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Episode 44|門


 手をかけた扉は、ただの板ではなかった。


 動いているのは、ケイの体ではない。意識を信号に変え、糸の経路に乗せている。寝台のアリスも同じだ。進むのは肉体ではなく、データに置き換わった意識だけ。


 ケイは構造を読んだ。輪郭を、指でなぞるように。経路のいちばん端に立てられた、認証の関門。向こうへ抜けるには、ここを越えなければならない。


 力ずくでは、開かない。叩いても、押しても、応じない作りになっている。これは、そういう種類のものだ。越えようとする者に、一つだけ問いを返す。


 誰だ、と。


 ケイは、その問いの形を読んだ。鍵穴を覗くときと、同じやり方で。問いは、答えを一つしか受け付けない。正しい者だけを通し、それ以外をすべて弾く。


 ——何度も弾かれれば、気づかれる。


 そう読んだ。一度で通すのが、いちばんいい。二度三度と叩けば、向こうに異変が伝わる。アリスが眠っていることに、誰かが気づく。


 ここは、自分には通せない。


 ケイにできるのは、門の前まで道を通すことだ。経路を読み、邪魔なものを退け、問いの前に立たせる。だが、問いに答えるのは——別の者の役目だった。


 またあの引っかかりが、指に戻ってきた。この組まれ方に覚えがある、という。だが、いまは——


 その引っかかりは、奥にしまった。それどころではない。


 糸の震えに、呼吸を合わせる。拍が合った。


「アリス」


 応えが返る。少し遅れて、はっきりと。


「ここに、います」


「門がある」


 ケイは短く伝えた。比喩に置き換えながら。技術の言葉は、向こうには届かない。


「外へ通じる道の途中に、門がある。力では開かない。誰だ、と訊いてくる門だ」


「だれだ、と」


「ああ。答えられるのは、お前だけだ」


 ケイは、糸の先のアリスに告げた。


「お前の頭の管。あれは、この道に繋がっている。お前は、はじめからこの道の内側にいる者だ。だから、お前は通っていい」


 短い沈黙があった。アリスが、その意味を確かめている沈黙だった。


「お前にしか言えない。俺は、道を通すだけだ。門に答えるのは、お前の番だ」


「……わかりました」


 迷いの、薄れた返事だった。


「初めて二人で鍵を開けた、あのときと同じだ」


 ケイは言った。鍵穴を読む自分。届けるアリス。あのとき、二度目は速かった。


「はい。覚えています」


 ケイは道を保った。門の前に、アリスを立たせる。


「行け」




 大きなものが、すぐ前にあった。


 アリスの体は、寝台から動いていない。指先が、わずかに動くだけ。それなのに、自分の何かが、もっと遠くまで来ている。体はここにあるのに、もっと奥のほうに、自分がいる。


 それがなんなのかは、わからない。ただ、外へ通じる道の途中に、何かが横たわっている。冷たくも、熱くもない。けれど、はっきりと、そこにある。


 ケイの声が、頭の奥で言っていた。誰だ、と訊いてくる門。答えられるのは、お前だけ。


 ——わたし自身。


 アリスは、首の奥の管を思った。抜けない管。ずっと自分の一部だと思っていた。皮膚と混ざって、どこまでが頭でどこからが管か、境目がない。


 ——これだけは、自分の一部だ。


 いつか、そう思った。抜こうとして、抜けなくて。あきらめたのではない。これは、自分から伸びているのだと、わかった。


 その管が、この道に繋がっている。ならば、この道も、自分の一部だ。自分の体から、まっすぐ伸びている。


 聖詔者には、結界を扱う作法がある。自分の張った結界は、自分を阻まない。内側にいる者は、はじめから通れる。


 ——わたしは、この道の、内側の者です。


 門に向かって、差し出した。自分が、ここに繋がっている者だということを。この管の先に、自分はいるのだということを。


 弾かれた。


 冷たい何かが、すっと退いた。違う、と言われた気がした。形が、足りない。


 アリスは、息を整えた。声の出ない体で。それでも、整える呼吸の拍は、たしかにあった。


 ——示そうとするから、外の者に見えるのだ。


 アリスは気づいた。示すのではなかった。自分は、はじめからこの道の内側にいる。それを、わざわざ申し立てるから、外から来た者のように扱われる。


 もう一度。


 今度は、差し出さなかった。アリスは、門のほうへ、自分を開いた。聖詔者が結界の内に身を置くときの、あの作法で。閉じるのではなく、ひらく。自分とこの道のあいだの境目を、なくす。


 首の奥の管が、わずかに熱を持った気がした。寝台の上で、指先が、ひとりでに動いた。


 拍が、合った。


 大きなものの中で、何かがほどけた。冷たかった面が、温度を持った。アリスを、阻まなくなった。


 通っていい者だと、認められた。


 門が、開く。


 光ではなかった。音でもなかった。けれど、たしかに、道が一つ、奥へ伸びた。


「開きました」


 アリスは、ケイに告げた。




 通った。


 ケイは、それを手応えで確かめた。門の前にあった仕切りが、退いている。アリスが、答えたのだ。一つ目を、開けた。


 二人で、開けた。


 ——あのときと、同じだ。


 ケイは、わずかに息を吐いた。机の縁に置いた指の力が、少しだけ抜ける。だが、それは一瞬だった。


 開いた門の奥に、次のものが見えていた。


 一枚目とは、違う。認証を一つ返せば開く関門ではない。幾重にも層を重ねた、防火壁だ。外から触れる信号を、片端から遮断するために組まれている。本物の関所は、ここから先だった。


 ——これが、奥の何かを守っている。


 越えるには、層を一枚ずつ読む。暗号の組み方を解き、鍵を作り、正規の通信に見せかけて通す。ケイの領分だった。


 先送りはできなかった。アリスの覚醒は、まだ気づかれていない。だが、いつまでも、ではない。


 ケイは、ここまでの通信の痕跡を消した。一筋ずつ。残ったログを、誰かが見つける前に。そのまま、防火壁の最初の層に取りかかる。


「アリス」


「はい」


「よくやった。だが、止まらない。この先に、もっと硬い壁がある」


「……はい」


「いまのうちに、できるだけ進む」


 ケイは、防火壁の構造を読みはじめた。層が、幾重にも折り重なっている。一枚目とは比べものにならない。だが、組まれたものだ。人が組んだものなら、いつか読める。


 糸の向こうで、アリスが息を整える気配がした。




 道が、奥へ伸びていた。


 アリスは、開いた門の向こうを、感じていた。すぐには、何も見えない。ただ、遠くに、気配があった。


 一つではなかった。


 たくさんの、気配。


 自分と同じように、この道のどこかにいる——誰か。たくさんの、誰か。それが、奥のほうに、ずっと、連なっている気がした。


 ——だれ、ですか。


 問いは、誰にも届かなかった。


 気配は、答えない。ただ、そこに、あった。静かに。たくさん。


 アリスは、自分の指先を見た。寝台の上で、わずかに動く。それだけの体で、こんなに遠くまで、来た。


 ——ケイさん。


 声は、出なかった。けれど、頭の奥で、たしかに呼んだ。


「この道の先に、たくさんの、人がいる気がします」


 返事は、すぐには来なかった。


 糸の向こうで、ケイが、何かを考えている。その沈黙が、アリスには、わかった。


 灰色の天井。変わらない光。隣にも寝台がある。その隣にも。同じ管をつけた人が、並んでいる。


 自分の管が、この道に繋がっていた。隣の人の管も、同じものだ。同じ管なら——


 アリスは、はじめて思った。


 ——この人たちも、この道の、先にいるのだろうか。


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