこかに。あの子が。


 ——まさか。


 そんなはずはない。ここはただの研究棟だ。暗号を組む人間が机に向かっているだけの場所だ。人を隠せる場所などない。あるはずがない。


 ——いや。


 ただの研究棟。そのはずだった。けれど、この建物には自分の通行証で開かない扉がいくつもある。何を置いているのか、訊いたことすらなかった。考えたこともなかった。


 一年。どこを探してもいなかった。警察も半年で動かなくなった。事故のあと、あの子は跡形もなく消えた。車だけが見つかって、あの子は戻らなかった。遺体すら。


 その娘が。


 すぐそばに。生きて。


 キャロルは立ち上がった。


 椅子が後ろに倒れた。音が響いた。誰もいない廊下にまで。


 「——アリス?」


 声が震えた。


 「生きてるの。あなた、生きて——ここに、いるの」


 返事はなかった。画面の文字は、もう崩れて消えかけていた。最後の光がひとつ、またひとつ暗くなっていく。


 だが、キャロルはもう座らなかった。


 消えていく文字に手を伸ばした。画面に触れた。冷たいガラスの感触だけが指に返った。その向こうにあの子がいる。ガラス一枚のずっと向こうに。


 「待ってて」


 声に出した。誰にともなく。


 「お母さんが、行くから」


 実験衣のまま、端末の前を離れた。一年ぶりに、足が迷わなかった。


 どこにいるかはわからない。この建物のどこに。なぜ。誰が。何のために。


 わからないことはぜんぶ後だ。


 あの子が生きている。


 それだけで、もう十分だった。


 扉に手をかけて、一度だけ振り返った。倒れた椅子。消えかけた画面。一年、自分を閉じ込めてきたこの部屋を。


 それから、廊下へ踏み出した。


 夜明けは、まだ来ていなかった。


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