Episode 43|母の話
◆
考えていた。
通信は一度途切れた。だがケイは机に向かったまま動かなかった。糸の震えが収まるのを待ち、もう一度、意識を糸の上に置く。
答えは出ていなかった。だが、進む方向だけは決まっていた。
アリスを直接出すことはできない。動けない体を。管に繋がれた体を。それは、さっき思い知った。
ならば——別の道を探すしかない。
アリスを出す。そして、その先に、並んだ寝台の皆を出す道を探す。そのどちらも、外で動ける手がなければ、始まらない。
キャロルに、繋ぐ。それが、最初の一歩だった。
糸の震えに呼吸を合わせる。
「アリス」
「はい」
応答は早かった。待っていた震え方だった。
「考えた。お前をそこから出す方法を」
「……はい」
「お前を運び出すのは、いまは無理だ」
アリスは何も言わなかった。わかっていた、という沈黙だった。
「だが、別の道がある」
ケイは続けた。
「お前の頭の後ろ。管が一本、抜けないと言ったな」
「ええ。首の奥から」
「それは、ただの管じゃない」
ケイは言葉を選んだ。
「外へ通じる道の、入り口だ。たぶん」
■
外へ通じる道の、入り口。
アリスはその言葉を繰り返した。頭の中でではない。体の後ろで。
首の奥の、抜けない管。ずっと自分の一部だと思っていた。抜けないから。皮膚と混ざっているから。
「ケイさん。それは、どういう」
「うまく言えない」
ケイの声が少し詰まった。
「お前の頭の管が、何か大きなものに繋がっている」
「大きなもの」
「それが何かは、俺にもわからない。だが、その先に外へ続く道がある。離れた場所とやり取りをするための道だ」
「外に」
「ああ。道があることは、わかる。ただ——その道をお前が通れるかは、やってみないとわからない」
アリスは寝台の上で目を開けたままだった。灰色の天井。変わらない光。隣にも寝台がある。その隣にも。同じ管をつけた人が並んでいる。みんな同じ息をしている。
——これも、その大きなものの一部なのだろうか。
わからなかった。ずっとわからないままの景色だった。なぜ寝台が並んでいるのか。なぜみんな同じ息をしているのか。ケイの話を聞いても、まだわからない。
だが、ひとつだけ希望があった。
この景色の先に、外があるかもしれない。
「お前の頭の管が、その道に繋がっているなら。うまくいけば——」
ケイは一拍置いた。
「その道を辿れば、外に出られる。お前の体は無理でも。お前の声は」
「声は」
「いや。声じゃない」
「お前の意識を、信号に変えて送る。糸を辿るのと同じだ。それは、俺にできる」
ケイの声に、迷いはなかった。
「わからないのは、道の先だ。どこまで通じているか。そこだけは、進んでみないと見えない」
◆
ケイは机の上に指で線を引いた。何もない机の上だ。だがケイの頭の中では、形になりかけていた。
わかっていることを、並べてみる。
アリスの頭の後ろに、抜けない管がある。
同じ管をつけた者が、寝台に大勢並んでいる。
その者たちは、たぶんアリスと同じだ。体はそこにあるまま、心だけがこちらの世界に来ている。
皆が、ひとつの同じ世界を見ている。ばらばらの夢ではなく、ひと続きの同じ場所を。
——流れ。
ケイの中で、その言葉が像を結んだ。前に一度たどり着いた言葉だった。大勢の心が寄り集まり、ひとつの流れになる。その流れを束ねているのが、たぶんあの管だ。
この流れに出入りの道があることは、もう知っていた。
アリスを、ここから送り出した。流れの中から、向こうへ。入る道があるなら出る道もある——その考えで、アリスは現実で目を覚ました。実際に、できたことだ。
だが、それだけでは足りない。
いま要るのは、この場所のもっと外。遠く離れた場所へ通じる道だ。
そこで、ケイはイブのことを思った。
イブは外から来た。この流れに後から入り込んできた者だった。そのイブが、こういう場所を見たことがないと言っていた。大勢が管に繋がれて眠る場所を。自分のいた場所にはなかった、と。
つまりこの流れは、この場所の中だけで閉じていない。イブが通ってきた道が、どこか遠くへ伸びている。
確かなことは、何もない。
だが、線は引けた。
アリスの管。流れ。イブが通ってきたであろう、外への道。
ケイは鍵を読む者だった。道さえあれば、扉は読める。問題は、その道が本当に目的の場所まで通じているか。通じていたとして、辿り着けるか。
それは、繋いでみないとわからなかった。
見るためには、まず繋がなければならない。
——糸と、管。
ケイの頭に二つの経路が浮かんだ。ひとつはイブが残していった糸。外の様子を読み取るための細い線。もうひとつはアリスの後頭部の抜けない管。現実の大きな仕組みにじかに繋がっている。
読む線と、繋がる管。二つを束ねれば双方向の通り道になる。
