Episode 44|門
◆
手をかけた扉は、ただの板ではなかった。
動いているのは、ケイの体ではない。意識を信号に変え、糸の経路に乗せている。寝台のアリスも同じだ。進むのは肉体ではなく、データに置き換わった意識だけ。
ケイは構造を読んだ。輪郭を、指でなぞるように。経路のいちばん端に立てられた、認証の関門。向こうへ抜けるには、ここを越えなければならない。
力ずくでは、開かない。叩いても、押しても、応じない作りになっている。これは、そういう種類のものだ。越えようとする者に、一つだけ問いを返す。
誰だ、と。
ケイは、その問いの形を読んだ。鍵穴を覗くときと、同じやり方で。問いは、答えを一つしか受け付けない。正しい者だけを通し、それ以外をすべて弾く。
——何度も弾かれれば、気づかれる。
そう読んだ。一度で通すのが、いちばんいい。二度三度と叩けば、向こうに異変が伝わる。アリスが眠っていることに、誰かが気づく。
ここは、自分には通せない。
ケイにできるのは、門の前まで道を通すことだ。経路を読み、邪魔なものを退け、問いの前に立たせる。だが、問いに答えるのは——別の者の役目だった。
またあの引っかかりが、指に戻ってきた。この組まれ方に覚えがある、という。だが、いまは——
その引っかかりは、奥にしまった。それどころではない。
糸の震えに、呼吸を合わせる。拍が合った。
「アリス」
応えが返る。少し遅れて、はっきりと。
「ここに、います」
「門がある」
ケイは短く伝えた。比喩に置き換えながら。技術の言葉は、向こうには届かない。
「外へ通じる道の途中に、門がある。力では開かない。誰だ、と訊いてくる門だ」
「だれだ、と」
「ああ。答えられるのは、お前だけだ」
ケイは、糸の先のアリスに告げた。
「お前の頭の管。あれは、この道に繋がっている。お前は、はじめからこの道の内側にいる者だ。だから、お前は通っていい」
短い沈黙があった。アリスが、その意味を確かめている沈黙だった。
「お前にしか言えない。俺は、道を通すだけだ。門に答えるのは、お前の番だ」
「……わかりました」
迷いの、薄れた返事だった。
「初めて二人で鍵を開けた、あのときと同じだ」
ケイは言った。鍵穴を読む自分。届けるアリス。あのとき、二度目は速かった。
「はい。覚えています」
ケイは道を保った。門の前に、アリスを立たせる。
「行け」
■
大きなものが、すぐ前にあった。
アリスの体は、寝台から動いていない。指先が、わずかに動くだけ。それなのに、自分の何かが、もっと遠くまで来ている。体はここにあるのに、もっと奥のほうに、自分がいる。
それがなんなのかは、わからない。ただ、外へ通じる道の途中に、何かが横たわっている。冷たくも、熱くもない。けれど、はっきりと、そこにある。
ケイの声が、頭の奥で言っていた。誰だ、と訊いてくる門。答えられるのは、お前だけ。
——わたし自身。
アリスは、首の奥の管を思った。抜けない管。ずっと自分の一部だと思っていた。皮膚と混ざって、どこまでが頭でどこからが管か、境目がない。
——これだけは、自分の一部だ。
いつか、そう思った。抜こうとして、抜けなくて。あきらめたのではない。これは、自分から伸びているのだと、わかった。
その管が、この道に繋がっている。ならば、この道も、自分の一部だ。自分の体から、まっすぐ伸びている。
聖詔者には、結界を扱う作法がある。自分の張った結界は、自分を阻まない。内側にいる者は、はじめから通れる。
——わたしは、この道の、内側の者です。
門に向かって、差し出した。自分が、ここに繋がっている者だということを。この管の先に、自分はいるのだということを。
弾かれた。
冷たい何かが、すっと退いた。違う、と言われた気がした。形が、足りない。
アリスは、息を整えた。声の出ない体で。それでも、整える呼吸の拍は、たしかにあった。
——示そうとするから、外の者に見えるのだ。
アリスは気づいた。示すのではなかった。自分は、はじめからこの道の内側にいる。それを、わざわざ申し立てるから、外から来た者のように扱われる。
もう一度。
今度は、差し出さなかった。アリスは、門のほうへ、自分を開いた。聖詔者が結界の内に身を置くときの、あの作法で。閉じるのではなく、ひらく。自分とこの道のあいだの境目を、なくす。
首の奥の管が、わずかに熱を持った気がした。寝台の上で、指先が、ひとりでに動いた。
拍が、合った。
大きなものの中で、何かがほどけた。冷たかった面が、温度を持った。アリスを、阻まなくなった。
通っていい者だと、認められた。
門が、開く。
光ではなかった。音でもなかった。けれど、たしかに、道が一つ、奥へ伸びた。
「開きました」
アリスは、ケイに告げた。
◆
通った。
ケイは、それを手応えで確かめた。門の前にあった仕切りが、退いている。アリスが、答えたのだ。一つ目を、開けた。
二人で、開けた。
——あのときと、同じだ。
ケイは、わずかに息を吐いた。机の縁に置いた指の力が、少しだけ抜ける。だが、それは一瞬だった。
開いた門の奥に、次のものが見えていた。
一枚目とは、違う。認証を一つ返せば開く関門ではない。幾重にも層を重ねた、防火壁だ。外から触れる信号を、片端から遮断するために組まれている。本物の関所は、ここから先だった。
——これが、奥の何かを守っている。
越えるには、層を一枚ずつ読む。暗号の組み方を解き、鍵を作り、正規の通信に見せかけて通す。ケイの領分だった。
先送りはできなかった。アリスの覚醒は、まだ気づかれていない。だが、いつまでも、ではない。
ケイは、ここまでの通信の痕跡を消した。一筋ずつ。残ったログを、誰かが見つける前に。そのまま、防火壁の最初の層に取りかかる。
「アリス」
「はい」
「よくやった。だが、止まらない。この先に、もっと硬い壁がある」
「……はい」
「いまのうちに、できるだけ進む」
ケイは、防火壁の構造を読みはじめた。層が、幾重にも折り重なっている。一枚目とは比べものにならない。だが、組まれたものだ。人が組んだものなら、いつか読める。
糸の向こうで、アリスが息を整える気配がした。
■
道が、奥へ伸びていた。
アリスは、開いた門の向こうを、感じていた。すぐには、何も見えない。ただ、遠くに、気配があった。
一つではなかった。
たくさんの、気配。
自分と同じように、この道のどこかにいる——誰か。たくさんの、誰か。それが、奥のほうに、ずっと、連なっている気がした。
——だれ、ですか。
問いは、誰にも届かなかった。
気配は、答えない。ただ、そこに、あった。静かに。たくさん。
アリスは、自分の指先を見た。寝台の上で、わずかに動く。それだけの体で、こんなに遠くまで、来た。
——ケイさん。
声は、出なかった。けれど、頭の奥で、たしかに呼んだ。
「この道の先に、たくさんの、人がいる気がします」
返事は、すぐには来なかった。
糸の向こうで、ケイが、何かを考えている。その沈黙が、アリスには、わかった。
灰色の天井。変わらない光。隣にも寝台がある。その隣にも。同じ管をつけた人が、並んでいる。
自分の管が、この道に繋がっていた。隣の人の管も、同じものだ。同じ管なら——
アリスは、はじめて思った。
——この人たちも、この道の、先にいるのだろうか。




