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Episode 42|名前


 糸の震えが、待っている。


 ケイは、目を伏せたままだった。


 訊くべきことは、決まっていた。


 なぜ訊きたいのか。


 その理由だけが、まだ、言葉にならない。


 それでも、口は、動いた。


「アリス」


「はい」


「もとの場所で——」


 ケイは、一度、息を吸った。


「どんな暮らしを、していた」


 糸の向こうで、しばらく、間があった。


 考えている間ではない。


 遠い場所を、見ている間だった。


「……ふつうの、暮らしです」


 アリスの声が、戻ってきた。


「家が、ありました。学校に、通っていました。塾にも」


「家には」


「母と、二人で」


 ケイの指が、机の縁で、止まった。


「父は」


「いません。小さいころから、ずっと」


 アリスの声は、淡々としていた。


 悲しんでいる声では、ない。


 もう、慣れている声だった。


「母と二人で、長く暮らしました。母は、忙しい人でした」


「忙しい」


「研究を、していました。朝が、早くて。よく、コーヒーの匂いで、目が覚めました」


 ケイは、何も言わなかった。


 言えなかった、というほうが、近い。


「ケイさんは」


 アリスが、訊き返した。


「どうして、母のことを」


「いや」


 ケイは、短く答えた。


「もう少し、聞かせてくれ」




 アリスは、寝台の上にいた。


 天井は、変わらず灰色だった。


 光の出所は、わからない。


 ケイの声が、後頭部の管を通って、届いている。


 声というより、輪郭だった。


 だが、もう、聞き間違えることはない。


 ——ケイさんだ。


 わかる。


 ——なぜ、母のことを、訊くのだろう。


 アリスは、考えた。


 考えて、やめた。


 訊かれて、嫌な気持ちでは、なかった。


 むしろ——


 母のことを、話せる相手が、いる。


 それが、ここでは、めずらしかった。


 アリスは、母のことを、思い出した。


 朝の台所。


 白い実験衣。


 後ろで一つに束ねた、金に近い、茶色の髪。


 背は、自分より少し低い。


 早口で、よく喋る。


 研究の話を、半分は、アリスにもわかるように。


 半分は、わからないままに。


「母は」


 アリスは、続けた。


「数字の話を、していました。暗号の、話だと、言っていました」


 糸の向こうで、ケイが、黙ったのが、わかった。


 息を、止めたような、沈黙だった。


「ケイさん?」


「……ああ。聞いている」


 ケイの声が、少し、低くなっていた。




 ケイは、机に、両手をついていた。


 暗号。


 その言葉が、胸の奥で、引っかかった。


 いや——引っかかった、のではない。


 刺さった。


 アリスの母は、研究者だった。


 朝が早く、コーヒーを淹れ、暗号の話をする。


 金に近い、茶色の髪。


 背が、小さい。


 ——コーヒーの匂いで、目が覚めた。


 アリスは、そう言った。


 ケイの記憶の中にも、同じ匂いが、あった。


 白いマグカップ。


 湯気だけが、立っていた、あのカップ。


 ——偶然だ。


 ケイは、自分に言い聞かせた。


 暗号の研究者は、ほかにも、いる。


 髪の色も、背丈も、似た人は、いる。


 だが、偶然が、二つ、三つと、重なっていく。


 重なるたびに、偶然では、なくなっていく。


 ケイは、訊いた。


 訊かずには、いられなかった。


「アリス」


「はい」


「母の、名前は」


 一拍。


 糸の震えが、わずかに、揺れた。


「キャロル、です」


 ケイは、動かなかった。


 息も、止まっていた。


 部屋の音が、遠くなった。


 工房の灯りが、机の縁で、揺れている。


 ——キャロル。


 その名を、ケイは、知っていた。


 雪の研究室。


 白いマグカップ。


 桜のベンチ。


