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Episode 40|あとで


 工房の朝の光が、まだ机の縁にあった。


 ケイは目を閉じたままだった。


 糸の震えは止まっていた。

 待っている震え方だ。


 その向こうで、アリスが待っている。


 ——答えが、ない。


 目を開けなかった。


 光が遠くなっていく。

 部屋の音も、遠くなっていく。


 頭の奥で、何かが動き始めていた。


 古い記憶の方角だった。


 ——昔のことを、思い出している。


 目を閉じたままにしておいた。




 雪が降っている。


 東京の冬は、晴れる日が多い。


 だが、その朝は灰色だ。


 研究室の窓の外、ベタついた雪が銀杏の枝に積もっている。


 ケイは机の前にいる。


 左手にコーヒー。

 冷めていた。

 右手にキー。


 卒論の、最後のページ。


 PDFを出力した。

 印刷した。

 束ねた紙の重み。


 マコトが向こうのデスクで論文を読んでいる。


 キャロルが隣の机で、自分の解析を続けている。


 キャロルの机に、白いマグカップ。

 中身は、湯気だけが見えた。

 コーヒーの匂いはしなかった。


 キャロルは上着を着たままだ。

 研究室の暖房は古い。


 誰もこちらを見ていない。


 ケイは束を持って立ち上がった。


 部屋を出た。


 提出窓口は廊下の向こうだった。

 雪の音は聞こえない。


 提出した。


 戻ってきた。


 キャロルが顔を上げた。


「出した?」


「ああ」


「お疲れ」


「ああ」


 短いやり取り。


 マコトが向こうのデスクで、ふっと笑った。


「先、行かれちゃったね」


「お前のは、これからだろう」


「うん」


 マコトはまた論文に戻った。


 雪は降り続いている。




 学会は二月の終わりにあった。


 関西の、古い大学。


 会場は満席だった。


 ケイは登壇した。


 マコトは後方の席。

 キャロルは最前列。


 発表は二十分。


「変換のルール自体を、書き換える」


 会場が静かになる。


 最初は無音。


 次に、ざわめき。


 質疑応答が長くなった。


 会場の時計が、五分、伸びた。


 誰かが立ち上がって質問する。

 別の誰かが立ち上がる。


 ケイはひとつずつ答えた。


 声が低い。


 司会の教授が、最後に、マイクを取った。


「これは、暗号理論の、ターニングポイントになるかもしれません」


 会場が、もう一度、ざわめいた。


 発表が終わったあと、隣のロビーに人が流れた。


 名刺を差し出してくる人がいる。

 暗号の業界の、名のある人だ。

 外資の研究所からも声がかかる。

 外国の大学からも、招待状の話が出る。


 ケイは半歩、引いた。


 暗号の世界では、こういうことが、年に何回もない。


 ケイはそれをわかっている。


 わかっていたが、踏み出さなかった。


 ロビーの隅で、コーヒーが配られている。


 キャロルは紙コップを受け取らなかった。


「先輩、コーヒーは?」


 配っていた学生が、もう一度、近寄る。


「いえ、最近、控えてるんです」


 キャロルの声が、いつもより少し、丁寧だった。


 マコトが横に来た。


「へえ」


 マコトの目が、一瞬、キャロルに止まった。


「珍しいね」


「うん。少し」


 それで終わりだった。


 キャロルが、ケイの横に来た。


「来た?」


「来た」


 キャロルは笑っている。


 マコトが後ろから歩いてきた。


「これは、暗号の、次の時代だ」


 マコトの声が、いつもより少し高い。


 ケイは振り返った。


 マコトの目はケイを見ていた。


 その目の奥が、見えない。


 マコトの視線が、一瞬、キャロルに止まった。


 止まって、すぐに戻った。


 ケイは気づかなかった。


「ありがとう」


 とだけ言った。


 マコトがふっと笑った。


「お前、これで、世界に、行けるよ」


「行くかどうかは、決めていない」


「決めろよ」


 マコトの笑いは、いつものマコトの笑いだ。


 ケイはそう思った。


 その時は。


 ロビーを出るとき、マコトがもう一度、横に来た。


「ケイ、卒業前に、もう一度、研究室で、最後の確認をしないか」


「ああ」


 ケイは短く答えた。


 マコトの目が、一瞬、長く止まった気がした。


 気づかないまま、ロビーを離れた。




 桜が咲き始めている。


 大学の構内に、薄い、白い花。


 風はまだ冷たい。


 卒業まで、あと十日くらい。


 ケイはベンチに座っている。


 膝の上にノートを開いていた。

 次の研究の構想を書いていた。


 卒論で書いた式は、いま、ようやく、世に出た。


 だが、ケイの頭の中では、すでに次の式が動き始めている。


 その次。

 その先。


 ペンが紙の上を走る。


 風が、構内を、ゆっくり吹いている。


 桜が揺れる。


 キャロルが横に来た。


 ゆっくりと、腰を下ろした。


 ベンチの板が、ふっと軋んだ。


 上着の上に、薄手のストールを巻いている。

 風が、ストールの端を、揺らした。


「ケイ」


「ん」


 書いていた。


「ケイ、聞いて……」


 ケイはペンを止めなかった。


 しばらく、キャロルは何も言わない。


 ケイは書き続けた。


 次の式の形が見えていた。


「……ううん」


 キャロルが言った。


「なんでもない」


「ん」


「あとで」


「ああ」


 ケイは書き続けた。


 キャロルがしばらく、横にいた。


 風が桜の花を揺らした。


 花が二人の上に落ちた。


 キャロルがその花を、手のひらで受けた。


 しばらく見ている。


 花は一枚だけ。

 白に、ほのかな桜色が混じっている。

 縁が、少し、傷んでいた。

 風で、ちぎれたのかもしれない。


 キャロルの指の上で、花が止まっていた。


 その視線が、一瞬、自分のお腹のあたりに落ちた。


 両手が、お腹の前で、ふっと組まれた。

 包むような、形だった。

 一瞬だけだった。

 すぐに、手が離れた。


 ケイはノートに視線を戻していた。

 気づかなかった。


 キャロルが手をゆっくり下ろした。


 立ち上がるとき、手のひらが、お腹のあたりに、軽く当たった。

 支えるような動きだった。


「先、行くね」


「ああ」


 キャロルが歩いていった。


 ベンチの板が、もう一度軋んだ。


 ケイは書き続けた。


 書きながら、頭の片隅で思った。


 ——ふだんのキャロルとは、少し、違う、声だった。


 ペンを止めなかった。

 次の式が見えていた。


 ——あとで、訊けばいい。


 そう思った。


 その時は。




 あの「あとで」は、来なかった。


 マコトの視線は、いつもキャロルに止まっていた。


 だが、その時の自分は、何も見ていなかった。


 春の終わりが、近かった。


 マコトと、最後に、会った夜まで——

 あと、数日だった。


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