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Episode 47|届く


 壁は、閉じたままだった。


 ケイは、その面をもう一度、端から読んだ。継ぎ目という継ぎ目に、隙がある。どれも読める。読めて、しまう。読めるものは、全部罠だ。さっき、その一つがアリスを握り込んだ。


 読めない場所を探す。だが、隅から隅まで読めた。


 ——どこに、読めない一手がある。


 ケイは、考えを組み直した。罠は、なんのためにある。獲物を、逃がさないためだ。逃がさないためには、必ず一本、本物の道がいる。掴むための道。捕らえたものを、奥へ引き込むための道。


 その一本だけは、嘘をつけない。


 本当に内側へ通じていなければ、握り込めないからだ。掴む力は、どこかから伸びてくる。伸びてくるからには、根がある。その根をたどれば、壁の内側へ続く、本物の道に行き着く。


 だが、それは外からは見えない。


 掴まれている、そのあいだだけ、見える。握る力が、どこから伸びてきているか。掴まれた者にしか、たどれない。


 ケイは、奥歯を噛んだ。


 俺が、掴まれにいければいい。自分から罠の口へ手を入れて、握る力の根を、内側から読む。そうすれば、道が割れる。


 だが、できない。


 ケイの意識は、糸の、ずっと手前だ。経路を読むことはできる。鍵を作ることもできる。けれど、向こうの壁に、自分を差し入れることはできない。掴まれることすら、できない。手を伸ばせる場所に、いない。


 アリスは違う。あの体から、じかにこの道へ繋がっている。だから、向こうへ自分を差し入れられる。ケイは、糸を一本、遠くから渡しているだけだ。


 掴まれにいけるのは、アリスだけだ。


 ケイは、糸の向こうへ、呼びかけた。


 「アリス」


 「はい」


 ケイは、一拍、迷った。これから頼むことの重さに。


 「壁を抜く道が、一つだけある。だが、それを通るには、お前にもう一度、痛い思いをさせる」


 「……どういう、ことですか」


 「読める隙は、全部罠だ。だが、罠には、必ず本物の道がある。掴むための道だ。それは、掴まれているあいだしか、見えない」


 ケイは、続けた。


 「お前が、もう一度わざと掴まれる。握られたまま、その力がどこから伸びてきているか、根をたどる。俺が、その根の形を読んで、鍵を作る。お前が、たどった先に、それを差す。そうすれば、内側から壁が割れる」


 糸の向こうが、静かだった。


 「俺が代われるなら、代わる。だが、俺は手を伸ばせる場所にいない。掴まれにいけるのは、お前だけだ。さっきの痛みを、もう一度、自分から取りにいけと言っている」


 ケイは、それだけ言って、待った。


 頼んではいけないことを、頼んでいる。そう思った。




 もう一度、掴まれる。


 アリスは、寝台の上で、目を閉じたまま、さっきの痛みを思い出した。後頭部の管が、内側から灼けた、あの感覚。指の先が勝手に跳ねて、背が反って、声にならない悲鳴が喉でつぶれた。


