Episode 41|あの夜
◇
その夜のことを、長く、思い出さなかった。
いや——
思い出さないように、していたのかもしれない。
卒業まで、あと数日。
その夜、ケイは研究室に残っていた。
卒論の、最後の手直し。
時計は、夜中の三時を回っている。
研究棟は、静かだ。
ほとんどの部屋が暗い。
四階の廊下も、明かりが半分だけ落ちている。
研究室には、マコトもいた。
帰らずに、向こうのデスク。
「最後の確認をしたくて」
そう言って、マコトは残った。
マコトとは、三年、同じ研究室にいる。
はじめは、よく議論をした。
キャロルを入れて、三人で。
ケイが式を書く。マコトが穴を探す。キャロルが、別の角度から、つつく。
たいてい、最後に答えに着くのは、ケイだ。
マコトは、それを、笑って受け入れていた。
受け入れている、ように見えていた。
机の上に、印刷された論文が広げてある。
ケイの卒論のコピーだ。
赤いペンで、あちこちに書き込み。
「ここ」
マコトが一枚を指した。
「この展開、お前、どうやって思いついたんだ」
ケイは紙を引き寄せる。
数式を目で追う。
卒論で書いた、変換の式だ。
「必要だっただけだ」
「必要、か」
マコトが笑う。
いつものマコトの笑いだ。
ケイはそう思っていた。
その時は。
ケイは式の説明を始めた。
遠回りを、一度、全部畳む。
畳んだ先で、ルールそのものを書き換える。
話しながら、紙の上にペンを走らせる。
顔は、上げなかった。
◇
話が、一段落した。
「コーヒー、淹れるか」
ケイは立ち上がる。
研究室の隅に、古いコーヒーメーカー。
ポットには、夕方淹れたものが、まだ残っている。
二つのカップに注いだ。
ひとつを、自分の机に置く。
もうひとつを持って、マコトのデスクへ歩いた。
「ほら」
マコトは受け取らない。
「そこ、置いといて」
ケイは、机の端に置いた。
ふと、棚の資料が要ると思い出す。
数歩、離れた。
背中で、椅子の軋む音。
マコトが、立ったようだった。
ケイは棚から束を抜く。
探すのに、少し、手間取った。
背後で、小さな音。
何かが、液体に落ちる音。
振り返らなかった。
コップでも、置き直したのだろう。
そう思った。
戻ると、二つのカップは、さっきのまま。
——さっきのまま、に見えた。
マコトのカップだけ、位置が、少し変わっている。
ケイは、それに、気づかない。
席に戻る。
自分のカップを取った。
口をつける。
ぬるい。
苦い。
ふだんの苦さとは、少し違う気がした。
舌の奥に、薬のような、ざらついた何かが残る。
だが、ケイは気にしなかった。
夕方のコーヒーが、煮詰まったのだろう。
そう思った。
マコトは、自分のカップに口をつけない。
ケイは、それにも気づかなかった。
「な、ケイ」
「ん」
「お前、自分が、どれだけ持ってるか、わかってるか」
ケイはペンを止めた。
「何の話だ」
「式だよ」
マコトが言う。
「キャロルもだ」
ケイはマコトを見た。
マコトはケイを見ていない。
カップの縁を、指でなぞっている。
「俺、ずっと、二番目だった」
マコトの声が、低い。
「研究室で、お前の次。キャロルの中でも、お前の次」
「マコト」
「いいんだ。聞いてくれ」
マコトが顔を上げる。
目の奥が、見えない。
ロビーで見たときと、同じだ。
「俺、キャロルに、言ったことがあるんだ。ずっと前に」
指が、カップの縁を、もう一度なぞった。
「断られた。理由は、言わなかった。でも、わかってた。お前だよ」
ケイは黙っている。
「お前は、何も、言わなかったよな。キャロルのことも。式のことも。国外からの、誘いのことも。あんな話、普通、一生に一度も来ない。それが、向こうから、来た」
