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Episode 43|母の話


 考えていた。


 通信は一度途切れた。だがケイは机に向かったまま動かなかった。糸の震えが収まるのを待ち、もう一度、意識を糸の上に置く。


 答えは出ていなかった。だが、進む方向だけは決まっていた。


 アリスを直接出すことはできない。動けない体を。管に繋がれた体を。それは、さっき思い知った。


 ならば——別の道を探すしかない。


 アリスを出す。そして、その先に、並んだ寝台の皆を出す道を探す。そのどちらも、外で動ける手がなければ、始まらない。


 キャロルに、繋ぐ。それが、最初の一歩だった。


 糸の震えに呼吸を合わせる。


「アリス」


「はい」


 応答は早かった。待っていた震え方だった。


「考えた。お前をそこから出す方法を」


「……はい」


「お前を運び出すのは、いまは無理だ」


 アリスは何も言わなかった。わかっていた、という沈黙だった。


「だが、別の道がある」


 ケイは続けた。


「お前の頭の後ろ。管が一本、抜けないと言ったな」


「ええ。首の奥から」


「それは、ただの管じゃない」


 ケイは言葉を選んだ。


「外へ通じる道の、入り口だ。たぶん」




 外へ通じる道の、入り口。


 アリスはその言葉を繰り返した。頭の中でではない。体の後ろで。


 首の奥の、抜けない管。ずっと自分の一部だと思っていた。抜けないから。皮膚と混ざっているから。


「ケイさん。それは、どういう」


「うまく言えない」


 ケイの声が少し詰まった。


「お前の頭の管が、何か大きなものに繋がっている」


「大きなもの」


「それが何かは、俺にもわからない。だが、その先に外へ続く道がある。離れた場所とやり取りをするための道だ」


「外に」


「ああ。道があることは、わかる。ただ——その道をお前が通れるかは、やってみないとわからない」


 アリスは寝台の上で目を開けたままだった。灰色の天井。変わらない光。隣にも寝台がある。その隣にも。同じ管をつけた人が並んでいる。みんな同じ息をしている。


 ——これも、その大きなものの一部なのだろうか。


 わからなかった。ずっとわからないままの景色だった。なぜ寝台が並んでいるのか。なぜみんな同じ息をしているのか。ケイの話を聞いても、まだわからない。


 だが、ひとつだけ希望があった。


 この景色の先に、外があるかもしれない。


「お前の頭の管が、その道に繋がっているなら。うまくいけば——」


 ケイは一拍置いた。


「その道を辿れば、外に出られる。お前の体は無理でも。お前の声は」


「声は」


「いや。声じゃない」


「お前の意識を、信号に変えて送る。糸を辿るのと同じだ。それは、俺にできる」


 ケイの声に、迷いはなかった。


「わからないのは、道の先だ。どこまで通じているか。そこだけは、進んでみないと見えない」




 ケイは机の上に指で線を引いた。何もない机の上だ。だがケイの頭の中では、形になりかけていた。


 わかっていることを、並べてみる。


 アリスの頭の後ろに、抜けない管がある。


 同じ管をつけた者が、寝台に大勢並んでいる。


 その者たちは、たぶんアリスと同じだ。体はそこにあるまま、心だけがこちらの世界に来ている。


 皆が、ひとつの同じ世界を見ている。ばらばらの夢ではなく、ひと続きの同じ場所を。


 ——流れ。


 ケイの中で、その言葉が像を結んだ。前に一度たどり着いた言葉だった。大勢の心が寄り集まり、ひとつの流れになる。その流れを束ねているのが、たぶんあの管だ。


 この流れに出入りの道があることは、もう知っていた。


 アリスを、ここから送り出した。流れの中から、向こうへ。入る道があるなら出る道もある——その考えで、アリスは現実で目を覚ました。実際に、できたことだ。


 だが、それだけでは足りない。


 いま要るのは、この場所のもっと外。遠く離れた場所へ通じる道だ。


 そこで、ケイはイブのことを思った。


 イブは外から来た。この流れに後から入り込んできた者だった。そのイブが、こういう場所を見たことがないと言っていた。大勢が管に繋がれて眠る場所を。自分のいた場所にはなかった、と。


 つまりこの流れは、この場所の中だけで閉じていない。イブが通ってきた道が、どこか遠くへ伸びている。


 確かなことは、何もない。


 だが、線は引けた。


 アリスの管。流れ。イブが通ってきたであろう、外への道。


 ケイは鍵を読む者だった。道さえあれば、扉は読める。問題は、その道が本当に目的の場所まで通じているか。通じていたとして、辿り着けるか。


 それは、繋いでみないとわからなかった。


 見るためには、まず繋がなければならない。


 ——糸と、管。


 ケイの頭に二つの経路が浮かんだ。ひとつはイブが残していった糸。外の様子を読み取るための細い線。もうひとつはアリスの後頭部の抜けない管。現実の大きな仕組みにじかに繋がっている。


 読む線と、繋がる管。二つを束ねれば双方向の通り道になる。


 アリスを送り出したときは、フウの中の穴を借りた。あの穴はもう塞いだ。約束どおりに。今度は、その役をアリス自身の管が引き受ける。向こうで目を覚ましたアリスが、自分の管で外へ繋がっている。


