Episode 37|掌
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腕が、動いた。
いつの間にか、肘から先が、寝台の上でわずかに浮いていた。
昨日まで、指の先だけが動いていた。
昨日まで、首だけがほんの少し向きを変えていた。
それが、今朝目を開けたときには、腕になっていた。
——動いている。
そう思ったあとで、腕がまた寝台の上に戻った。
軽いものではなかった。
ずっと使っていなかった自分の腕の重さだった。
持ち上げているのではなく、持ち上げかけてすぐに降ろした。
それでも、動いた。
光は変わらない。
音も変わらない。
ただ、自分の体だけが、変わりはじめていた。
■
ふだんなら、腕は勝手に動く。
何かを取る。押す。書く。開く。
動かそうと思う前に、もう、動いていた。
そういうものだった。
今は、違う。
動かそうと思ってしばらく間があって、それから動く。
その間が、長かった。
その間に、思うことができた。
——どこに、伸ばす。
口の中に、自分のものではない管が入っていた。
それを、自分の指で、取り出す。
そのために、手はあった。
腕が、肘からゆっくりと起きた。
肘から先が、宙に浮いた。
震えていた。
それでも、起きた。
掌が、自分の口のほうへゆっくりと向かいかけた。
途中で止まった。
保てなかった。
腕の重さが、勝った。
肘から先が、寝台の上にまた戻った。
——一度では、無理だ。
そう思った。
だが、思っただけで止まらなかった。
もう一度、腕が起きた。
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掌が、口の縁にようやく触れた。
自分の口の、自分の指の感触だった。
唇は自分のものだった。
だが、唇の真ん中から、柔らかい管が出ていた。
それは、自分のものではなかった。
指が、その管の縁をなぞった。
ねっとりとした、わずかな湿り気があった。
管は、口の奥まで続いていた。
喉のほうへ、消えていた。
——抜く。
そう、内声が形になった。
形になってから、はじめて、自分がそれをしようとしていると知った。
抜くというのが何のことなのか、ふだんの自分なら考えなかった。
それは、結界を張るときの糸の引き方に、似ているのかもしれない。
中から外へ、流すように、引く。
ふだんなら、考えずにそうしていた。
今は、それを自分の指でやろうとしていた。
力が足りるかどうかは、わからなかった。
やってみるしかなかった。
指が、管に触れた。
親指と人差し指で、挟んだ。
力が、弱かった。
管は、指のあいだから、するりと逃げた。
もう一度、挟み直した。
今度は、指の根元のほうで、強く挟んだ。
引いた。
ほんの、わずか。
管が、口の中で動いた。
喉の奥が、ぐ、となった。
えずいた。
止めようとしたが、止まらなかった。
喉が、勝手に押し戻そうとしていた。
だが、指は引いたままだった。
もう少しだけ引いた。
管が、ずるりと滑った。
喉の奥の何かが、外れた感触があった。
ぐっ、とまた、えずいた。
唾液とともに、温かい何かが、口から出た。
管が、半分、口から出ていた。
残りは、まだ、喉の奥にある。
——もう少し。
指が、もう一度挟み直した。
親指と人差し指の力は、弱い。
だが、つまむ場所を口の縁にすると、引くのは軽くなった。
引いた。
管が、ずるずると出てきた。
喉が、いやがって押し戻そうとしていた。
それでも、出てきた。
管の長さが、自分が思っていたより、はるかに長かった。
最後の、十センチほどが、喉からずるりと抜けた。
——抜けた。
その瞬間に、咳が出た。
咳が出るということ自体に、驚いた。
ふだん、咳をするときにこんなふうに驚いたことは、なかった。
体が、勝手に咳をしていた。
何度も、何度も、咳をした。
口から、唾液と、薄い液体と、よくわからないものが、出た。
寝台の横に、抜けた管がぶら下がっていた。
自分の体から出てきた管が、よそ者のように空中で揺れていた。
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呼吸が、変わった。
それまで、自分の呼吸の上に、別の呼吸が重なっていた。
それが、今、消えていた。
自分の呼吸だけが、あった。
胸が、自分の力で上下していた。
不自由なほど、浅かった。
だが、自分のものだった。
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鼻の管も、抜いた。
口のものより、細く、短かった。
つんと痛んで、すぐに滑り出た。
胸の白いシートを、順に剥がした。
三か所。
最後のシートを剥がすときには、もう、迷いはなかった。
右腕の点滴の針も、抜いた。
血が、ぽつ、と出た。
それも、自分のものだった。
少しのあいだ、自分の腕を見た。
血の出ている自分の腕を、こんなふうに見たことが、なかった。
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腰の奥のほうにも、まだ管があった。