「来たわけじゃ、ない」
「同じだよ」
マコトが、少し笑った。
「欲しがってないやつのところに、集まるんだ。俺が、どれだけ欲しがっても、来ないものが」
マコトが、ケイを見る。
「お前は、全部、持っていく。式も、国外の誘いも、キャロルも。何も、決めてないのに」
「決めてない」
「そこだよ」
マコトの笑いが、消えた。
「決めてないのに、全部、手の中にある。俺は、決めても、何も手に入らない」
ケイは黙っていた。
返す言葉が、すぐには出てこない。
◇
話は、式に戻った。
ケイは、また紙にペンを走らせる。
マコトは、もう、穴を探さない。
ケイが書くのを、ただ、見ている。
ときどき、壁の時計に目をやる。
何かを、待っているようだった。
ケイは、議論に飽きたのだと思った。
途中で、手が、少し重くなる。
ペンの先が、紙の上で滑った。
「……マコト」
「うん」
「明かりが、暗いか」
「いつも通りだよ」
マコトの声が、遠い。
部屋が、傾いて見える。
ケイは机に手をついた。
手のひらの感覚が、薄い。
「水、飲むか」
マコトが立ち上がる。
その立ち上がり方が、やけに、落ち着いていた。
ケイの視界が、滲む。
数式が、紙の上で、溶けていく。
「マコト、これ——」
声が、続かない。
ケイは椅子から、ずり落ちた。
床が、冷たい。
頬に、タイルが当たっている。
マコトの足が、すぐ近くにあった。
屈まない。
助け起こさない。
その足が、動かないまま、ケイを見下ろしている。
ケイには、それが、見えていなかった。
マコトが、誰かに、何かを言った。
ケイではない、誰かに。
部屋には、二人きりのはずだ。
だが、もう一人分の足音が、ドアのほうから近づいてくる。
その足音は、ためらわない。
はじめから、来ることが決まっていた足音だ。
ケイは、それを聞いていなかった。
「悪いな、ケイ」
マコトの声が、頭の上から降ってくる。
「お前は、消えるわけじゃ、ない。ちゃんと、行き先がある。俺が、決めた」
マコトの声は、落ち着いていた。
今夜、初めて、落ち着いていた。
「お前の式は、要る。お前自身は、要らない。両方、いっぺんに、片づく」
ケイの腕に、何かが当たる。
冷たいものが、肌に触れた。
誰かの手が、肩の下に入る。
体が、持ち上げられた。
「キャロルには、俺から、言っておく」
マコトの声が、それきり、遠くなる。
意識が、完全に、落ちた。
◇
目を開けたとき、ケイは森の中にいた。
冷たい土の上。
頭の奥が、痛い。
研究室の床の感触は、もうない。
頭上に、見たことのない形の葉が茂っている。
空気の匂いが、違う。
ケイは起き上がった。
着ているものは、研究室にいたときのまま。
鞄はない。
論文も、ペンも、カップもない。
しばらく、動けなかった。
やがて、見たこともない獣が現れた。
灰色の、群れ。
逃げようとした。
だが、体より先に、手が動く。
指が、空中に、線を描いた。
光が、広がる。
獣は、消えていた。
何をしたのか、ケイにはわからない。
そこへ、鎧を着た者たちが、馬で現れた。
ケイを見て、言う。
——転移者だ、と。
ケイは、その者たちに保護された。
ものの仕組みが、読めた。
ほどけて見える。
錠の構造も、結界の組み方も、目を凝らせば、線になって浮かんだ。
暗号を解くときと、同じだ。
いや——式を、書いていたときと、同じだった。
変換のルールを、書き換える。
あの夜、紙の上で、マコトに説明していた、その手つきのまま。
ケイは、その力で、生きていくことになった。
働く場所を見つける。
サトルという男の工房に、身を寄せた。
頼まれた錠を開け、頼まれた仕組みを組む。
