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38/51

Episode 38|拍


工房の窓に、夕方の光がわずかに残っていた。


ケイは机に手を置いた。

左の手のひらに、糸。

青白く透けていた。

イブが残した糸だ。


これで何度目かの試行だった。

前にも辿った。

呼びかけた。

届かなかった。


サトルは隣の椅子に座っていた。書類を膝に置いていた。

フウは床に座っていた。膝を抱えていた。

ジンは扉の脇で、壁に背を預けていた。


ケイは糸を辿った。

震えに合わせて意識を進めた。


流れの外。

細い線が伸びている。

前と同じ感触だった。


——アリス。

——聞こえるか。


返事はない。


ケイは息を整えた。

何度目の試行か、もう数えていない。


——もう一度。


糸の震えに、自分の呼吸を重ねた。

ふだんなら、しない作法だ。


吸って、吐く。

糸も震える。

吸って、吐く。

糸も震える。


——拍が、合うときがある。

——合わないときと、合うときがある。


合っているとき、糸の震えがわずかに強くなる。

合わないとき、震えは薄くなる。


合った瞬間に呼んだ。


——アリス。

——聞こえるか。


震えの強さが、少しだけ続いた。


もう一度、合わせた。


——アリス。


ふっと、震えが変わった。


サトルがケイの顔を見た。

ケイの肩が、ほんの少し動いた。


向こうで、何かが応えた。

そんな気配があった。

気配だけだった。

それでも、前とは違った。


「フウ」

ケイが低く言った。

フウが立ち上がった。

フウ自身、気配で感じたのか確信はない、というふうな表情だった。

だが、頷いた。


ジンが、扉から視線を室内に戻した。


ケイは目を開けた。

糸を握り直した。


「もう一度、行く」


サトルが椅子の縁を握った。

書類が膝から落ちた。

誰も拾わなかった。




アリスは寝台の上にいた。


天井は灰色のままだった。

光の出所はわからない。

影はない。


腕は降りていた。

今朝まで動いた肘から先が、もう動かなかった。

力を入れた。

入れ方を、忘れていた。


指先だけが、わずかに動いた。


口の管は抜けていた。喉の奥に、空いた感触が残っていた。

だが、声は出なかった。

息だけが抜けた。


胸の電極も抜けていた。

右腕の点滴も抜けていた。


抜けていないのは、後頭部の管、だけだった。


——これだけは、自分の、一部だ。


そう、思った。

それ以上は、思わなかった。



頭の奥で、響きが続いていた。


前から続いていた。

誰の声か、わからない。

わからないまま、響いていた。


アリスは、響きを数えた。


ファンのような音。

それは、外で鳴っていた。

自分の呼吸の音。

それは、体の表面で鳴っていた。

隣の誰かの呼吸の音。

それも、自分の外で鳴っていた。


響きだけが、違った。

体の、もっと深いところで鳴っていた。


——響きは、私の中で、鳴っている。


そう、わかった。

だが、私の中の、どこで鳴っているのか。


アリスは、意識を自分の体の中に落としていった。


胸の中ではない。

腹の中ではない。

腕の中ではない。


——後ろ、だった。


頭の、後ろ。

そこから、響きは来ていた。



後頭部の、管。


前に、触れた。

引いた。

抜けなかった。


——皮膚と混ざっている。

——境目が、ない。


そう、認識した。


そして、今。

響きは、その管から来ていた。


他の場所では、鳴っていなかった。

そこだけで、鳴っていた。



アリスは、目を開けたままだった。

動かない腕の代わりに、意識を後頭部の管に向けた。


聖詔者の結界。

ふだんは、外を遮るために張る。

神殿で、毎日、張ってきた。

祈祷の終わりに、外の音を内に入れないように、結界を整える。


それが、ふだんの作法だった。


——逆に、することは、できるか。


そう、自分に問うた。

できる、とは思えなかった。

だが、できない、とも思えなかった。


外を遮るのではなく、外を入れる結界。

ふだんの結界の、向きを逆にする結界。


——前に、ケイさんが、言っていた。

——薄くしろ、と。


そう、言われた。

