Episode 39|異世界
◆
夜に入った。
工房の窓の外が、すっかり黒くなっていた。
夕、糸の向こうから応えが返ってきた。届いた、と初めて思えた。
サトルが向かいの椅子にいた。フウは床に座っていた。ジンは扉の脇に立っていた。三人とも夕から動いていない。
ケイは左の手のひらを開いた。糸が淡く震えている。
——もう、これだけでいい。
そう、わかった。
糸は外を読む線。フウの穴は、書き込む側。前に二つを繋いで、アリスを送り出した。
だが、いまは違う。向こうの端は、アリスが自分で開いた。こちらから書き込まなくても、向こうから繋いでくる。
フウの穴は、もう要らない。
ケイはフウを見た。
「フウ」
「なに?」
フウが顔を上げた。
「約束した。一度だけ、と」
意味が少し遅れて届いた顔だった。
「お前の中の穴を、塞ぐ。いまから」
フウは胸に手を当てた。とん、と。ずっとそこにあったものを確かめるように。
「……うん」
ケイは目を閉じた。フウの中へ伸びる灰色の線。外の誰かが、この子を通してこちらを覗いていた、その裏口だ。その端を指でつまむように読んだ。
震えは返らない。死んだものに触れる感触。
ケイはその線を根元から畳んだ。
外から来ていた何かが、ふっと途切れた。
フウが息を吸った。
「……あ」
「どうした」
「軽い」
フウは胸に手を当てたままだった。
「ずっと、ここに誰かいた感じだったの。それが、いなくなった」
その声は震えていなかった。
「ちょっとだけ、さびしい」
そう言って、笑った。少し前のめりになりながら。
「でも、わたしの中、わたしだけになった」
ケイは何も言わなかった。
——軽く受け取れることが、いちばん重い。
膝の上で、手を握った。
それから、サトルとジンを見た。
「ここから先は、俺とアリスでやる。糸を辿って、外へ潜る。手を出せる作業じゃない」
サトルが眼鏡の縁に指をやった。
「私たちは」
「持ち場に戻ってくれ。変わったことは、外のほうが先に気づく」
ジンが壁から背を離した。刀を取り、扉へ向かう。途中で、一度止まった。
「ケイ。無理はするな」
答えを待たずに、出ていった。
サトルが書類を膝から拾い上げた。
「水と食事は、運ばせます。潜っている間は、自分では気づけないでしょう」
「ああ。助かる」
扉の前で、サトルが振り返った。
「連れて帰ってきてください。アリスさんを」
「ああ」
最後に、フウが立ち上がった。
「ケイ。アリスに会ったら、言って。フウも待ってるって」
ケイは頷いた。
フウが笑った。今度は、前のめりにならなかった。
三人が出ていった。扉が閉まった。
工房が、静かになった。
ケイは机に両手を置いた。一人だった。
左手の指先に糸の感触がある。前の夜、向こうから声が届いた、あの糸だ。震えは続いている。切れていない。
息を長く吐いた。
拍を合わせる。
糸の震えに呼吸を寄せる。
合った。
「——アリス」
声を出した。
「——アリス」
もう一度、呼んだ。
糸が震えた。
奥のほうから、何かがこちらに動いてきた。
「——ケイさん」
届いた。
「——ここに、います」
ケイは息を止めた。
夕よりもはっきりと届いた。
糸の震えの中に、声の輪郭があった。
「——ああ」
返した。
糸の向こうで、息を吐く気配があった。
■
灰色の天井が見えた。
アリスは寝台の上で目を開けていた。
光の出所はわからない。
ファンのような音だけが、変わらない速さで聞こえていた。
後頭部に、まだ管がある。
頭の奥で何かが響いていた。
遠い響きではなかった。
今は、近い。
——ケイさんの、声だ。
「——ケイさん」
声には出さなかった。
声は出ない。
喉の筋肉が忘れている。
だが、内側で言葉は形になっていた。
「——ここに、います」
響きが応えた。
「——ああ」
届いた。
届いていた。
目尻がわずかに湿った気がした。
だが、それは確かめなかった。
アリスは目だけをわずかに動かした。
腕は横たえたままだった。
夕に動かそうとした肘はもう動かなかった。
力の入れ方を忘れていた。
指先だけが、自分の意志で、わずかに動かせた。
灰色の天井。
寝台の列。
ファンのような音。
ここは現実だった。
昨日、確かめた。
だが——
だが、自分の知っている現実ではなかった。