 「あとで」と言って、立ち上がった、誰か。


 あの「あとで」は、来なかった。


 ケイは、ずっと、そう思っていた。


 だが——


 来ていたのかもしれない。


 ケイの、いないところで。




 ケイが、黙ったのが、わかった。


 長い、沈黙だった。


 今までで、いちばん、長い。


「ケイさん」


 アリスは、呼んだ。


 返事は、すぐには、来なかった。


「ケイさん。聞こえて、いますか」


「……ああ」


 ケイの声が、戻ってきた。


 だが、何かが、違った。


 いつもの、短い断定では、ない。


 迷っている声だった。


 ケイが、迷う。


 それが、アリスには、意外だった。


 この人は、いつも、答えを持っている人だった。


 工房でも。


 評議の間でも。


 送り出された、あの朝でも。


「母を、知っているのですか」


 アリスは、訊いた。


 訊いてから、おかしなことを訊いた、と思った。


 ——ケイさんが、母を知っているはずが、ない。


 母は、自分が暮らしていた、あの家にいる。


 こことは、違う場所に。


 それなのに——


 なぜか、そう、訊いていた。




 ケイは、答えなかった。


 答えられなかった。


 ——お前の母を、知っている。


 その一言が、喉の奥で、止まっていた。


 言えば、どうなる。


 アリスは、何を思う。


 自分が世話になってきた解錠師が、母の、昔の——


 ケイは、そこで、思考を止めた。


 まだ、確かめたわけでは、ない。


 ——偶然だ。


 もう一度、そう思おうとした。


 だが、その声は、力を失っていた。


 時代の、隔たり。


 自分が気を失った夜から、長い時が、流れている。


 もし、あの夜のあと、キャロルが——


 子を、産んでいたなら。


 その子が、いま、目の前の糸の向こうに、いるのだとしたら。


 ケイは、目を、固く閉じた。


 計算は、合ってしまう。


 合ってしまう、ことが、怖かった。




「ケイさん」


 アリスは、もう一度、呼んだ。


「言いたくないなら、いいんです」


 アリスは、そう言った。


 ——ケイさんには、言えないことが、ある。


 それは、前から、知っていた。


 チップを持たないこと。


 古い記憶のこと。


 この人は、いつも、半分だけ、隠している。


 隠したまま、それでも、助けてくれる人だった。


 だから、待てる。


 アリスは、そう思った。


 待つことには、慣れている。


 聖詔者は、いつも、待つ仕事だった。


 だが——


 ひとつだけ、伝えておきたいことが、あった。


 ケイが母を知っていようと、いまいと。


 それとは、別に。


「ケイさん。ひとつ、聞いて、ください」


「ああ」


 母のことでは、ない。


 自分の、ことだ。


「私、ここから、動けないんです」


 糸の向こうで、ケイの息が、止まった。




「動けない」


 ケイは、繰り返した。


「ええ」


 アリスの声は、静かだった。


「目は、覚めました。指は、少し、動きます。首も、ほんの少し。でも、それだけです」


「腕は」


「上がりません。一度、肘から先が、動いたんです。でも、すぐに、降りてしまって。力の、入れ方を、忘れたみたいに」


 ケイは、立ち上がっていた。


 いつ立ったのか、自分でも、わからなかった。


「立てるか」


「いいえ」


「歩けるか」


「いいえ」


 アリスの声に、感情は、なかった。


 ただ、事実だけを、伝えていた。


「体に、たくさん、管が、ついています。一つは、抜けません。後ろの、頭の——首の、奥から。それだけは、抜けないんです」


 一拍、置いた。


「それに、ケイさん。私の、周りには」


「ああ」


「寝台が、並んでいるんです。たくさん。列の、端が、見えないくらい」


 アリスの声が、わずかに、低くなった。


「どの寝台にも、人がいます。私と、同じように。同じ管に、繋がれて。同じ息を、しています」