ここに来てから、ケイは、ずっと、こう思っていた。
——あれは、異世界への、転移だった。
ある夜、研究室で、急に意識を失って。
目を覚ましたら、知らない世界にいた。
なぜそうなったのかは、わからない。
体の具合でも、悪かったのだろう。
そう、思っていた。
わからないまま、生きてきた。
マコトのことも、コーヒーのことも、思い出さなかった。
最後に聞いた声も、肩の下に入った手も、奥のほうに、しまったまま。
思い出さないほうが、生きやすい。
だが——
後に、知った。
ここは、異世界では、ない。
体は、まだ、もとの場所にある。
寝かされた、あの夜の、続きの中に。
——そういうことだったのか。
すべてを知ったとき、ケイは、長く、動けなかった。
◆
工房の朝の光が、まだ机の縁にある。
ケイは目を開けた。
古い記憶が、遠ざかっていく。
代わりに、糸の震えが戻ってきた。
待っている震え方だ。
その向こうで、アリスが待っている。
「——ケイさん」
届いた。
さっきよりも、はっきりと。
「ここに、います」
「ああ」
ケイは、机の縁を握った。
指先に、力が入る。
あの夜を、こんなにはっきり思い出したのは、初めてだ。
マコトの声。
コーヒーの苦さ。
肩の下に入った、誰かの手。
——自分も、運ばれた。
誰かに決められて、ここに、寝かされた。
ケイには、もうひとつ、わかっていることがある。
口にしたことは、一度もない。
だが、確かに、わかっていた。
——自分が来た時代は、皆より、前だ。
仲間たちが当たり前のように知っていることを、ケイは知らない。
誰もが持っているという、体の中の小さな道具。
ケイには、それがない。
脊髄の近くにある、と、誰かが言っていた。
十数年前に、普及したのだという。
ケイがもといた場所に、そんなものはなかった。
自分が気を失った夜と、皆が来た時代のあいだには、隔たりがある。
たぶん、長い、隔たりが。
なぜ、そうなるのか。
ケイには、わからない。
わからないまま、ずっと、胸の底に置いてきた。
アリスが、待っている。
ケイは、糸の震えに、呼吸を合わせた。
「アリス」
「はい」
「お前の——」
言いかけて、止まる。
アリスのことを、ケイは、まだ、ほとんど知らない。
もとの場所で、どんな暮らしをしていたのか。
誰と、いたのか。
不意に、ひとつの姿が浮かんだ。
評議の間で、初めてアリスを見たときのことだ。
金に近い、茶色の髪。
背が、小さい。
窓から差し込む光を、受けている。
その姿が、別の誰かと、重なりかけた。
ついこの間まで、雪の研究室にいた、誰か。
金に近い、茶色の髪。
背が、小さい。
桜のベンチに、横に座った、誰か。
ケイは、息を止めていた。
——いや。
ケイは、その先を考えるのをやめた。
似ているだけだ。
あのとき、初めてアリスを見た日も、同じことを思った。
胸の奥が、引いて。
そして、似ているだけだ、と。
そう、片づけた。
だが、あの夜を思い出したいま、それは片づかない。
もし、自分の来た時代が、皆より、前なのだとしたら。
あの研究室にいた誰かは、いま、どうしているのか。
この、長い隔たりの、向こうで。
ケイは、それ以上は、踏み込まなかった。
糸の震えが、待っている。
いま、考えることでは、ない。
そう、自分に言い聞かせる。
糸の向こうで、アリスが待っている。
「ケイさん?」
「……ああ」
ケイは、目を伏せた。
訊かなければ、ならないことができた。
アリスが、もとの場所で、誰と、いたのか。
その人の、名前は、なんというのか。
なぜ、それを訊きたいのか。
その理由を、ケイは、言葉にしたくなかった。




