Episode 38|拍
◆
工房の窓に、夕方の光がわずかに残っていた。
ケイは机に手を置いた。
左の手のひらに、糸。
青白く透けていた。
イブが残した糸だ。
これで何度目かの試行だった。
前にも辿った。
呼びかけた。
届かなかった。
サトルは隣の椅子に座っていた。書類を膝に置いていた。
フウは床に座っていた。膝を抱えていた。
ジンは扉の脇で、壁に背を預けていた。
ケイは糸を辿った。
震えに合わせて意識を進めた。
流れの外。
細い線が伸びている。
前と同じ感触だった。
——アリス。
——聞こえるか。
返事はない。
ケイは息を整えた。
何度目の試行か、もう数えていない。
——もう一度。
糸の震えに、自分の呼吸を重ねた。
ふだんなら、しない作法だ。
吸って、吐く。
糸も震える。
吸って、吐く。
糸も震える。
——拍が、合うときがある。
——合わないときと、合うときがある。
合っているとき、糸の震えがわずかに強くなる。
合わないとき、震えは薄くなる。
合った瞬間に呼んだ。
——アリス。
——聞こえるか。
震えの強さが、少しだけ続いた。
もう一度、合わせた。
——アリス。
ふっと、震えが変わった。
サトルがケイの顔を見た。
ケイの肩が、ほんの少し動いた。
向こうで、何かが応えた。
そんな気配があった。
気配だけだった。
それでも、前とは違った。
「フウ」
ケイが低く言った。
フウが立ち上がった。
フウ自身、気配で感じたのか確信はない、というふうな表情だった。
だが、頷いた。
ジンが、扉から視線を室内に戻した。
ケイは目を開けた。
糸を握り直した。
「もう一度、行く」
サトルが椅子の縁を握った。
書類が膝から落ちた。
誰も拾わなかった。
■
アリスは寝台の上にいた。
天井は灰色のままだった。
光の出所はわからない。
影はない。
腕は降りていた。
今朝まで動いた肘から先が、もう動かなかった。
力を入れた。
入れ方を、忘れていた。
指先だけが、わずかに動いた。
口の管は抜けていた。喉の奥に、空いた感触が残っていた。
だが、声は出なかった。
息だけが抜けた。
胸の電極も抜けていた。
右腕の点滴も抜けていた。
抜けていないのは、後頭部の管、だけだった。
——これだけは、自分の、一部だ。
そう、思った。
それ以上は、思わなかった。
頭の奥で、響きが続いていた。
前から続いていた。
誰の声か、わからない。
わからないまま、響いていた。
アリスは、響きを数えた。
ファンのような音。
それは、外で鳴っていた。
自分の呼吸の音。
それは、体の表面で鳴っていた。
隣の誰かの呼吸の音。
それも、自分の外で鳴っていた。
響きだけが、違った。
体の、もっと深いところで鳴っていた。
——響きは、私の中で、鳴っている。
そう、わかった。
だが、私の中の、どこで鳴っているのか。
アリスは、意識を自分の体の中に落としていった。
胸の中ではない。
腹の中ではない。
腕の中ではない。
——後ろ、だった。
頭の、後ろ。
そこから、響きは来ていた。
後頭部の、管。
前に、触れた。
引いた。
抜けなかった。
——皮膚と混ざっている。
——境目が、ない。
そう、認識した。
そして、今。
響きは、その管から来ていた。
他の場所では、鳴っていなかった。
そこだけで、鳴っていた。
アリスは、目を開けたままだった。
動かない腕の代わりに、意識を後頭部の管に向けた。
聖詔者の結界。
ふだんは、外を遮るために張る。
神殿で、毎日、張ってきた。
祈祷の終わりに、外の音を内に入れないように、結界を整える。
それが、ふだんの作法だった。
——逆に、することは、できるか。
そう、自分に問うた。
できる、とは思えなかった。
だが、できない、とも思えなかった。
外を遮るのではなく、外を入れる結界。
ふだんの結界の、向きを逆にする結界。
——前に、ケイさんが、言っていた。
——薄くしろ、と。
そう、言われた。
あのとき、自分は、ふだんの結界の張り方を、現場で変えた。
