表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/52

Episode 41|あの夜


 その夜のことを、長く、思い出さなかった。


 いや——


 思い出さないように、していたのかもしれない。


 卒業まで、あと数日。


 その夜、ケイは研究室に残っていた。


 卒論の、最後の手直し。


 時計は、夜中の三時を回っている。


 研究棟は、静かだ。


 ほとんどの部屋が暗い。


 四階の廊下も、明かりが半分だけ落ちている。


 研究室には、マコトもいた。


 帰らずに、向こうのデスク。


「最後の確認をしたくて」


 そう言って、マコトは残った。


 マコトとは、三年、同じ研究室にいる。


 はじめは、よく議論をした。


 キャロルを入れて、三人で。


 ケイが式を書く。マコトが穴を探す。キャロルが、別の角度から、つつく。


 たいてい、最後に答えに着くのは、ケイだ。


 マコトは、それを、笑って受け入れていた。


 受け入れている、ように見えていた。


 机の上に、印刷された論文が広げてある。


 ケイの卒論のコピーだ。


 赤いペンで、あちこちに書き込み。


「ここ」


 マコトが一枚を指した。


「この展開、お前、どうやって思いついたんだ」


 ケイは紙を引き寄せる。


 数式を目で追う。


 卒論で書いた、変換の式だ。


「必要だっただけだ」


「必要、か」


 マコトが笑う。


 いつものマコトの笑いだ。


 ケイはそう思っていた。


 その時は。


 ケイは式の説明を始めた。


 遠回りを、一度、全部畳む。


 畳んだ先で、ルールそのものを書き換える。


 話しながら、紙の上にペンを走らせる。


 顔は、上げなかった。




 話が、一段落した。


「コーヒー、淹れるか」


 ケイは立ち上がる。


 研究室の隅に、古いコーヒーメーカー。


 ポットには、夕方淹れたものが、まだ残っている。


 二つのカップに注いだ。


 ひとつを、自分の机に置く。


 もうひとつを持って、マコトのデスクへ歩いた。


「ほら」


 マコトは受け取らない。


「そこ、置いといて」


 ケイは、机の端に置いた。


 ふと、棚の資料が要ると思い出す。


 数歩、離れた。


 背中で、椅子の軋む音。


 マコトが、立ったようだった。


 ケイは棚から束を抜く。


 探すのに、少し、手間取った。


 背後で、小さな音。


 何かが、液体に落ちる音。


 振り返らなかった。


 コップでも、置き直したのだろう。


 そう思った。


 戻ると、二つのカップは、さっきのまま。


 ——さっきのまま、に見えた。


 マコトのカップだけ、位置が、少し変わっている。


 ケイは、それに、気づかない。


 席に戻る。


 自分のカップを取った。


 口をつける。


 ぬるい。


 苦い。


 ふだんの苦さとは、少し違う気がした。


 舌の奥に、薬のような、ざらついた何かが残る。


 だが、ケイは気にしなかった。


 夕方のコーヒーが、煮詰まったのだろう。


 そう思った。


 マコトは、自分のカップに口をつけない。


 ケイは、それにも気づかなかった。


「な、ケイ」


「ん」


「お前、自分が、どれだけ持ってるか、わかってるか」


 ケイはペンを止めた。


「何の話だ」


「式だよ」


 マコトが言う。


「キャロルもだ」


 ケイはマコトを見た。


 マコトはケイを見ていない。


 カップの縁を、指でなぞっている。


「俺、ずっと、二番目だった」


 マコトの声が、低い。


「研究室で、お前の次。キャロルの中でも、お前の次」


「マコト」


「いいんだ。聞いてくれ」


 マコトが顔を上げる。


 目の奥が、見えない。


 ロビーで見たときと、同じだ。


「俺、キャロルに、言ったことがあるんだ。ずっと前に」


 指が、カップの縁を、もう一度なぞった。


「断られた。理由は、言わなかった。でも、わかってた。お前だよ」


 ケイは黙っている。


