Episode 46|壁
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周は、その部屋に窓を作らせなかった。外の光は、ここにいる者には要らない。彼らは目を覚まさないのだから。
ルッキンググラスの運用室。壁一面のモニタが、青白い光を床に落としている。映っているのは無数の波形だ。一本ずつが、この建物のどこかで眠る人間に対応している。
眠る、というのは正しくない。彼らは働いている。脳を演算体として貸し出し、巨大なサーバー群の一部として、休みなく計算を回し続けている。一本の波形が、一人分の演算能力。心拍に似た緑の点が、一定の間隔で流れていく。
周にとって、それは人ではない。リソースだ。一つが落ちれば、全体の効率が下がる。それだけのことだった。
深夜の巡回。周は監視ログを上から流していく。稼働率。負荷。緑。緑。緑。
指が、止まった。
ログの片隅で、認証が一度はじかれている。そのすぐあと、はじかれた跡を、誰かが消していた。掃除をしすぎた床のように、そこだけ妙にきれいだ。
——自己点検は、ログを消さない。
周は、時刻をさかのぼった。同じ記録が、いくつも並んでいた。一定の間隔。一定の丁寧さ。同じ手が、繰り返し同じことをしている。
ノイズではない。
周の表情は動かない。怒りも、驚きもない。ただ、事実を一つ、別の欄へ移した。
誰が、とはまだ言えない。だが、ひとつだけ確かだ。境界を越えてきた者がいる。この奥を、探っている。
「出所を、洗い出せ」
声に、温度はなかった。
◆
ケイは、工房の隅で目を閉じていた。
夜に入ってから、幾度もこうして潜ってきた。体は工房に置いたまま、信号に変えた意識だけを、糸の経路の奥へ送る。寝台のアリスも、同じだ。
糸の向こうで、ケイは構造だけを読んでいる。手応えはアリスから届く。アリスが触れたものの形を、言葉で受け取り、それを暗号の組み方に置き換える。鍵穴を覗くのと、同じやり方で。
いま、その先にあるのは、これまでで桁違いに硬い壁だった。最後の防火壁。幾重もの層が折り重なり、底が見えない。この向こうが、母のいる場所——七階の、あの部屋に繋がっている。
ケイは、層の組み方を辿った。継ぎ目の取り方。鍵の噛ませ方。
指先が、引っかかった。
この組み方に、覚えがある。まるで、自分で組んだもののように、手が先に動く。
——なぜ、覚えがある。
ケイは、その問いを奥にしまった。何度目かの、同じ引っかかりだった。答えは、すぐ後ろにいる気がする。だが、振り返る時間はない。今は、この壁だ。
糸の向こうへ、呼びかけた。
「アリス」
声ではない。糸を伝う、震えだ。
「いちばん硬い壁に、かかった。これを抜ければ、お前の母のいる場所だ」
■
ケイの声が、届いた。
アリスは、寝台の上にいる。天井は灰色。動くのは指の先だけ。声は出ない。けれど、頭の奥の、あの管を通って、ケイの言葉が届く。
まばたきを、ひとつ。乾いた目に、灰色の天井がにじむ。それだけが、いまの自分にできる動きだった。
いちばん硬い壁。
アリスに、壁が見えるわけではない。技術の言葉も、わからない。ただ、感じる。自分から伸びた長い道の、ずっと先。そこに、これまでとは比べものにならない、大きく硬いものがある。冷たくて、厚い。手のひらで押しても、びくともしない。
その向こうに、母がいる。
壁の奥へ、意識を向けた。聖詔者の作法で、気配を探る。
——いる。
硬い壁の、さらに奥。ひとつだけ、灯のようにともっている気配。あたたかい。知っている。朝の台所の、コーヒーの匂い。背の低い、白い実験衣。
——お母さん。
声にならない。だが、確かに呼んだ。胸の奥が熱くなる。
もう少しだ。あの壁を、ケイさんが読み解いてくれれば。
そう思った、そのときだった。
道のずっと遠く。母とは、反対の方角。
何かが、こちらを見た。
冷たい。温度のない視線。さっきまで、なかったものだ。誰かが暗いところから、こちらをうかがっている。ゆっくりと、探すように。
足音のようだ、とアリスは思った。遠くで、誰かが立ち上がる。こちらへ歩いてこようとしている。
アリスは、ケイに伝えた。
「ケイさん。遠くから、足音がします。こちらを、探しているような」
返事の前に、一拍あった。
◆
足音、と聞いて、ケイは手を止めなかった。
探され始めれば、終わる。気づかれていないのは、向こうがまだこちらを探していないからだ。アリスが目を覚ましたことは、まだ知られていない。あの世界では、ミアがアリスの代わりを務めている。管理する者の目には、アリスはまだそこで働いていると映っている。
