Episode 42|名前
◆
糸の震えが、待っている。
ケイは、目を伏せたままだった。
訊くべきことは、決まっていた。
なぜ訊きたいのか。
その理由だけが、まだ、言葉にならない。
それでも、口は、動いた。
「アリス」
「はい」
「もとの場所で——」
ケイは、一度、息を吸った。
「どんな暮らしを、していた」
糸の向こうで、しばらく、間があった。
考えている間ではない。
遠い場所を、見ている間だった。
「……ふつうの、暮らしです」
アリスの声が、戻ってきた。
「家が、ありました。学校に、通っていました。塾にも」
「家には」
「母と、二人で」
ケイの指が、机の縁で、止まった。
「父は」
「いません。小さいころから、ずっと」
アリスの声は、淡々としていた。
悲しんでいる声では、ない。
もう、慣れている声だった。
「母と二人で、長く暮らしました。母は、忙しい人でした」
「忙しい」
「研究を、していました。朝が、早くて。よく、コーヒーの匂いで、目が覚めました」
ケイは、何も言わなかった。
言えなかった、というほうが、近い。
「ケイさんは」
アリスが、訊き返した。
「どうして、母のことを」
「いや」
ケイは、短く答えた。
「もう少し、聞かせてくれ」
■
アリスは、寝台の上にいた。
天井は、変わらず灰色だった。
光の出所は、わからない。
ケイの声が、後頭部の管を通って、届いている。
声というより、輪郭だった。
だが、もう、聞き間違えることはない。
——ケイさんだ。
わかる。
——なぜ、母のことを、訊くのだろう。
アリスは、考えた。
考えて、やめた。
訊かれて、嫌な気持ちでは、なかった。
むしろ——
母のことを、話せる相手が、いる。
それが、ここでは、めずらしかった。
アリスは、母のことを、思い出した。
朝の台所。
白い実験衣。
後ろで一つに束ねた、金に近い、茶色の髪。
背は、自分より少し低い。
早口で、よく喋る。
研究の話を、半分は、アリスにもわかるように。
半分は、わからないままに。
「母は」
アリスは、続けた。
「数字の話を、していました。暗号の、話だと、言っていました」
糸の向こうで、ケイが、黙ったのが、わかった。
息を、止めたような、沈黙だった。
「ケイさん?」
「……ああ。聞いている」
ケイの声が、少し、低くなっていた。
◆
ケイは、机に、両手をついていた。
暗号。
その言葉が、胸の奥で、引っかかった。
いや——引っかかった、のではない。
刺さった。
アリスの母は、研究者だった。
朝が早く、コーヒーを淹れ、暗号の話をする。
金に近い、茶色の髪。
背が、小さい。
——コーヒーの匂いで、目が覚めた。
アリスは、そう言った。
ケイの記憶の中にも、同じ匂いが、あった。
白いマグカップ。
湯気だけが、立っていた、あのカップ。
——偶然だ。
ケイは、自分に言い聞かせた。
暗号の研究者は、ほかにも、いる。
髪の色も、背丈も、似た人は、いる。
だが、偶然が、二つ、三つと、重なっていく。
重なるたびに、偶然では、なくなっていく。
ケイは、訊いた。
訊かずには、いられなかった。
「アリス」
「はい」
「母の、名前は」
一拍。
糸の震えが、わずかに、揺れた。
「キャロル、です」
ケイは、動かなかった。
息も、止まっていた。
部屋の音が、遠くなった。
工房の灯りが、机の縁で、揺れている。
——キャロル。
その名を、ケイは、知っていた。
雪の研究室。
白いマグカップ。
桜のベンチ。
「あとで」と言って、立ち上がった、誰か。
あの「あとで」は、来なかった。
ケイは、ずっと、そう思っていた。
だが——
来ていたのかもしれない。
ケイの、いないところで。
■
ケイが、黙ったのが、わかった。
長い、沈黙だった。
今までで、いちばん、長い。
「ケイさん」
アリスは、呼んだ。
返事は、すぐには、来なかった。
「ケイさん。聞こえて、いますか」
「……ああ」
ケイの声が、戻ってきた。
だが、何かが、違った。
いつもの、短い断定では、ない。
迷っている声だった。
ケイが、迷う。
それが、アリスには、意外だった。
この人は、いつも、答えを持っている人だった。
工房でも。
評議の間でも。
送り出された、あの朝でも。
「母を、知っているのですか」
アリスは、訊いた。
訊いてから、おかしなことを訊いた、と思った。
——ケイさんが、母を知っているはずが、ない。
母は、自分が暮らしていた、あの家にいる。
こことは、違う場所に。
それなのに——
なぜか、そう、訊いていた。
◆
ケイは、答えなかった。
答えられなかった。
——お前の母を、知っている。
その一言が、喉の奥で、止まっていた。
言えば、どうなる。
アリスは、何を思う。
自分が世話になってきた解錠師が、母の、昔の——
ケイは、そこで、思考を止めた。
まだ、確かめたわけでは、ない。
——偶然だ。
もう一度、そう思おうとした。
だが、その声は、力を失っていた。
時代の、隔たり。
自分が気を失った夜から、長い時が、流れている。
もし、あの夜のあと、キャロルが——
子を、産んでいたなら。
その子が、いま、目の前の糸の向こうに、いるのだとしたら。
ケイは、目を、固く閉じた。
計算は、合ってしまう。
合ってしまう、ことが、怖かった。
■
「ケイさん」
アリスは、もう一度、呼んだ。
「言いたくないなら、いいんです」