「お前は、何も、言わなかったよな。キャロルのことも。式のことも。国外からの、誘いのことも。あんな話、普通、一生に一度も来ない。それが、向こうから、来た」


「来たわけじゃ、ない」


「同じだよ」


 マコトが、少し笑った。


「欲しがってないやつのところに、集まるんだ。俺が、どれだけ欲しがっても、来ないものが」


 マコトが、ケイを見る。


「お前は、全部、持っていく。式も、国外の誘いも、キャロルも。何も、決めてないのに」


「決めてない」


「そこだよ」


 マコトの笑いが、消えた。


「決めてないのに、全部、手の中にある。俺は、決めても、何も手に入らない」


 ケイは黙っていた。


 返す言葉が、すぐには出てこない。




 話は、式に戻った。


 ケイは、また紙にペンを走らせる。


 マコトは、もう、穴を探さない。


 ケイが書くのを、ただ、見ている。


 ときどき、壁の時計に目をやる。


 何かを、待っているようだった。


 ケイは、議論に飽きたのだと思った。


 途中で、手が、少し重くなる。


 ペンの先が、紙の上で滑った。


「……マコト」


「うん」


「明かりが、暗いか」


「いつも通りだよ」


 マコトの声が、遠い。


 部屋が、傾いて見える。


 ケイは机に手をついた。


 手のひらの感覚が、薄い。


「水、飲むか」


 マコトが立ち上がる。


 その立ち上がり方が、やけに、落ち着いていた。


 ケイの視界が、滲む。


 数式が、紙の上で、溶けていく。


「マコト、これ——」


 声が、続かない。


 ケイは椅子から、ずり落ちた。


 床が、冷たい。


 頬に、タイルが当たっている。


 マコトの足が、すぐ近くにあった。


 屈まない。


 助け起こさない。


 その足が、動かないまま、ケイを見下ろしている。


 ケイには、それが、見えていなかった。


 マコトが、誰かに、何かを言った。


 ケイではない、誰かに。


 部屋には、二人きりのはずだ。


 だが、もう一人分の足音が、ドアのほうから近づいてくる。


 その足音は、ためらわない。


 はじめから、来ることが決まっていた足音だ。


 ケイは、それを聞いていなかった。


「悪いな、ケイ」


 マコトの声が、頭の上から降ってくる。


「お前は、消えるわけじゃ、ない。ちゃんと、行き先がある。俺が、決めた」


 マコトの声は、落ち着いていた。


 今夜、初めて、落ち着いていた。


「お前の式は、要る。お前自身は、要らない。両方、いっぺんに、片づく」


 ケイの腕に、何かが当たる。


 冷たいものが、肌に触れた。


 誰かの手が、肩の下に入る。


 体が、持ち上げられた。


「キャロルには、俺から、言っておく」


 マコトの声が、それきり、遠くなる。


 意識が、完全に、落ちた。




 目を開けたとき、ケイは森の中にいた。


 冷たい土の上。


 頭の奥が、痛い。


 研究室の床の感触は、もうない。


 頭上に、見たことのない形の葉が茂っている。


 空気の匂いが、違う。


 ケイは起き上がった。


 着ているものは、研究室にいたときのまま。


 鞄はない。


 論文も、ペンも、カップもない。


 しばらく、動けなかった。


 やがて、見たこともない獣が現れた。


 灰色の、群れ。


 逃げようとした。


 だが、体より先に、手が動く。


 指が、空中に、線を描いた。


 光が、広がる。


 獣は、消えていた。


 何をしたのか、ケイにはわからない。


 そこへ、鎧を着た者たちが、馬で現れた。


 ケイを見て、言う。


 ——転移者だ、と。


 ケイは、その者たちに保護された。


 ものの仕組みが、読めた。


 ほどけて見える。


 錠の構造も、結界の組み方も、目を凝らせば、線になって浮かんだ。


 暗号を解くときと、同じだ。


 いや——式を、書いていたときと、同じだった。


 変換のルールを、書き換える。


 あの夜、紙の上で、マコトに説明していた、その手つきのまま。


 ケイは、その力で、生きていくことになった。


 働く場所を見つける。


 サトルという男の工房に、身を寄せた。


 頼まれた錠を開け、頼まれた仕組みを組む。