「あの人たちも、私と、同じなんでしょうか。同じ管で、同じ息を、して。でも、どこで、何をしているのか——わからないんです」


 アリスは、少し、間を置いた。


「置いて、いけないと、思うんです。うまく、言えませんけど」


 ケイは、机の縁を、握った。


 強く、握りすぎて、指が、白くなった。


 ——送り出せば、自由になれる。


 ケイは、そう思っていた。


 流れの中から、本当の場所へ。


 体のある、外の場所へ。


 帰してやれば、それで。


 だが、違った。


 帰した先で、アリスは、動けずにいた。


 寝かされて、繋がれて。


 ——列の端が、見えないほどの、寝台。


 アリスの声が、頭の奥で、繰り返されていた。


 ケイは、自分が口にした言葉を、思い出した。あの朝、糸を握り、サトルに告げた言葉。


 ——ここに囚われた者を、ひとり残らず外に出す。


 あのとき、囚われた者たちは、どこか遠くにいるのだと、思っていた。顔の見えない、誰か。


 違った。


 アリスのいる、その場所だ。並んだ寝台の、一つひとつが。


 皆を出す道は、遠くではない。アリスのいる、その場所から、始まる。


 ——あの夜、運ばれた自分は、その後、どうなったのか。


 ケイは、初めて、それを、考えた。


 だが、答えは、なかった。


 記憶は、あの夜で、途切れている。




 ケイの沈黙が、また、続いた。


 だが、さっきとは、違う沈黙だった。


 さっきは、迷っている沈黙。


 今は——


 堪えている、沈黙だった。


 アリスには、それが、わかった。


 なぜ、わかるのかは、わからない。


 声も、顔も、見えないのに。


 糸の、震え方だけで、伝わってきた。


「ケイさん」


 アリスは、言った。


「私、こわく、ないんです」


 それは、半分、本当だった。


 半分は、強がりだった。


「ケイさんが、いるから」


 それは、全部、本当だった。


 糸の向こうで、ケイが、何かを言いかけた。


 止めて、もう一度、言いかけた。


 そして、言った。


「アリス」


「はい」


「少し、時間をくれ」


 ケイの声は、低かった。


 だが、迷いは、消えていた。


「考える。お前を、そこから、出す方法を」


「……はい」


「一人じゃ、ない。それだけは、覚えておけ」


 アリスは、目を、閉じた。


 目尻に、薄く、水が滲んだ。


 誰も、見ていなかった。


 今度は、それでも、よかった。




 通信が、途切れた。


 糸の震えが、止まり、待っている形に、戻った。


 ケイは、椅子に、座り直した。


 窓の外の黒が、もう、いちだんと深くなっていた。


 考えなければ、ならないことが、二つ、あった。


 ひとつは、アリスを、どうやって、そこから出すか。


 動けない体を、管に繋がれた体を、どうやって。


 もうひとつは——


 ケイは、目を閉じた。


 もうひとつは、キャロルのことだった。


 もし、アリスが、キャロルの娘なら。


 キャロルは、いまも、外にいる。


 本当の場所に。


 体のある、場所に。


 ケイには、出せない手紙の宛先が、できた。


 届けられるかどうかは、わからない。


 だが、宛先だけは、はっきりと、見えていた。


 ——キャロルに、繋ぐ。


 アリスを、出す。


 だが、ケイには、外で動ける手も、足も、ない。流れの中から、構造を読むことしか、できない。


 外で、動ける誰かが、要る。体のある、本当の場所で。


 アリスを出すにも。その先の、並んだ寝台の、皆を出すにも。


 キャロルが、外にいる。動ける場所に。それが、最初の一歩だ。


 どこにいるか。


 どうやって。


 それは、まだ、何も、わからない。


 だが、それしか、道は、なかった。


 ——キャロル。


 ケイは、その名を、もう一度、胸の中で、呼んだ。


 ずいぶん、長く、呼ばなかった名前だ、と思った。


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