 あれを、もう一度。今度は、自分から。


 怖くないと言えば、嘘になる。


 動くはずのない手が、また震えはじめた。寝台の上で、わずかに。


 でも。


 アリスは、道のいちばん奥へ、意識を向けた。硬い壁の、さらに奥。あたたかい灯のような気配が、まだ、ともっている。朝の台所。コーヒーの匂い。白い実験衣。


 母が、すぐそこにいる。


 ここまで来て、痛いから、と引き返すのか。


 ——いいえ。


 アリスは、震える手を、自分でなだめた。なだめられはしない。それでも、決めた。


 「やります」


 声に、ならない。けれど、ケイには届く。


 「ケイさん。どこへ、掴まれにいけば、いいですか」


 糸の向こうで、ケイが、一拍黙った。それから、低く言った。


 「……すまない」


 「謝らないでください」


 アリスは、言った。


 「母に、いちばん近い道です。だったら、わたしが行きます」


 ケイが、壁の隙の在り処を、教えてくれた。さっき掴まれたのと同じ、ひらいて見える隙。罠だと、もうわかっている。わかっていて、そこへ、自分を差し入れる。


 アリスは、息を整えた。声の出ない体で。整える呼吸の拍だけは、たしかにあった。


 そして、隙へ、自分を差し出した。


 握られた。


 来る、とわかっていた。わかっていても、痛みは同じだけ来た。いや、自分から迎えにいったぶん、深かった。締めつけが食い込む。それでも今度は、つぶれかけた悲鳴を、奥歯で噛んで止めた。


 ——今度は、逃げない。


 痛みのなかで、アリスは、握る力をたどった。引こうとするのではない。締めつけてくる、その力が、どこから伸びてきているのか。掴まれたまま、その根のほうへ、意識を向ける。


 あった。


 握る力は、壁の奥から伸びていた。一本の、太い筋。掴むために、内側からまっすぐ通された道。指を、たどればいい。この痛みの、いちばん深いところから、握っている手の付け根へ。


 「ケイさん。掴まれて、います。力が、奥から伸びて——太い、一本の筋です」


 声が、震えた。痛みで。


 「そこを、放すな」


 ケイの声が、返ってきた。




 届いた手応えの中に、ケイは、それを読んだ。


 アリスがたどっている、握りの根。掴む力が通ってきた、一本の筋。外から読もうとして、ずっと見えなかったものだ。掴まれて初めて、内側から差してきた光のように、その形が浮かんだ。


