Episode 40|あとで
◆
工房の朝の光が、まだ机の縁にあった。
ケイは目を閉じたままだった。
糸の震えは止まっていた。
待っている震え方だ。
その向こうで、アリスが待っている。
——答えが、ない。
目を開けなかった。
光が遠くなっていく。
部屋の音も、遠くなっていく。
頭の奥で、何かが動き始めていた。
古い記憶の方角だった。
——昔のことを、思い出している。
目を閉じたままにしておいた。
◇
雪が降っている。
東京の冬は、晴れる日が多い。
だが、その朝は灰色だ。
研究室の窓の外、ベタついた雪が銀杏の枝に積もっている。
ケイは机の前にいる。
左手にコーヒー。
冷めていた。
右手にキー。
卒論の、最後のページ。
PDFを出力した。
印刷した。
束ねた紙の重み。
マコトが向こうのデスクで論文を読んでいる。
キャロルが隣の机で、自分の解析を続けている。
キャロルの机に、白いマグカップ。
中身は、湯気だけが見えた。
コーヒーの匂いはしなかった。
キャロルは上着を着たままだ。
研究室の暖房は古い。
誰もこちらを見ていない。
ケイは束を持って立ち上がった。
部屋を出た。
提出窓口は廊下の向こうだった。
雪の音は聞こえない。
提出した。
戻ってきた。
キャロルが顔を上げた。
「出した?」
「ああ」
「お疲れ」
「ああ」
短いやり取り。
マコトが向こうのデスクで、ふっと笑った。
「先、行かれちゃったね」
「お前のは、これからだろう」
「うん」
マコトはまた論文に戻った。
雪は降り続いている。
◇
学会は二月の終わりにあった。
関西の、古い大学。
会場は満席だった。
ケイは登壇した。
マコトは後方の席。
キャロルは最前列。
発表は二十分。
「変換のルール自体を、書き換える」
会場が静かになる。
最初は無音。
次に、ざわめき。
質疑応答が長くなった。
会場の時計が、五分、伸びた。
誰かが立ち上がって質問する。
別の誰かが立ち上がる。
ケイはひとつずつ答えた。
声が低い。
司会の教授が、最後に、マイクを取った。
「これは、暗号理論の、ターニングポイントになるかもしれません」
会場が、もう一度、ざわめいた。
発表が終わったあと、隣のロビーに人が流れた。
名刺を差し出してくる人がいる。
暗号の業界の、名のある人だ。
外資の研究所からも声がかかる。
外国の大学からも、招待状の話が出る。
ケイは半歩、引いた。
暗号の世界では、こういうことが、年に何回もない。
ケイはそれをわかっている。
わかっていたが、踏み出さなかった。
ロビーの隅で、コーヒーが配られている。
キャロルは紙コップを受け取らなかった。
「先輩、コーヒーは?」
配っていた学生が、もう一度、近寄る。
「いえ、最近、控えてるんです」
キャロルの声が、いつもより少し、丁寧だった。
マコトが横に来た。
「へえ」
マコトの目が、一瞬、キャロルに止まった。
「珍しいね」
「うん。少し」
それで終わりだった。
キャロルが、ケイの横に来た。
「来た?」
「来た」
キャロルは笑っている。
マコトが後ろから歩いてきた。
「これは、暗号の、次の時代だ」
マコトの声が、いつもより少し高い。
ケイは振り返った。
マコトの目はケイを見ていた。
その目の奥が、見えない。
マコトの視線が、一瞬、キャロルに止まった。
止まって、すぐに戻った。
ケイは気づかなかった。
「ありがとう」
とだけ言った。
マコトがふっと笑った。
「お前、これで、世界に、行けるよ」
「行くかどうかは、決めていない」
「決めろよ」
マコトの笑いは、いつものマコトの笑いだ。
ケイはそう思った。
その時は。
ロビーを出るとき、マコトがもう一度、横に来た。
「ケイ、卒業前に、もう一度、研究室で、最後の確認をしないか」
「ああ」
ケイは短く答えた。
マコトの目が、一瞬、長く止まった気がした。
気づかないまま、ロビーを離れた。
◇
桜が咲き始めている。
大学の構内に、薄い、白い花。
風はまだ冷たい。
卒業まで、あと十日くらい。
ケイはベンチに座っている。
膝の上にノートを開いていた。
次の研究の構想を書いていた。
卒論で書いた式は、いま、ようやく、世に出た。
だが、ケイの頭の中では、すでに次の式が動き始めている。
その次。
その先。
ペンが紙の上を走る。
風が、構内を、ゆっくり吹いている。
桜が揺れる。
キャロルが横に来た。
ゆっくりと、腰を下ろした。
ベンチの板が、ふっと軋んだ。
上着の上に、薄手のストールを巻いている。
風が、ストールの端を、揺らした。
「ケイ」
「ん」
書いていた。
「ケイ、聞いて……」
ケイはペンを止めなかった。
しばらく、キャロルは何も言わない。
ケイは書き続けた。
次の式の形が見えていた。
「……ううん」
キャロルが言った。
「なんでもない」
「ん」
「あとで」
「ああ」
ケイは書き続けた。
キャロルがしばらく、横にいた。
風が桜の花を揺らした。
花が二人の上に落ちた。
キャロルがその花を、手のひらで受けた。
しばらく見ている。
花は一枚だけ。
白に、ほのかな桜色が混じっている。
縁が、少し、傷んでいた。
風で、ちぎれたのかもしれない。
キャロルの指の上で、花が止まっていた。
その視線が、一瞬、自分のお腹のあたりに落ちた。
両手が、お腹の前で、ふっと組まれた。
包むような、形だった。
一瞬だけだった。
すぐに、手が離れた。
ケイはノートに視線を戻していた。
気づかなかった。
キャロルが手をゆっくり下ろした。
立ち上がるとき、手のひらが、お腹のあたりに、軽く当たった。
支えるような動きだった。
「先、行くね」
「ああ」
キャロルが歩いていった。
ベンチの板が、もう一度軋んだ。
ケイは書き続けた。
書きながら、頭の片隅で思った。
——ふだんのキャロルとは、少し、違う、声だった。
ペンを止めなかった。
次の式が見えていた。
——あとで、訊けばいい。
そう思った。
その時は。
◇
あの「あとで」は、来なかった。
マコトの視線は、いつもキャロルに止まっていた。
だが、その時の自分は、何も見ていなかった。
春の終わりが、近かった。
マコトと、最後に、会った夜まで——
あと、数日だった。




