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Episode 39|異世界


 夜に入った。


 工房の窓の外が、すっかり黒くなっていた。


 夕、糸の向こうから応えが返ってきた。届いた、と初めて思えた。


 サトルが向かいの椅子にいた。フウは床に座っていた。ジンは扉の脇に立っていた。三人とも夕から動いていない。


 ケイは左の手のひらを開いた。糸が淡く震えている。


 ——もう、これだけでいい。


 そう、わかった。


 糸は外を読む線。フウの穴は、書き込む側。前に二つを繋いで、アリスを送り出した。


 だが、いまは違う。向こうの端は、アリスが自分で開いた。こちらから書き込まなくても、向こうから繋いでくる。


 フウの穴は、もう要らない。


 ケイはフウを見た。


「フウ」


「なに?」


 フウが顔を上げた。


「約束した。一度だけ、と」


 意味が少し遅れて届いた顔だった。


「お前の中の穴を、塞ぐ。いまから」


 フウは胸に手を当てた。とん、と。ずっとそこにあったものを確かめるように。


「……うん」


 ケイは目を閉じた。フウの中へ伸びる灰色の線。外の誰かが、この子を通してこちらを覗いていた、その裏口だ。その端を指でつまむように読んだ。


 震えは返らない。死んだものに触れる感触。


 ケイはその線を根元から畳んだ。


 外から来ていた何かが、ふっと途切れた。


 フウが息を吸った。


「……あ」


「どうした」


「軽い」


 フウは胸に手を当てたままだった。


「ずっと、ここに誰かいた感じだったの。それが、いなくなった」


 その声は震えていなかった。


「ちょっとだけ、さびしい」


 そう言って、笑った。少し前のめりになりながら。


「でも、わたしの中、わたしだけになった」


 ケイは何も言わなかった。


 ——軽く受け取れることが、いちばん重い。


 膝の上で、手を握った。


 それから、サトルとジンを見た。


「ここから先は、俺とアリスでやる。糸を辿って、外へ潜る。手を出せる作業じゃない」


 サトルが眼鏡の縁に指をやった。


「私たちは」


「持ち場に戻ってくれ。変わったことは、外のほうが先に気づく」


 ジンが壁から背を離した。刀を取り、扉へ向かう。途中で、一度止まった。


「ケイ。無理はするな」


 答えを待たずに、出ていった。


 サトルが書類を膝から拾い上げた。


「水と食事は、運ばせます。潜っている間は、自分では気づけないでしょう」


「ああ。助かる」


 扉の前で、サトルが振り返った。


「連れて帰ってきてください。アリスさんを」


「ああ」


 最後に、フウが立ち上がった。


「ケイ。アリスに会ったら、言って。フウも待ってるって」


 ケイは頷いた。


 フウが笑った。今度は、前のめりにならなかった。


 三人が出ていった。扉が閉まった。


 工房が、静かになった。


 ケイは机に両手を置いた。一人だった。


 左手の指先に糸の感触がある。前の夜、向こうから声が届いた、あの糸だ。震えは続いている。切れていない。


 息を長く吐いた。

 拍を合わせる。

 糸の震えに呼吸を寄せる。


 合った。


「——アリス」


 声を出した。


「——アリス」


 もう一度、呼んだ。


 糸が震えた。


 奥のほうから、何かがこちらに動いてきた。


「——ケイさん」


 届いた。


「——ここに、います」


 ケイは息を止めた。


 夕よりもはっきりと届いた。

 糸の震えの中に、声の輪郭があった。


「——ああ」


 返した。


 糸の向こうで、息を吐く気配があった。




 灰色の天井が見えた。


 アリスは寝台の上で目を開けていた。

 光の出所はわからない。

 ファンのような音だけが、変わらない速さで聞こえていた。


 後頭部に、まだ管がある。


 頭の奥で何かが響いていた。

 遠い響きではなかった。

 今は、近い。


 ——ケイさんの、声だ。


「——ケイさん」


 声には出さなかった。

 声は出ない。

 喉の筋肉が忘れている。

 だが、内側で言葉は形になっていた。


「——ここに、います」


 響きが応えた。


「——ああ」


 届いた。

 届いていた。


 目尻がわずかに湿った気がした。

 だが、それは確かめなかった。


 アリスは目だけをわずかに動かした。

 腕は横たえたままだった。

 夕に動かそうとした肘はもう動かなかった。

 力の入れ方を忘れていた。

 指先だけが、自分の意志で、わずかに動かせた。


 灰色の天井。

 寝台の列。

 ファンのような音。


 ここは現実だった。

 昨日、確かめた。


 だが——


 だが、自分の知っている現実ではなかった。