ずっと、思い出していなかった。
朦朧としていた、と、いまになってわかる。
目を開けていた間も、思い出すことはできていなかった。
だが、今は——
響きがまだ続いていた。
ケイの声の余韻が、糸の震えに混ざっている。
それを感じている間、何かがほどけていく感覚があった。
ずっと思い出さなかったことが、戻ってきている。
◇
朝だった。
台所で、母がコーヒーを淹れていた。
金に近い茶色の髪を、後ろで一つに束ねていた。
背は自分より少し低い。
白い実験衣を、椅子の背に掛けていた。
その匂いが好きだった。
コーヒーと、母の早口と、出かける前の少し慌ただしい朝。
「アリス、今日も塾?」
母の声はいつもより少し早口だった。
研究の朝はたいていそうだった。
「うん。十時まで」
母は振り向かなかった。
振り向かなくても、こちらを気にかけているのは、声の張りでわかった。
「迎え、行こうか」
いつもの一言だった。
母は忙しい。
だから、その一言が母の精いっぱいなのも、知っていた。
「いい」
断った。
いつものように。
母の手をわずらわせたくなかった。
「そう」
短いやり取りだった。
母はいつもそうだ。
来る、と言えば来る。
来ない、と言えば来ない。
その日も、それで終わるはずだった。
家を出た。
塾の窓は、夜になると外の街灯を映していた。
参考書の上で、シャープペンシルが止まっていた。
式が解けなかった。
あと一歩のところまでいっていた。
だが、最後の一行が合わなかった。
数学だった。
時計を見た。
九時半を過ぎていた。
あと、三十分。
外で車が走り抜ける音がした。
塾の階下の通りだった。
ペンを置いた。
残りの三十分を、別の問題に充てた。
九時五十五分。
塾の入り口を出た。
鞄の中で参考書が重く揺れた。
駅まで十分。
途中に街灯の少ない、短い区間があった。
古い住宅街の裏手だ。
塀の上に伸び放題の枝が覆いかぶさっていた。
昼間に通れば何でもない道だった。
夜は、違った。
街灯と街灯の間隔が広かった。
歩いた。
角を曲がった。
車のヘッドライトが、左から来た。
だが——
ヘッドライトは横道から来るはずのものではなかった。
間に合わなかった。
体が跳ねた。
地面に頭を打った。
視界が傾いた。
音が遠くなった。
倒れている自分が見えた。
いや。
目は閉じていた、はずだった。
誰かが近づいてきた。
足音は聞こえていなかった。
だが、気配があった。
人を呼ぶ声は、聞こえなかった。
腕に何かが当たった。
冷たいものが肌に触れた。
手のひらが頭の下に入った。
誰かの声がした。
言葉は聞き取れなかった。
意識が完全に落ちた。
次に目を開けたときは——
森だった。
知らない木が頭上に揺れていた。
空の色は知っている空とは、わずかに違った。
淡い、緑がかった青だった。
起き上がった。
体は痛くなかった。
頭も、打った感覚が残っていなかった。
学生服を着ていた。
鞄はなかった。
歩いた。
森を出ると、街道だった。
馬車が通り過ぎていった。
馬車。
……馬車だった。
見知らぬ国の王宮に保護された。
神の使い、と呼ばれた。
聖詔者として、南の宗教都市に送られた。
礼服。
祈祷。
教団の役目。
慣れた。
慣れるほかはなかった。
あれは異世界への転移だった、と、長く思っていた。
だが——
長く、思っていただけだった。
■
ファンの音が戻ってきた。
灰色の天井が戻ってきた。
だが——
あれが異世界でなかったことを、自分は体で知っていた。
ケイに送り出された、あのとき。
ケイの体が、扉のように開いた。
その向こうに流れているものがあった。
光の筋が、いくつも脇を流れていった。
その中を、形を保ったまま進んだ。
あれが、外だった。
ケイが、そう呼んでいた。
外に出る道、と。
外を、入れろ、と。
いま、わかる。
工房も、街も、王宮も。
ずっといたあの場所は、本当の場所ではなかった。
人がいて、笑って、怒って、生きて、死ぬ。
それでも、自分の体はそこになかった。
体は、流れの「外」にあった。
いま横たわっている、この灰色の部屋に。
事故にあって、自分は流れの中に運ばれていた。
気づかないまま。
戻るには細い糸が必要だった。
ケイが用意した糸を辿って、自分は戻った。
