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Episode 46|壁


 周は、その部屋に窓を作らせなかった。外の光は、ここにいる者には要らない。彼らは目を覚まさないのだから。


 ルッキンググラスの運用室。壁一面のモニタが、青白い光を床に落としている。映っているのは無数の波形だ。一本ずつが、この建物のどこかで眠る人間に対応している。


 眠る、というのは正しくない。彼らは働いている。脳を演算体として貸し出し、巨大なサーバー群の一部として、休みなく計算を回し続けている。一本の波形が、一人分の演算能力。心拍に似た緑の点が、一定の間隔で流れていく。


 周にとって、それは人ではない。リソースだ。一つが落ちれば、全体の効率が下がる。それだけのことだった。


 深夜の巡回。周は監視ログを上から流していく。稼働率。負荷。緑。緑。緑。


 指が、止まった。


 ログの片隅で、認証が一度はじかれている。そのすぐあと、はじかれた跡を、誰かが消していた。掃除をしすぎた床のように、そこだけ妙にきれいだ。


 ——自己点検は、ログを消さない。


 周は、時刻をさかのぼった。同じ記録が、いくつも並んでいた。一定の間隔。一定の丁寧さ。同じ手が、繰り返し同じことをしている。


 ノイズではない。


 周の表情は動かない。怒りも、驚きもない。ただ、事実を一つ、別の欄へ移した。


 誰が、とはまだ言えない。だが、ひとつだけ確かだ。境界を越えてきた者がいる。この奥を、探っている。


 「出所を、洗い出せ」


 声に、温度はなかった。




 ケイは、工房の隅で目を閉じていた。


 夜に入ってから、幾度もこうして潜ってきた。体は工房に置いたまま、信号に変えた意識だけを、糸の経路の奥へ送る。寝台のアリスも、同じだ。


 糸の向こうで、ケイは構造だけを読んでいる。手応えはアリスから届く。アリスが触れたものの形を、言葉で受け取り、それを暗号の組み方に置き換える。鍵穴を覗くのと、同じやり方で。


 いま、その先にあるのは、これまでで桁違いに硬い壁だった。最後の防火壁。幾重もの層が折り重なり、底が見えない。この向こうが、母のいる場所——七階の、あの部屋に繋がっている。


 ケイは、層の組み方を辿った。継ぎ目の取り方。鍵の噛ませ方。


 指先が、引っかかった。


 この組み方に、覚えがある。まるで、自分で組んだもののように、手が先に動く。


 ——なぜ、覚えがある。


 ケイは、その問いを奥にしまった。何度目かの、同じ引っかかりだった。答えは、すぐ後ろにいる気がする。だが、振り返る時間はない。今は、この壁だ。


 糸の向こうへ、呼びかけた。


 「アリス」


 声ではない。糸を伝う、震えだ。


 「いちばん硬い壁に、かかった。これを抜ければ、お前の母のいる場所だ」




 ケイの声が、届いた。


 アリスは、寝台の上にいる。天井は灰色。動くのは指の先だけ。声は出ない。けれど、頭の奥の、あの管を通って、ケイの言葉が届く。


 まばたきを、ひとつ。乾いた目に、灰色の天井がにじむ。それだけが、いまの自分にできる動きだった。


 いちばん硬い壁。


 アリスに、壁が見えるわけではない。技術の言葉も、わからない。ただ、感じる。自分から伸びた長い道の、ずっと先。そこに、これまでとは比べものにならない、大きく硬いものがある。冷たくて、厚い。手のひらで押しても、びくともしない。


 その向こうに、母がいる。


 壁の奥へ、意識を向けた。聖詔者の作法で、気配を探る。


 ——いる。


 硬い壁の、さらに奥。ひとつだけ、灯のようにともっている気配。あたたかい。知っている。朝の台所の、コーヒーの匂い。背の低い、白い実験衣。


 ——お母さん。


 声にならない。だが、確かに呼んだ。胸の奥が熱くなる。


 もう少しだ。あの壁を、ケイさんが読み解いてくれれば。


 そう思った、そのときだった。


 道のずっと遠く。母とは、反対の方角。


 何かが、こちらを見た。


 冷たい。温度のない視線。さっきまで、なかったものだ。誰かが暗いところから、こちらをうかがっている。ゆっくりと、探すように。


 足音のようだ、とアリスは思った。遠くで、誰かが立ち上がる。こちらへ歩いてこようとしている。


 アリスは、ケイに伝えた。


 「ケイさん。遠くから、足音がします。こちらを、探しているような」


 返事の前に、一拍あった。




 足音、と聞いて、ケイは手を止めなかった。


 探され始めれば、終わる。気づかれていないのは、向こうがまだこちらを探していないからだ。アリスが目を覚ましたことは、まだ知られていない。あの世界では、ミアがアリスの代わりを務めている。管理する者の目には、アリスはまだそこで働いていると映っている。