流れの中で、形だけ保ち、外を混ぜながら、進んだ。
——あのとき、外を、入れた。
——今度も、外を、入れる。
同じことだった。
今度は、自分の、後頭部からだ。
意識を、後頭部の管に集めた。
管の向こうから、響きが来ている。
こちらから、向こうへ、結界を薄く向ける。
外を入れる。
内を開く。
それは、聖詔者の作法の、裏返しだった。
表の作法を、長く身につけてきた者にしか、できないやり方だった。
裏返しは、表を、知っている者にしか、できない。
頭の奥の響きが、少し近くなった。
近くなった、のではなく、聞き取り方が変わったのかもしれない。
どちらでもよかった。
近くなった、ということだけが確かだった。
アリスは、自分の呼吸を響きに合わせた。
吸う。
響きが強くなる。
吐く。
響きが薄くなる。
——拍が、合った。
合った瞬間、響きの中に、輪郭が現れた。
それまでは、ただの響きだった。
意味のない振動だった。
だが、輪郭が現れた。
言葉の、輪郭だった。
——アリス。
そう、響きが言った。
アリスの目が、開いたままだった。
それは、ケイさんの声だった。
何度も聞いた声だった。
工房で。
食堂で。
評議の間で。
送り出された朝、自分が両手を置いた、その背の主の声だった。
——ケイさん。
——ここに、います。
応えた。
声は出なかった。
内で、応えた。
目尻に薄く、水が滲んだ。
それも、誰も見ていなかった。
返事は、すぐには、来なかった。
——届きましたか。
もう一度、響きに意識を向けた。
管の向こうへ、結界を、もう一度、開いた。
◆
ケイは糸を握っていた。
震えが変わった。
さっきまでの震えとは、違った。
何かが返ってきた。
「いま、向こうから、返ってきた」
ケイが低く言った。
サトルが息を止めた。
フウがケイの背後で、立ったままだった。
ジンが扉から一歩、室内に入った。
ケイは糸の震えをもう一度、確かめた。
震えの中に、輪郭があった。
自分が呼びかけたときと、同じ質の輪郭だった。
「アリスだ」
そう言った。
「——届いたん、ですか」
サトルが机に両手を置いた。声がうわずっていた。
「アリス。アリスだ」
フウが小さく頷きながら、二度、名前を呼んだ。
ジンは刀の柄に指を置いた。
言葉はなかった。
ケイはもう一度、糸に意識を落とした。
震えはまだ続いていた。
向こうの輪郭は、消えていなかった。
——アリス。
——届いた。
返した。
返した、と思った。
向こうに届いたかは、まだ、わからなかった。
ジンが、扉から、もう一歩、室内に、入った。
「……届いたんだな」
低い声だった。
ケイは、フウを見た。
フウは立ったまま、こちらを見ていた。
胸に手を当てている。さっき名前を呼んだときのままで。
——約束した。一度だけ、と。
向こうの端は、アリスが自分で開いた。
アリスが、向こうで保っている。
ならば、この子の中の穴を、いつまでも借りずに済む。
——もう少しだ。もう少しで、返せる。
■
頭の奥に、もう一度、輪郭が現れた。
——アリス。
——届いた。
そう、響いた。
アリスは瞬きをした。
それしか、できなかった。
ケイさんが、応えた。
こちらの声が、向こうに届いた。
そう、わかった。
それから、響きが薄くなった。
ケイさんが糸から離れたのかもしれない。
あるいは、自分の意識が薄れたのかもしれない。
どちらでも、よかった。
ケイさんが、いる。
自分は、ここに、いる。
その二つが、初めて、線で、繋がっていた。
だが——
その線の、こちらの端が、どこなのか。
誰が、自分を、ここに寝かせたのか。
誰が、自分の隣に、同じ顔をした人を、並べたのか。
——わからなかった。
※加筆のお知らせ
第38話のラストに少し書き足しました。通信がつながったあと、ケイがフウに向ける視線と、かつての“約束”に触れる場面です。
よろしければ、ラストの数行だけでも読み返してみてください。いつも読んでくださってありがとうございます。