 ここに来てから、ケイは、ずっと、こう思っていた。


 ——あれは、異世界への、転移だった。


 ある夜、研究室で、急に意識を失って。


 目を覚ましたら、知らない世界にいた。


 なぜそうなったのかは、わからない。


 体の具合でも、悪かったのだろう。


 そう、思っていた。


 わからないまま、生きてきた。


 マコトのことも、コーヒーのことも、思い出さなかった。


 最後に聞いた声も、肩の下に入った手も、奥のほうに、しまったまま。


 思い出さないほうが、生きやすい。


 だが——


 後に、知った。


 ここは、異世界では、ない。


 体は、まだ、もとの場所にある。


 寝かされた、あの夜の、続きの中に。


 ——そういうことだったのか。


 すべてを知ったとき、ケイは、長く、動けなかった。




 工房の朝の光が、まだ机の縁にある。


 ケイは目を開けた。


 古い記憶が、遠ざかっていく。


 代わりに、糸の震えが戻ってきた。


 待っている震え方だ。


 その向こうで、アリスが待っている。


「——ケイさん」


 届いた。


 さっきよりも、はっきりと。


「ここに、います」


「ああ」


 ケイは、机の縁を握った。


 指先に、力が入る。


 あの夜を、こんなにはっきり思い出したのは、初めてだ。


 マコトの声。


 コーヒーの苦さ。


 肩の下に入った、誰かの手。


 ——自分も、運ばれた。


 誰かに決められて、ここに、寝かされた。


 ケイには、もうひとつ、わかっていることがある。


 口にしたことは、一度もない。


 だが、確かに、わかっていた。


 ——自分が来た時代は、皆より、前だ。


 仲間たちが当たり前のように知っていることを、ケイは知らない。


 誰もが持っているという、体の中の小さな道具。


 ケイには、それがない。


 脊髄の近くにある、と、誰かが言っていた。


 十数年前に、普及したのだという。


 ケイがもといた場所に、そんなものはなかった。


 自分が気を失った夜と、皆が来た時代のあいだには、隔たりがある。


 たぶん、長い、隔たりが。


 なぜ、そうなるのか。


 ケイには、わからない。


 わからないまま、ずっと、胸の底に置いてきた。


 アリスが、待っている。


 ケイは、糸の震えに、呼吸を合わせた。


「アリス」


「はい」


「お前の——」


 言いかけて、止まる。


 アリスのことを、ケイは、まだ、ほとんど知らない。


 もとの場所で、どんな暮らしをしていたのか。


 誰と、いたのか。


 不意に、ひとつの姿が浮かんだ。


 評議の間で、初めてアリスを見たときのことだ。


 金に近い、茶色の髪。


 背が、小さい。


 窓から差し込む光を、受けている。


 その姿が、別の誰かと、重なりかけた。


 ついこの間まで、雪の研究室にいた、誰か。


 金に近い、茶色の髪。


 背が、小さい。


 桜のベンチに、横に座った、誰か。


 ケイは、息を止めていた。


 ——いや。


 ケイは、その先を考えるのをやめた。


 似ているだけだ。


 あのとき、初めてアリスを見た日も、同じことを思った。


 胸の奥が、引いて。


 そして、似ているだけだ、と。


 そう、片づけた。


 だが、あの夜を思い出したいま、それは片づかない。


 もし、自分の来た時代が、皆より、前なのだとしたら。


 あの研究室にいた誰かは、いま、どうしているのか。


 この、長い隔たりの、向こうで。


 ケイは、それ以上は、踏み込まなかった。


 糸の震えが、待っている。


 いま、考えることでは、ない。


 そう、自分に言い聞かせる。


 糸の向こうで、アリスが待っている。


「ケイさん?」


「……ああ」


 ケイは、目を伏せた。


 訊かなければ、ならないことができた。


 アリスが、もとの場所で、誰と、いたのか。


 その人の、名前は、なんというのか。


 なぜ、それを訊きたいのか。


 その理由を、ケイは、言葉にしたくなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