あのとき、自分は、ふだんの結界の張り方を、現場で変えた。

流れの中で、形だけ保ち、外を混ぜながら、進んだ。


——あのとき、外を、入れた。

——今度も、外を、入れる。


同じことだった。

今度は、自分の、後頭部からだ。



意識を、後頭部の管に集めた。

管の向こうから、響きが来ている。


こちらから、向こうへ、結界を薄く向ける。

外を入れる。

内を開く。


それは、聖詔者の作法の、裏返しだった。

表の作法を、長く身につけてきた者にしか、できないやり方だった。

裏返しは、表を、知っている者にしか、できない。



頭の奥の響きが、少し近くなった。


近くなった、のではなく、聞き取り方が変わったのかもしれない。

どちらでもよかった。

近くなった、ということだけが確かだった。


アリスは、自分の呼吸を響きに合わせた。

吸う。

響きが強くなる。

吐く。

響きが薄くなる。


——拍が、合った。


合った瞬間、響きの中に、輪郭が現れた。

それまでは、ただの響きだった。

意味のない振動だった。

だが、輪郭が現れた。


言葉の、輪郭だった。


——アリス。


そう、響きが言った。



アリスの目が、開いたままだった。


それは、ケイさんの声だった。


何度も聞いた声だった。

工房で。

食堂で。

評議の間で。

送り出された朝、自分が両手を置いた、その背の主の声だった。


——ケイさん。

——ここに、います。


応えた。

声は出なかった。

内で、応えた。


目尻に薄く、水が滲んだ。

それも、誰も見ていなかった。


返事は、すぐには、来なかった。


——届きましたか。


もう一度、響きに意識を向けた。

管の向こうへ、結界を、もう一度、開いた。




ケイは糸を握っていた。


震えが変わった。

さっきまでの震えとは、違った。


何かが返ってきた。


「いま、向こうから、返ってきた」

ケイが低く言った。


サトルが息を止めた。

フウがケイの背後で、立ったままだった。

ジンが扉から一歩、室内に入った。


ケイは糸の震えをもう一度、確かめた。

震えの中に、輪郭があった。

自分が呼びかけたときと、同じ質の輪郭だった。


「アリスだ」


そう言った。


「——届いたん、ですか」

サトルが机に両手を置いた。声がうわずっていた。


「アリス。アリスだ」

フウが小さく頷きながら、二度、名前を呼んだ。


ジンは刀の柄に指を置いた。

言葉はなかった。


ケイはもう一度、糸に意識を落とした。

震えはまだ続いていた。

向こうの輪郭は、消えていなかった。


——アリス。

——届いた。


返した。

返した、と思った。

向こうに届いたかは、まだ、わからなかった。


ジンが、扉から、もう一歩、室内に、入った。

「……届いたんだな」

低い声だった。


ケイは、フウを見た。

フウは立ったまま、こちらを見ていた。

胸に手を当てている。さっき名前を呼んだときのままで。


——約束した。一度だけ、と。


向こうの端は、アリスが自分で開いた。

アリスが、向こうで保っている。

ならば、この子の中の穴を、いつまでも借りずに済む。


——もう少しだ。もう少しで、返せる。




頭の奥に、もう一度、輪郭が現れた。


——アリス。

——届いた。


そう、響いた。


アリスは瞬きをした。

それしか、できなかった。


ケイさんが、応えた。

こちらの声が、向こうに届いた。

そう、わかった。


それから、響きが薄くなった。

ケイさんが糸から離れたのかもしれない。

あるいは、自分の意識が薄れたのかもしれない。

どちらでも、よかった。



ケイさんが、いる。

自分は、ここに、いる。

その二つが、初めて、線で、繋がっていた。


だが——

その線の、こちらの端が、どこなのか。

誰が、自分を、ここに寝かせたのか。

誰が、自分の隣に、同じ顔をした人を、並べたのか。


——わからなかった。


※加筆のお知らせ


第38話のラストに少し書き足しました。通信がつながったあと、ケイがフウに向ける視線と、かつての“約束”に触れる場面です。

よろしければ、ラストの数行だけでも読み返してみてください。いつも読んでくださってありがとうございます。

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