だが、それも長くはもたない。
「わかった。なら、急ぐ」
ケイは、壁の継ぎ目を読んだ。幾重もの層。その一つに、わずかにひらいた隙があった。組み方を辿れば、そこへ行き着く。ケイには、読めた。
ここに、鍵を差せば、通る。
ケイは、その隙に合う鍵を組んだ。アリスに、形を渡す。
「アリス。道の先に、細い隙がある。いまから、そこを通る鍵をお前に渡す。前に門を開けたときと同じだ。俺が鍵を作る。差し込むのは、お前だ」
「……はい」
「隙の手前まで、道は通してある。鍵を持って、まっすぐ差し込め」
迷いの薄れた返事が、返ってきた。
■
鍵の形が、届いた。
アリスには、それが鍵だとは見えない。ただ、ケイから渡されたものを、自分の中に受け取った感覚がある。前にもあった。門の前で、自分を開いたとき。あのときと、同じ手触り。
道の先に、細い隙があるという。そこへ、まっすぐ。
アリスは、自分を、その隙へ差し入れた。手ではない。けれど、そう感じる以外に呼びようのない、自分の一部を。受け取った鍵を、先に立てて。
隙が、迎え入れた。
通る——と思った、その瞬間。
隙が、閉じた。
内側から、塞がった。差し入れた自分を噛み、握り込んでくる。冷たく硬いものが、万力のように。ケイの読んだ隙は、隙ではなかった。ひらいて見せて、飛び込んだものを丸ごと捕らえるための、罠だった。
「——っ」
声は、出ない。だが、痛みは出た。
後頭部の管が、内側から灼ける。指の先が、勝手に跳ねた。寝台の上で、背がわずかに反る。声にならない悲鳴が、喉の奥でつぶれた。
引き戻そうとした。動かない。引こうとするほど、食い込んでくる。逃げようとする者を、逃すまいとする力。
ケイの声が、遠くで張った。
「アリス、引け!」
引けない。掴まれている。
◆
握られた、と手応えが伝わった。
ケイは、息を呑んだ。だが、その握りには、手を出せない。
掴んでいるのは、向こうの壁だ。アリスを握り込んでいる、その指。それは、アリスが自分を差し入れた、その先にある。ケイの意識は、糸の、ずっと手前だ。経路を読むことはできる。鍵を作ることもできる。だが、向こうで握り込んでくる指を、こじ開けることは——できない。
手を伸ばせる場所に、いない。
できるのは、読むことだけだ。
ケイは、握りの構造を、必死に読んだ。アリスから届く手応えの中に、答えを探す。万力のような握り。逃げる者を追って締まる。なら——逆だ。
「アリス。逃げるな。引くな」
「っ……」
「引くから、締まる。力を抜け。抵抗をやめろ。掴んでいる手は、暴れるものを握る。動かないものは、握り続ける理由を失う」
アリスの息が、糸の向こうで、震えた。
それでも、伝わってきた。寝台の上で、跳ねていた指先が、ふっと、力を抜くのが。
握りが、戸惑った。一瞬。
その一瞬に、アリスは、自分を引き抜いた。締めつけから、ではない。ゆるんだ握りの、その隙間から、そっと。
抜けた。
■
道の手前まで、アリスは退いた。
後頭部の管が、まだ灼けている。さっき握られた痛みが、じくじくと熱を持っている。寝台の上で、息ができない。声の出ない喉が、それでも、何度も空気を求めた。
「……ケイさん」
かすれた、声にならない声で、呼んだ。
「掴まれ、ました。でも、放れました。もう、だいじょうぶ、です」
嘘だ、と自分でも思った。だいじょうぶではない。手が、震えている。動くはずのない手が。
◆
「無事か」
「……はい」
返事の薄さで、無事でないことはわかった。だが、ケイは、それを言わなかった。
目を閉じて、いま起きたことを、最初から組み直す。隙。鍵。閉じる動き。握り込む動き。
——読めた。読めすぎた。
あの隙は、よく読めた。あまりにも、よく読めた。だから、差し込んだ。
そこに、罠の本体があった。
ケイは、壁を、もう一度はじめから見た。継ぎ目という継ぎ目に、隙がある。どれも、読める。読めて、しまう。
——全部、罠だ。
ひらいて見える隙は、すべて誘いだった。読める者を招き入れ、招かれた手を握り込む。読めるように、わざとそう組んである。読む者の手を、誘い込むために。
まるで、こちらの読み方を、先に知っている誰かが組んだようだった。ケイなら、必ずあの隙を突く。そう知っている手つきだった。
ケイは、その引っかかりも、奥へ押し込んだ。今は、壁だ。それ以外は、後でいい。
「アリス」
壁を見たまま、ケイは言った。
「いまの隙は、罠だった。読める場所は、もう信じない。別の手で行く」
遠くで、足音が、また一歩、距離を詰めた。
壁は、まだ閉じている。