アリスを送り出したときは、フウの中の穴を借りた。あの穴はもう塞いだ。約束どおりに。今度は、その役をアリス自身の管が引き受ける。向こうで目を覚ましたアリスが、自分の管で外へ繋がっている。
ケイは目を開けた。道は見えた。あとは——行き先だ。
■
「アリス」
ケイの声が戻ってきた。
「お前の母のことを教えてくれ」
アリスは息をのんだ。母。なぜいま母なのか。さっきも母のことを訊かれた。ケイは何かを知っている。だが言わない。
——でも。
いまはそれを問う時ではない。
「何を話せば」
「母が働いていた場所だ」
ケイの声は静かだった。
「会社か、研究所か。名前を覚えているか」
アリスは思い出した。母の職場。一度だけ行ったことがある。小さいころ。大きな白い建物。
「ルッキンググラス、です」
「ルッキンググラス」
「会社の名前です。母はルッキンググラスの研究所に勤めていました。街の外れの、白い大きな建物で。いつも遅くまで」
アリスの声に少しだけ温度が戻った。母の話をするとき、いつもそうだった。
「母の部屋はわかるか」
「研究棟の——」
アリスは記憶を辿った。母の電話の声。夜、家で待っているときによくかかってきた。
「七階です。七〇五号室。母は電話でよく言っていました。『今、七〇五にいるから』『先に寝てなさい』と」
「七〇五」
「母の机に端末がありました。母しか開けないものでした。指を当てて。母の指でないと開かないんです」
ケイの沈黙が深くなった。考えている沈黙だった。
「ありがとう。それで充分だ」
◆
ルッキンググラス。
ケイはその名を口の中で転がした。知らない名前だった。ケイの時代にはなかった。ケイがいなくなったあとにできた会社だろう。
わからないことは、まだ多い。何の会社か。母はそこで何を研究していたのか。
だが、いまはそれでいい。
名前がわかれば、行き先が決まる。
ケイは机の上の見えない線を、もう一度辿った。アリスの管。流れ。その先の、外への道。そしてルッキンググラスの研究所。七階。七〇五号室。母の端末。
指でないと開かない。
——本人認証だ。
指紋。あるいはそれに類するもの。本人でないと開かない仕組み。ケイには開けられない。
だが——ケイの頭に、ひとつの考えが浮かんだ。
アリスはキャロルの娘だ。たぶん。娘なら。母の近くにいた者なら。正しい利用者のふりができるかもしれない。母の家族として。母の知っている者として。「あなたを知っています」と、扉に告げられるかもしれない。
ケイにはできない。アリスにしかできない。
ケイは扉をこじ開ける。アリスは扉に自分を認めさせる。二人でないと通れない道だ。
——初めて二人で鍵を開けた、あのときと同じだ。
鍵穴を読むケイ。届けるアリス。役割が決まった。
■
「アリス」
「はい」
「お前にしかできないことがある」
アリスは姿勢を変えられない。寝台の上で天井を見ている。だが、心は起き上がっていた。
「私に」
「ああ。お前は母の近くにいた。母の暮らしを知っている。それが鍵になる」
「鍵」
「お前が母の場所に、自分を認めさせる。『私はここに入っていい者だ』と。お前にしか言えない」
アリスは目を閉じた。母の机。母の端末。母の指。
自分は母ではない。だが母の娘だ。母の淹れるコーヒーの匂いを知っている。母の早口を知っている。母の「先に寝てなさい」を知っている。
——それが鍵になるなら。
「やります」
アリスは言った。迷いはなかった。
「母に繋がるなら。何でも、やります」
それに——と、アリスは、胸の中で、続けた。
母に繋がれば、いつか、ここから出られるかもしれない。
自分だけでは、ない。
この、並んだ寝台の、皆も。
置いて、いきたくなかった。
糸の向こうで、ケイが小さく応えた。
「ああ」
◆
通信を保ったまま、ケイは最初の経路に手を伸ばした。イブの糸。アリスの管。二つをそっと重ねる。読む線と、外へ繋がる管がひとつになる感触。
流れの、いちばん端が見えた。その先に、外へ抜けるらしい口がある。まだ手前だ。だが確かにそこにあった。
ケイはその入り口の構造を読んだ。扉の組まれ方。鍵のかかり方。線の束ね方。いつものように読めた。
読めた、のだが——ケイの指が止まった。
この組まれ方。どこかで見た気がした。扉の形。鍵の癖。線のまとめ方。
——知っている。
なぜ知っているのか。ケイにはわからなかった。初めて触れる仕組みのはずだった。ケイの時代になかった技術のはずだった。それなのに、この組まれ方には覚えがあった。
まるで——自分で組んだもののように。
ケイはその引っかかりを奥にしまった。いまは進むときだ。考えるのはあとでいい。
糸の向こうで、アリスが待っている。扉の向こうにルッキンググラスがある。母がいる。
ケイは最初の扉に手をかけた。
覚えのある、手触りだった。
なぜ、覚えがあるのか。
その答えだけが、ずっとすぐ後ろにいる気がした。