 ずっと、思い出していなかった。


 朦朧としていた、と、いまになってわかる。

 目を開けていた間も、思い出すことはできていなかった。


 だが、今は——


 響きがまだ続いていた。

 ケイの声の余韻が、糸の震えに混ざっている。

 それを感じている間、何かがほどけていく感覚があった。


 ずっと思い出さなかったことが、戻ってきている。




 朝だった。


 台所で、母がコーヒーを淹れていた。


 金に近い茶色の髪を、後ろで一つに束ねていた。

 背は自分より少し低い。

 白い実験衣を、椅子の背に掛けていた。


 その匂いが好きだった。

 コーヒーと、母の早口と、出かける前の少し慌ただしい朝。


「アリス、今日も塾?」


 母の声はいつもより少し早口だった。

 研究の朝はたいていそうだった。


「うん。十時まで」


 母は振り向かなかった。

 振り向かなくても、こちらを気にかけているのは、声の張りでわかった。


「迎え、行こうか」


 いつもの一言だった。

 母は忙しい。

 だから、その一言が母の精いっぱいなのも、知っていた。


「いい」


 断った。

 いつものように。

 母の手をわずらわせたくなかった。


「そう」


 短いやり取りだった。

 母はいつもそうだ。

 来る、と言えば来る。

 来ない、と言えば来ない。


 その日も、それで終わるはずだった。


 家を出た。


 塾の窓は、夜になると外の街灯を映していた。


 参考書の上で、シャープペンシルが止まっていた。

 式が解けなかった。

 あと一歩のところまでいっていた。

 だが、最後の一行が合わなかった。


 数学だった。


 時計を見た。

 九時半を過ぎていた。


 あと、三十分。


 外で車が走り抜ける音がした。

 塾の階下の通りだった。

 ペンを置いた。

 残りの三十分を、別の問題に充てた。


 九時五十五分。


 塾の入り口を出た。

 鞄の中で参考書が重く揺れた。


 駅まで十分。

 途中に街灯の少ない、短い区間があった。

 古い住宅街の裏手だ。

 塀の上に伸び放題の枝が覆いかぶさっていた。

 昼間に通れば何でもない道だった。


 夜は、違った。


 街灯と街灯の間隔が広かった。


 歩いた。


 角を曲がった。


 車のヘッドライトが、左から来た。


 だが——


 ヘッドライトは横道から来るはずのものではなかった。


 間に合わなかった。


 体が跳ねた。


 地面に頭を打った。


 視界が傾いた。


 音が遠くなった。


 倒れている自分が見えた。


 いや。

 目は閉じていた、はずだった。


 誰かが近づいてきた。


 足音は聞こえていなかった。

 だが、気配があった。


 人を呼ぶ声は、聞こえなかった。


 腕に何かが当たった。


 冷たいものが肌に触れた。


 手のひらが頭の下に入った。


 誰かの声がした。


 言葉は聞き取れなかった。


 意識が完全に落ちた。


 次に目を開けたときは——


 森だった。


 知らない木が頭上に揺れていた。

 空の色は知っている空とは、わずかに違った。

 淡い、緑がかった青だった。


 起き上がった。


 体は痛くなかった。

 頭も、打った感覚が残っていなかった。

 学生服を着ていた。

 鞄はなかった。


 歩いた。


 森を出ると、街道だった。


 馬車が通り過ぎていった。


 馬車。


 ……馬車だった。


 見知らぬ国の王宮に保護された。

 神の使い、と呼ばれた。

 聖詔者として、南の宗教都市に送られた。

 礼服。

 祈祷。

 教団の役目。


 慣れた。

 慣れるほかはなかった。


 あれは異世界への転移だった、と、長く思っていた。


 だが——


 長く、思っていただけだった。




 ファンの音が戻ってきた。

 灰色の天井が戻ってきた。


 だが——


 あれが異世界でなかったことを、自分は体で知っていた。


 ケイに送り出された、あのとき。


 ケイの体が、扉のように開いた。

 その向こうに流れているものがあった。

 光の筋が、いくつも脇を流れていった。

 その中を、形を保ったまま進んだ。


 あれが、外だった。

 ケイが、そう呼んでいた。

 外に出る道、と。

 外を、入れろ、と。


 いま、わかる。


 工房も、街も、王宮も。

 ずっといたあの場所は、本当の場所ではなかった。


 人がいて、笑って、怒って、生きて、死ぬ。

 それでも、自分の体はそこになかった。


 体は、流れの「外」にあった。

 いま横たわっている、この灰色の部屋に。


 事故にあって、自分は流れの中に運ばれていた。

 気づかないまま。


 戻るには細い糸が必要だった。