戻れた、はずだった。
だが、ここは——
知っている場所ではない。
あの夜の塾の前でもない。
古い住宅街の裏手でもない。
家でもない。
母の、いる場所でもない。
母。
その一文字が、胸の奥で熱を持った。
あの朝、迎えはいい、と断った。いつものように。
あの一言を、断らなければ。母の車で帰っていれば、あの暗い道を、一人で歩くことはなかった。
——お母さんに、会いたい。
思い出してしまえば、それは、まっすぐだった。
ずっと思い出せずにいた分だけ、強かった。
母は今、どうしているのだろう。
娘が消えて、どれだけの時間が経ったのだろう。
あの台所で、まだコーヒーを淹れているのだろうか。
考えると、息が浅くなった。
ここが、どこなのか、わからなかった。
わからないまま、ひとつだけ、はっきりしたことがあった。
——帰りたい。母の、いる場所へ。
「——ケイさん」
頭の奥で、響きに重ねた。
「——ここは、本当に、外、ですか」
糸が震えた。
返答までに、少し、間があった。
◆
ケイは目を開けて机を見ていた。
糸の震えが伝えてきた言葉を、頭の中でゆっくり整理していた。
異世界転移。
流れの中。
外。
戻った、はずだった。
知らない場所。
糸の向こうで、アリスは、ここがどこなのかを訊いている。
——アリスが、自分で、それを、整理していた。
——伝えたことを、自分の言葉に変えて、戻していた。
ケイは机の縁を握った。
指先に、わずかに、力が入った。
即答できる。
ケイは息を吸った。
「——ああ」
糸に声を乗せた。
「——そこは、外だ。アリスが、もといた場所と、同じはずだ」
■
ケイの声が届いた。
「——では、私は」
頭の奥で続けた。
「——戻れた、のですね」
糸の向こうで、息を吸う気配があった。
「——ああ」
戻れた。
アリスは目を閉じた。
戻れた、というひとことが、思っていたよりも長く、頭の中で響いた。
だが——
だが、戻れたのなら——
目を開けた。
灰色の天井。
ファンの音。
寝台の列。
「——ケイさん」
頭の奥で続けた。
「——では、なぜ私は、こんなところにいるのですか」
「——ここは、私の家でも、事故にあった街でも、ない」
「——母の、いる場所でも、ない」
言葉にすると、胸の奥がふるえた。
「——なぜ、私は、ここに、いるのですか」
「——どうすれば、母のところへ、帰れるのですか」
◆
糸の震えが止まった。
ケイは口を開けかけた。
言葉が出てこなかった。
外であるのは確かだった。
アリスが戻ったのは外だ。
だが、なぜアリスが見たことのない場所に戻ったのか——
ケイは知らなかった。
——俺は、戻ったことがない。
——流れの中に、来ただけだ。
——戻った先が、どんな場所か、想像できない。
糸の向こうでアリスは戻った。
だが、戻った先は、彼女が知らない場所だ。
ケイは机の上の左手を見た。
糸の震えはもう止まっていた。
だが、糸は切れていなかった。
待っている震え方だった。
答えはない。
だが、黙っているわけにはいかなかった。
ケイは息を吸った。
「——わからない」
糸に乗せた。
「——なぜお前がそこにいるのか、俺にもわからない」
糸の向こうで、震えが小さく揺れた。
「——だが、調べる」
「——お前がどこにいるのか。なぜ、そこにいるのか。必ず突き止める」
糸の揺れが、ほんの少し落ち着いた。
それ以上は言わなかった。
言えることが、まだなかった。
工房の窓から朝の光が長く伸びていた。
机の縁にかかった光の境目が、わずかに進んでいた。
答えはケイの中に、まだなかった。
どこから手をつければいいのかも。
ケイは目を伏せた。
だが——
頭の奥で、何かが動き始めていた。
自分自身の、古い記憶の方角だった。
※加筆のお知らせ
先に公開した 第37話・第38話 に、それぞれ少し書き足しました。
・37話…アリスが目を覚ましてから、管を抜いても誰にも気づかれずにいる理由を、彼女自身の力(結界)として
・38話…ラスト、通信がつながったあとにケイがフウへ向ける視線と、かつての“約束”の場面
どちらもこの先につながる小さな伏線です。お時間あれば読み返していただけると嬉しいです。いつも読んでくださってありがとうございます。