 ——これが、本物の道か。


 力ずくで割れる壁ではなかった。だが、この筋は、嘘をつけない。掴むために、本当に内側へ通じている。たどった先に、壁の継ぎ目の、いちばん弱いところがある。


 ケイは、その継ぎ目に合う鍵を、組んだ。


 今度の鍵は、隙を通る鍵ではない。継ぎ目を、内側から割るための鍵だ。アリスがたどり着く、その先へ。


 「アリス。鍵を渡す。お前がたどっている筋の、いちばん奥。握る手の、付け根だ。そこに、継ぎ目がある。渡す鍵を、そこへ差し込め」


 「……はい」


 「痛むだろうが、放すな。放せば、また外へ戻される。掴まれたまま、奥へ進め」


 ケイは、鍵の形を、アリスへ送った。


 あとは、アリスだ。鍵を作るのは、ケイ。差し込むのは、アリス。最初に二人で門を開けた、あのときから、それは変わらない。


 糸の向こうで、アリスが、痛みをこらえる気配がした。




 鍵の形が、届いた。


 握られたまま、アリスは、その鍵を先に立てた。握る力の根を、たどった先。掴む手の、付け根。そこに、ケイの言った継ぎ目がある。


 痛い。放したい。引き返したい。


 それでも、アリスは、奥へ進んだ。痛みの、いちばん深いところへ。握られたまま、握る力に逆らわず、その力が伸びてきた道を、逆にたどって。


 継ぎ目に、触れた。


 鍵を、差し込んだ。


 手応えが、変わった。締めつけていた握りが、噛み合わせを失う。内側から差した一手が、層と層の継ぎ目を割った。


 継ぎ目さえ割れれば、あとは順番だった。一枚、また一枚。外から何度叩いても動かなかった層が、内側からは、紙のように開いていく。


 握りが、ほどけた。


 アリスを締めつけていた力が、行き場をなくして、退いていく。痛みが、すっと引いた。後頭部の管の熱が、まだ残っている。けれど、もう、掴まれてはいない。


 最後の一枚が、退いた。


 その向こうに、空間があった。


 温度のない、静けさ。守りの厚い、奥まった場所。その真ん中に、ひとつだけ。


 灯のような気配が、すぐそこにあった。




 通った、と手応えで確かめて、ケイは、流れを止めた。


 壁は、退いた。アリスが、内側から割った。掴まれて、痛みをこらえて、その痛みの奥から、道をこじ開けた。


 ケイには、できないことだった。


 鍵穴を読むのは、ケイだ。鍵を作るのも、ケイだ。けれど、掴まれにいって、痛みのなかで道をたどることは、ケイにはできない。アリスにしか、できなかった。


 壁の向こうに、最後のものがある。


 ケイは、その手応えを読んだ。外との通信を一度も持たない、閉じた一台。本人認証の端末。アリスの言っていた、七階の、いちばん奥の部屋。


 手を伸ばせば届くところに、もう一度あの人へ近づける道が、ある。暗号を、ただ一人わかってくれた人。隣で、同じ式を読んだ人。その人の指だけが、この端末を開く。


 ケイは、奥歯を噛んだ。


 道は、通した。壁は、退いた。だが、この最後の一枚は、壁とは違う。鍵穴を読んでも、複製できない。鍵そのものが、あの人の指だ。本人でなければ、開かない。


 ケイには、開けられない。


 ——だが、開けなくていい。


 最初から、そう決めていた。鍵穴を読むのはケイ。届けるのはアリス。こじ開けるのではない。扉に、自分を正しい者だと認めさせる。「あなたを知っています」と、告げる。


 それは、ケイにはできない。アリスにしか、できない。


 「アリス。着いた」


 ケイは、送った。


 「お前の母の場所だ。最後の扉が、ある。鍵穴を読むのは、俺の役目だった。だが、これは読んでも開かない。鍵が、人の指だからだ。開けるのは——お前だ」




 扉が、ある。


 道のいちばん奥。さっきまで壁だったものの向こうに、最後の一枚が、閉じて立っている。これまでとは、違う。叩いても、押しても、たわまない。鍵が、母そのものなのだと、ケイが言った。


 アリスは、その扉の前に立った。


 扉の向こうに、気配がある。朝の台所。コーヒーの匂い。白い実験衣。


 母だ。


 扉が、こちらを問うてくる。冷たい問いだ。誰だ、と。


 門も、同じことを訊いてきた。前に、いくつもの門が。そのたびにアリスは答えた。わたしは、この道の内側の者です、と。通る資格を持つ者です、と。そう告げると、門は道を譲った。


 でも、この扉は、門ではない。


 門が問うたのは、資格だった。この扉が問うているのは、もっと深いところにある。資格ではない。お前は、この鍵の持ち主と、どういう間柄か。お前は、誰なのか。


 アリスは、答えようとして、止まった。


 わたしは、あなたの。


 ——娘です。


 言える、はずだった。心のいちばん奥に、ずっと仕舞っていた言葉だ。会いたかった。会って、そう告げたかった。なのに、いざ扉の前に立つと、その言葉が、別の重さを持って戻ってくる。


 届かなかったら。この言葉が、扉の向こうの母に、届かなかったら。


 認められなかったら。娘ですと告げて、扉が、それを嘘と見なしたら。


 あるいは。認められた、その先で。扉が開いて、母が、こんなところにいるわたしを知って。母は、ここを知っているのだろうか。人が管に繋がれて眠る、この場所を。知らないでいてほしい。知っていて、ほしくない。


 三つの恐れが、扉の前で、順番にせり上がってきた。指先が、冷えた。


 それでも。


 怖いのは、母に近いからだ。遠ければ、怖くなかった。届かないと諦めていれば、こんなに震えなかった。震えるのは、もう、すぐそこにいるからだ。


 ならば、震えたまま、告げる。


 「お母さん」


 アリスは、扉に、自分のいちばん深いところを押し当てた。資格ではない。証でもない。覚えていることの、ぜんぶを。


 朝、母が淹れたコーヒーの匂い。実験衣の、洗剤の匂い。わたしの髪を梳いた指の動き。低い声で、わたしの名を呼ぶときの、わずかな上がり方。母が笑うと、目尻に寄る皺。それを、わたしだけが知っている。ほかの誰も、この扉に差し出せない。