 ケイが用意した糸を辿って、自分は戻った。


 戻れた、はずだった。


 だが、ここは——


 知っている場所ではない。


 あの夜の塾の前でもない。

 古い住宅街の裏手でもない。

 家でもない。


 母の、いる場所でもない。


 母。


 その一文字が、胸の奥で熱を持った。


 あの朝、迎えはいい、と断った。いつものように。

 あの一言を、断らなければ。母の車で帰っていれば、あの暗い道を、一人で歩くことはなかった。


 ——お母さんに、会いたい。


 思い出してしまえば、それは、まっすぐだった。

 ずっと思い出せずにいた分だけ、強かった。


 母は今、どうしているのだろう。

 娘が消えて、どれだけの時間が経ったのだろう。

 あの台所で、まだコーヒーを淹れているのだろうか。


 考えると、息が浅くなった。


 ここが、どこなのか、わからなかった。

 わからないまま、ひとつだけ、はっきりしたことがあった。


 ——帰りたい。母の、いる場所へ。


「——ケイさん」


 頭の奥で、響きに重ねた。


「——ここは、本当に、外、ですか」


 糸が震えた。


 返答までに、少し、間があった。




 ケイは目を開けて机を見ていた。


 糸の震えが伝えてきた言葉を、頭の中でゆっくり整理していた。


 異世界転移。

 流れの中。

 外。

 戻った、はずだった。

 知らない場所。


 糸の向こうで、アリスは、ここがどこなのかを訊いている。


 ——アリスが、自分で、それを、整理していた。

 ——伝えたことを、自分の言葉に変えて、戻していた。


 ケイは机の縁を握った。

 指先に、わずかに、力が入った。


 即答できる。


 ケイは息を吸った。


「——ああ」


 糸に声を乗せた。


「——そこは、外だ。アリスが、もといた場所と、同じはずだ」




 ケイの声が届いた。


「——では、私は」


 頭の奥で続けた。


「——戻れた、のですね」


 糸の向こうで、息を吸う気配があった。


「——ああ」


 戻れた。


 アリスは目を閉じた。


 戻れた、というひとことが、思っていたよりも長く、頭の中で響いた。


 だが——


 だが、戻れたのなら——


 目を開けた。


 灰色の天井。

 ファンの音。

 寝台の列。


「——ケイさん」


 頭の奥で続けた。


「——では、なぜ私は、こんなところにいるのですか」


「——ここは、私の家でも、事故にあった街でも、ない」


「——母の、いる場所でも、ない」


 言葉にすると、胸の奥がふるえた。


「——なぜ、私は、ここに、いるのですか」


「——どうすれば、母のところへ、帰れるのですか」




 糸の震えが止まった。


 ケイは口を開けかけた。

 言葉が出てこなかった。


 外であるのは確かだった。

 アリスが戻ったのは外だ。

 だが、なぜアリスが見たことのない場所に戻ったのか——


 ケイは知らなかった。


 ——俺は、戻ったことがない。

 ——流れの中に、来ただけだ。

 ——戻った先が、どんな場所か、想像できない。


 糸の向こうでアリスは戻った。

 だが、戻った先は、彼女が知らない場所だ。


 ケイは机の上の左手を見た。

 糸の震えはもう止まっていた。

 だが、糸は切れていなかった。


 待っている震え方だった。


 答えはない。

 だが、黙っているわけにはいかなかった。


 ケイは息を吸った。


「——わからない」


 糸に乗せた。


「——なぜお前がそこにいるのか、俺にもわからない」


 糸の向こうで、震えが小さく揺れた。


「——だが、調べる」


「——お前がどこにいるのか。なぜ、そこにいるのか。必ず突き止める」


 糸の揺れが、ほんの少し落ち着いた。


 それ以上は言わなかった。

 言えることが、まだなかった。


 工房の窓から朝の光が長く伸びていた。

 机の縁にかかった光の境目が、わずかに進んでいた。


 答えはケイの中に、まだなかった。

 どこから手をつければいいのかも。


 ケイは目を伏せた。


 だが——


 頭の奥で、何かが動き始めていた。


 自分自身の、古い記憶の方角だった。


※加筆のお知らせ

先に公開した 第37話・第38話 に、それぞれ少し書き足しました。

・37話…アリスが目を覚ましてから、管を抜いても誰にも気づかれずにいる理由を、彼女自身の力(結界)として

・38話…ラスト、通信がつながったあとにケイがフウへ向ける視線と、かつての“約束”の場面


どちらもこの先につながる小さな伏線です。お時間あれば読み返していただけると嬉しいです。いつも読んでくださってありがとうございます。

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