手は、そこまで届かなかった。
腕は、そこまで伸びなかった。
動く範囲が、限られていた。
それは、保留にした。
掌を、寝台の上に戻した。
腕が、震えていた。
指先が、冷たかった。
ずっと、力を使っていた。
寝台の縁に、抜けた管がいくつも垂れていた。
口の管。
鼻の管。
電極のコード。
点滴のチューブ。
それらが、自分の体から離れていた。
体が、軽くなったような気がした。
気のせいだったかもしれない。
だが、確かに、何かが外れていた。
——これは、祈りのあとの、息に、似ている。
祈祷を終えたあと、神殿の空気が、自分の体から、ゆっくり離れていく、あの瞬間。
いま、それと、よく似ていた。
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誰も、来なかった。
目を覚ましてから、ずっと。
これだけ管を抜いた。
電極も剥がした。
ふつうなら、誰かが気づくはずだった。
だが、来ない。
——見られている。
最初は、そう感じた。
天井の隅。通路の奥。
ときおり、巡る小さな目のようなもの。
その目がこちらを向きかけるたび、結界を寄せた。
祈祷のとき、外を遮るために張る結界。
それを自分の気配の上に、薄く被せる。
ここに在るものを、無いように。
巡る目は、アリスの上を滑って通り過ぎた。
何も見なかったように。
気づかないうちに、そうしていた。
だから、誰も来ない。
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頭の後ろが、まだ、引っかかっていた。
その引っかかりは、最初からそこにあった。
他の管とは、違った。
他の管は、自分の体に、外からついていた。
あの管だけは、自分の中から伸びていた。
手を、後ろに回そうとした。
首が、十分には回らなかった。
寝た姿勢のまま、後頭部に自分の手を伸ばそうとしても、肘が寝台に当たった。
腕の動きが、まだ、そこまでは戻っていなかった。
それでも、指の先が、ぎりぎりまで後頭部に届いた。
自分の頭の、髪のすぐ下に、それがあった。
指の先が、触れた。
冷たくなかった。
温度がなかった。
何の温度もなかった。
体温の延長でもなかったし、外気の延長でもなかった。
ただ、そこにあった。
引いた。
抜けなかった。
もう一度、引いた。
抜けなかった。
引いた力は、口の管を抜いたときと、同じくらい。
だが、手応えが、ない。
動かない、というより、引いているという感覚そのものが、向こうに伝わっていないような気がした。
指の先が、その管の輪郭をなぞった。
他の管とは、肌触りが違う。
管そのものが、皮膚と混ざっていた。
どこまでが自分の頭で、どこからが管か。
境目が、ない。
引くたびに、頭の奥で、何かが響いた。
痛みではなかった。
痛みでも、ない。
何か、別のもの。
——これは、抜けない。
口の奥で、その言葉が形になった。
その奥に、もう一段が、形になりかけた。
——これだけは、自分の、一部だ。
形になりかけて、止まった。
止まったまま、消えなかった。
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腕が、寝台の上に降りた。
腕を、もう、起こす力はなかった。
腕を降ろした、というよりも、腕が勝手に降りた。
ずっと使っていなかった筋肉が、これ以上は動けないと、言っていた。
寝台の縁に、抜けた管がいくつも垂れていた。
頭の後ろの、いちばん深い管は、まだ、そこにあった。
——口は、空いた。
声を出してみよう、と思った。
そう思った瞬間に、自分の口から、初めて、自分の意志で、何かが出かけた。
息が、出た。
声には、ならなかった。
もう一度、出そうとした。
息は、出た。
声には、ならなかった。
喉が、声を出すための形を覚えていなかった。
忘れていた。
形は、覚えているはずだったが、その形を作る筋肉が、動かなかった。
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息だけが、出ていた。
光は、変わらなかった。
音も、変わらなかった。
ただ、自分の息だけが、ふだんと違っていた。
管を通っていない、自分の口から、自分の息が出ていた。
それを、誰も、聞かなかった。
——口は、空いた。
——だが、声は、まだ、出なかった。
垂れた管が、寝台の縁で、わずかに揺れていた。
頭の奥のほうで、まだ、何かが響いていた。
さっき引いた、後頭部の管の、響きの続きだった。
響きは、遠くから来ていた。
ずっと遠くから、誰かが、こちらに呼びかけているような響きだった。
誰の声なのか、わからない。
わからないまま、響いていた。
※加筆のお知らせ
第37話に少し書き足しました。アリスが目を覚ましてから、管を抜いても誰にも気づかれずにいる——その理由を、彼女自身の力として描き加えています(祈りの場面のあとに数行)。
お時間あれば読み返していただけると嬉しいです。