アリスは、そう言った。
——ケイさんには、言えないことが、ある。
それは、前から、知っていた。
チップを持たないこと。
古い記憶のこと。
この人は、いつも、半分だけ、隠している。
隠したまま、それでも、助けてくれる人だった。
だから、待てる。
アリスは、そう思った。
待つことには、慣れている。
聖詔者は、いつも、待つ仕事だった。
だが——
ひとつだけ、伝えておきたいことが、あった。
ケイが母を知っていようと、いまいと。
それとは、別に。
「ケイさん。ひとつ、聞いて、ください」
「ああ」
母のことでは、ない。
自分の、ことだ。
「私、ここから、動けないんです」
糸の向こうで、ケイの息が、止まった。
◆
「動けない」
ケイは、繰り返した。
「ええ」
アリスの声は、静かだった。
「目は、覚めました。指は、少し、動きます。首も、ほんの少し。でも、それだけです」
「腕は」
「上がりません。一度、肘から先が、動いたんです。でも、すぐに、降りてしまって。力の、入れ方を、忘れたみたいに」
ケイは、立ち上がっていた。
いつ立ったのか、自分でも、わからなかった。
「立てるか」
「いいえ」
「歩けるか」
「いいえ」
アリスの声に、感情は、なかった。
ただ、事実だけを、伝えていた。
「体に、たくさん、管が、ついています。一つは、抜けません。後ろの、頭の——首の、奥から。それだけは、抜けないんです」
一拍、置いた。
「それに、ケイさん。私の、周りには」
「ああ」
「寝台が、並んでいるんです。たくさん。列の、端が、見えないくらい」
アリスの声が、わずかに、低くなった。
「どの寝台にも、人がいます。私と、同じように。同じ管に、繋がれて。同じ息を、しています」
「あの人たちも、私と、同じなんでしょうか。同じ管で、同じ息を、して。でも、どこで、何をしているのか——わからないんです」
アリスは、少し、間を置いた。
「置いて、いけないと、思うんです。うまく、言えませんけど」
ケイは、机の縁を、握った。
強く、握りすぎて、指が、白くなった。
——送り出せば、自由になれる。
ケイは、そう思っていた。
流れの中から、本当の場所へ。
体のある、外の場所へ。
帰してやれば、それで。
だが、違った。
帰した先で、アリスは、動けずにいた。
寝かされて、繋がれて。
——列の端が、見えないほどの、寝台。
アリスの声が、頭の奥で、繰り返されていた。
ケイは、自分が口にした言葉を、思い出した。あの朝、糸を握り、サトルに告げた言葉。
——ここに囚われた者を、ひとり残らず外に出す。
あのとき、囚われた者たちは、どこか遠くにいるのだと、思っていた。顔の見えない、誰か。
違った。
アリスのいる、その場所だ。並んだ寝台の、一つひとつが。
皆を出す道は、遠くではない。アリスのいる、その場所から、始まる。
——あの夜、運ばれた自分は、その後、どうなったのか。
ケイは、初めて、それを、考えた。
だが、答えは、なかった。
記憶は、あの夜で、途切れている。
■
ケイの沈黙が、また、続いた。
だが、さっきとは、違う沈黙だった。
さっきは、迷っている沈黙。
今は——
堪えている、沈黙だった。
アリスには、それが、わかった。
なぜ、わかるのかは、わからない。
声も、顔も、見えないのに。
糸の、震え方だけで、伝わってきた。
「ケイさん」
アリスは、言った。
「私、こわく、ないんです」
それは、半分、本当だった。
半分は、強がりだった。
「ケイさんが、いるから」
それは、全部、本当だった。
糸の向こうで、ケイが、何かを言いかけた。
止めて、もう一度、言いかけた。
そして、言った。
「アリス」
「はい」
「少し、時間をくれ」
ケイの声は、低かった。
だが、迷いは、消えていた。
「考える。お前を、そこから、出す方法を」
「……はい」
「一人じゃ、ない。それだけは、覚えておけ」
アリスは、目を、閉じた。
目尻に、薄く、水が滲んだ。
誰も、見ていなかった。
今度は、それでも、よかった。
◆
通信が、途切れた。
糸の震えが、止まり、待っている形に、戻った。
ケイは、椅子に、座り直した。
窓の外の黒が、もう、いちだんと深くなっていた。
考えなければ、ならないことが、二つ、あった。
ひとつは、アリスを、どうやって、そこから出すか。
動けない体を、管に繋がれた体を、どうやって。
もうひとつは——
ケイは、目を閉じた。
もうひとつは、キャロルのことだった。
もし、アリスが、キャロルの娘なら。
キャロルは、いまも、外にいる。
本当の場所に。
体のある、場所に。
ケイには、出せない手紙の宛先が、できた。
届けられるかどうかは、わからない。
だが、宛先だけは、はっきりと、見えていた。
——キャロルに、繋ぐ。
アリスを、出す。
だが、ケイには、外で動ける手も、足も、ない。流れの中から、構造を読むことしか、できない。
外で、動ける誰かが、要る。体のある、本当の場所で。
アリスを出すにも。その先の、並んだ寝台の、皆を出すにも。
キャロルが、外にいる。動ける場所に。それが、最初の一歩だ。
どこにいるか。
どうやって。
それは、まだ、何も、わからない。
だが、それしか、道は、なかった。
——キャロル。
ケイは、その名を、もう一度、胸の中で、呼んだ。
ずいぶん、長く、呼ばなかった名前だ、と思った。