 だが、それも長くはもたない。


 「わかった。なら、急ぐ」


 ケイは、壁の継ぎ目を読んだ。幾重もの層。その一つに、わずかにひらいた隙があった。組み方を辿れば、そこへ行き着く。ケイには、読めた。


 ここに、鍵を差せば、通る。


 ケイは、その隙に合う鍵を組んだ。アリスに、形を渡す。


 「アリス。道の先に、細い隙がある。いまから、そこを通る鍵をお前に渡す。前に門を開けたときと同じだ。俺が鍵を作る。差し込むのは、お前だ」


 「……はい」


 「隙の手前まで、道は通してある。鍵を持って、まっすぐ差し込め」


 迷いの薄れた返事が、返ってきた。




 鍵の形が、届いた。


 アリスには、それが鍵だとは見えない。ただ、ケイから渡されたものを、自分の中に受け取った感覚がある。前にもあった。門の前で、自分を開いたとき。あのときと、同じ手触り。


 道の先に、細い隙があるという。そこへ、まっすぐ。


 アリスは、自分を、その隙へ差し入れた。手ではない。けれど、そう感じる以外に呼びようのない、自分の一部を。受け取った鍵を、先に立てて。


 隙が、迎え入れた。


 通る——と思った、その瞬間。


 隙が、閉じた。


 内側から、塞がった。差し入れた自分を噛み、握り込んでくる。冷たく硬いものが、万力のように。ケイの読んだ隙は、隙ではなかった。ひらいて見せて、飛び込んだものを丸ごと捕らえるための、罠だった。


 「——っ」


 声は、出ない。だが、痛みは出た。


 後頭部の管が、内側から灼ける。指の先が、勝手に跳ねた。寝台の上で、背がわずかに反る。声にならない悲鳴が、喉の奥でつぶれた。


 引き戻そうとした。動かない。引こうとするほど、食い込んでくる。逃げようとする者を、逃すまいとする力。


 ケイの声が、遠くで張った。


 「アリス、引け!」


 引けない。掴まれている。




 握られた、と手応えが伝わった。


 ケイは、息を呑んだ。だが、その握りには、手を出せない。


 掴んでいるのは、向こうの壁だ。アリスを握り込んでいる、その指。それは、アリスが自分を差し入れた、その先にある。ケイの意識は、糸の、ずっと手前だ。経路を読むことはできる。鍵を作ることもできる。だが、向こうで握り込んでくる指を、こじ開けることは——できない。


 手を伸ばせる場所に、いない。


 できるのは、読むことだけだ。


 ケイは、握りの構造を、必死に読んだ。アリスから届く手応えの中に、答えを探す。万力のような握り。逃げる者を追って締まる。なら——逆だ。


 「アリス。逃げるな。引くな」


 「っ……」


 「引くから、締まる。力を抜け。抵抗をやめろ。掴んでいる手は、暴れるものを握る。動かないものは、握り続ける理由を失う」


 アリスの息が、糸の向こうで、震えた。


 それでも、伝わってきた。寝台の上で、跳ねていた指先が、ふっと、力を抜くのが。


 握りが、戸惑った。一瞬。


 その一瞬に、アリスは、自分を引き抜いた。締めつけから、ではない。ゆるんだ握りの、その隙間から、そっと。


 抜けた。




 道の手前まで、アリスは退いた。


 後頭部の管が、まだ灼けている。さっき握られた痛みが、じくじくと熱を持っている。寝台の上で、息ができない。声の出ない喉が、それでも、何度も空気を求めた。


 「……ケイさん」


 かすれた、声にならない声で、呼んだ。


 「掴まれ、ました。でも、放れました。もう、だいじょうぶ、です」


 嘘だ、と自分でも思った。だいじょうぶではない。手が、震えている。動くはずのない手が。




 「無事か」


 「……はい」


 返事の薄さで、無事でないことはわかった。だが、ケイは、それを言わなかった。


 目を閉じて、いま起きたことを、最初から組み直す。隙。鍵。閉じる動き。握り込む動き。


 ——読めた。読めすぎた。


 あの隙は、よく読めた。あまりにも、よく読めた。だから、差し込んだ。


 そこに、罠の本体があった。


 ケイは、壁を、もう一度はじめから見た。継ぎ目という継ぎ目に、隙がある。どれも、読める。読めて、しまう。


 ——全部、罠だ。


 ひらいて見える隙は、すべて誘いだった。読める者を招き入れ、招かれた手を握り込む。読めるように、わざとそう組んである。読む者の手を、誘い込むために。


 まるで、こちらの読み方を、先に知っている誰かが組んだようだった。ケイなら、必ずあの隙を突く。そう知っている手つきだった。


 ケイは、その引っかかりも、奥へ押し込んだ。今は、壁だ。それ以外は、後でいい。


 「アリス」


 壁を見たまま、ケイは言った。


 「いまの隙は、罠だった。読める場所は、もう信じない。別の手で行く」


 遠くで、足音が、また一歩、距離を詰めた。


 壁は、まだ閉じている。


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