 わたしは、あなたを知っています。


 あなたの娘だから、知っています。


 扉が、揺れた。


 二度、三度。差し出した記憶のひとつひとつに、扉が応えるように、堅さがほどけていく。コーヒーの匂いに、ひとつ。髪を梳いた指に、ひとつ。名を呼ぶ声に、ひとつ。


 扉は、嘘をはじき返す扉だった。だから、嘘なら、ここで止まる。けれど、アリスの差し出したものは、ひとつも、はじかれなかった。全部、本当だったからだ。


 最後に、アリスは、いちばん古い記憶を差し出した。


 まだ、言葉も知らないころ。誰かの腕の中で、見上げていた顔。逆光で、表情は見えない。でも、温かかった。その温かさだけを、覚えている。それが母だと、ずっと後になって知った。


 扉が、止まった。


 そして、開いた。


 音はなかった。


 静寂。


 ただ、閉じていたものが、退いた。アリスの前から、最後の一枚が、消えた。


 その向こうに、ひとつの、小さな灯りがあった。眠っている。眠ったまま、けれど、生きている。母が、毎日、指で触れてきた場所。


 アリスは、そこへ、自分の声を、置いた。声ではない。けれど、声としか呼べないものを、その灯りのいちばん深いところへ、そっと差し入れた。届け、と。何年も、言えなかった言葉を。


 「お母さん」


 灯りが、揺れた。


 眠っていたものの奥で、何かが、ひとつ、目を覚ますように。


 届いた。


 届いて、しまった。会いたかった人の、すぐそこまで。


 でも、ここまでだ。声は、置いた。この灯りが、それを母に伝えてくれるのかは——まだ、わからない。




 周は、運用室の暗がりで、指を止めた。


 出所を洗え、と指示してから、いくつもの候補が消えていった。外から這い込んだ、生身の誰か。その足跡を、端から潰す。網は、確かに狭まっている。あと少しだ。


 その、はずだった。


 画面の隅に、別の記録が、ひとつ灯った。


 業務側の、最奥の端末。外とは一度も繋がらない、閉じた一台。日中、ただ一人の指だけが、それを開く。


 その者は、いまは、いない。


 なのに、それが、起動した。


 周は、その記録を、二度、見た。


 不正なアクセスでは、ない。記録の上では、正規の本人認証を、正しく通っている。資格のある者が、正しい鍵で、正しく開けた。エラーは、ひとつもない。


 なのに、おかしい。


 今夜、この建物に、その端末を開ける権限を持つ者は、出勤していない。誰も、触れていない。なのに端末は、内側から、正しく開いた。


 周は、ほんのわずか、椅子の上で身を動かした。


 外を探していた目が、はじめて、内へ振れた。整然と並んだ、眠る演算体の列。その奥に。


 ——まさか。


 周の目が、列の上を、端から滑っていく。その、いちばん古い一台のさらに奥。観測の網から外れたノードで、寝台の波形が、ひとつ、大きく跳ねた。恐れと、願いの、混じった跳ね方だった。


 あと半歩、その波形に目を落としていれば。起動した端末と、跳ねた波形が、一本の線で繋がった。


 だが、周は、別の答えを先に立てた。


 眠る者が、通信の認証を通すなど、ありえない。リソースは、動かない。なら、答えは一つだ。権限者の鍵が、盗まれた。あるいは、複製された。生身の侵入者が、どこかでその鍵を手に入れ、外から、正規を装って開けた。そう考えるほうが、筋が通る。


 周の目が、内から、また外へ戻った。


 「権限者の認証情報を、全部洗え。鍵が漏れている」


 声に、温度はなかった。


 網が、また外へ広がる。内側の、いちばん近い一点を、素通りして。


 その素通りされたノードの先。開いたばかりの最奥の端末では、目を覚ました小さな灯りが、届いたばかりの声を、まだ、誰にも告げずに、抱えていた。


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