 ケイは目を開けた。道は見えた。あとは——行き先だ。




「アリス」


 ケイの声が戻ってきた。


「お前の母のことを教えてくれ」


 アリスは息をのんだ。母。なぜいま母なのか。さっきも母のことを訊かれた。ケイは何かを知っている。だが言わない。


 ——でも。


 いまはそれを問う時ではない。


「何を話せば」


「母が働いていた場所だ」


 ケイの声は静かだった。


「会社か、研究所か。名前を覚えているか」


 アリスは思い出した。母の職場。一度だけ行ったことがある。小さいころ。大きな白い建物。


「ルッキンググラス、です」


「ルッキンググラス」


「会社の名前です。母はルッキンググラスの研究所に勤めていました。街の外れの、白い大きな建物で。いつも遅くまで」


 アリスの声に少しだけ温度が戻った。母の話をするとき、いつもそうだった。


「母の部屋はわかるか」


「研究棟の——」


 アリスは記憶を辿った。母の電話の声。夜、家で待っているときによくかかってきた。


「七階です。七〇五号室。母は電話でよく言っていました。『今、七〇五にいるから』『先に寝てなさい』と」


「七〇五」


「母の机に端末がありました。母しか開けないものでした。指を当てて。母の指でないと開かないんです」


 ケイの沈黙が深くなった。考えている沈黙だった。


「ありがとう。それで充分だ」




 ルッキンググラス。


 ケイはその名を口の中で転がした。知らない名前だった。ケイの時代にはなかった。ケイがいなくなったあとにできた会社だろう。


 わからないことは、まだ多い。何の会社か。母はそこで何を研究していたのか。


 だが、いまはそれでいい。


 名前がわかれば、行き先が決まる。


 ケイは机の上の見えない線を、もう一度辿った。アリスの管。流れ。その先の、外への道。そしてルッキンググラスの研究所。七階。七〇五号室。母の端末。


 指でないと開かない。


 ——本人認証だ。


 指紋。あるいはそれに類するもの。本人でないと開かない仕組み。ケイには開けられない。


 だが——ケイの頭に、ひとつの考えが浮かんだ。


 アリスはキャロルの娘だ。たぶん。娘なら。母の近くにいた者なら。正しい利用者のふりができるかもしれない。母の家族として。母の知っている者として。「あなたを知っています」と、扉に告げられるかもしれない。


 ケイにはできない。アリスにしかできない。


 ケイは扉をこじ開ける。アリスは扉に自分を認めさせる。二人でないと通れない道だ。


 ——初めて二人で鍵を開けた、あのときと同じだ。


 鍵穴を読むケイ。届けるアリス。役割が決まった。




「アリス」


「はい」


「お前にしかできないことがある」


 アリスは姿勢を変えられない。寝台の上で天井を見ている。だが、心は起き上がっていた。


「私に」


「ああ。お前は母の近くにいた。母の暮らしを知っている。それが鍵になる」


「鍵」


「お前が母の場所に、自分を認めさせる。『私はここに入っていい者だ』と。お前にしか言えない」


 アリスは目を閉じた。母の机。母の端末。母の指。


 自分は母ではない。だが母の娘だ。母の淹れるコーヒーの匂いを知っている。母の早口を知っている。母の「先に寝てなさい」を知っている。


 ——それが鍵になるなら。


「やります」


 アリスは言った。迷いはなかった。


「母に繋がるなら。何でも、やります」


 それに——と、アリスは、胸の中で、続けた。


 母に繋がれば、いつか、ここから出られるかもしれない。

 自分だけでは、ない。

 この、並んだ寝台の、皆も。


 置いて、いきたくなかった。


 糸の向こうで、ケイが小さく応えた。


「ああ」




 通信を保ったまま、ケイは最初の経路に手を伸ばした。イブの糸。アリスの管。二つをそっと重ねる。読む線と、外へ繋がる管がひとつになる感触。


 流れの、いちばん端が見えた。その先に、外へ抜けるらしい口がある。まだ手前だ。だが確かにそこにあった。


 ケイはその入り口の構造を読んだ。扉の組まれ方。鍵のかかり方。線の束ね方。いつものように読めた。


 読めた、のだが——ケイの指が止まった。


 この組まれ方。どこかで見た気がした。扉の形。鍵の癖。線のまとめ方。


 ——知っている。


 なぜ知っているのか。ケイにはわからなかった。初めて触れる仕組みのはずだった。ケイの時代になかった技術のはずだった。それなのに、この組まれ方には覚えがあった。


 まるで——自分で組んだもののように。


 ケイはその引っかかりを奥にしまった。いまは進むときだ。考えるのはあとでいい。


 糸の向こうで、アリスが待っている。扉の向こうにルッキンググラスがある。母がいる。


 ケイは最初の扉に手をかけた。


 覚えのある、手触りだった。


 なぜ、覚えがあるのか。


 その答えだけが、ずっとすぐ後ろにいる気がした。


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