Episode 36|不在
◆
ミアは、祈祷の間に立っていた。一人で。
いつもの時刻だ。
東の高窓から、光がまっすぐに入ってきている。
床の石がいつもどおり冷たい。
胸の前で紙を開いた。
昨夜、預かった紙だ。
アリスが写したものだ。
誰にも見せたことがない、と言っていた。
紙の縁を指で揃えた。
そろえる音だけが聞こえた。
——今日、私が上げる。
——アリス様の、声で。
——アリス様が、ここにいる、と。
——そう、思わせなければ、いけない。
口を開いた。
喉がいつもより少し乾いていた。
最初の一句が出た。
自分の声だ。
だが誦み方は、アリスの誦み方だった。
言葉の終わりを、ほんの少し長く引く。
息継ぎを句の途中で入れない。
それがアリスの誦み方だった。
何度も隣で聞いてきた。
覚えていたつもりはなかった。
覚えていた。
二句目。
三句目。
止まらなかった。
途中で一度、息が合わなくなった。
目の奥に、薄く水が浮いた。
紙の上の文字が、ほんの一瞬、ぼやけた。
口は止めなかった。
止めれば、戻れなくなる気がした。
——大丈夫でしょうか。
喉の手前まで、口癖が上がってきた。
そこで止まった。
今日は、その先には行かなかった。
最後の一句を、いつもの長さで引いた。
紙を閉じた。
両手を、紙の上に重ねた。
頭を上げた。
祈祷の間には誰もいなかった。
扉の向こうの廊下も、静かだった。
——誰も、気づかなかった。
それが、わかった。
わかったあとで、紙の縁を握る指が、はじめて震えた。
震えたことに気づいて、ミアは紙を、もう一度、揃え直した。
背中をまっすぐにした。
昨日と同じ角度で。
そう、決めた。
祈祷の間を出るとき、扉に手をかけた。
押す前に、一度、息を吸った。
昨日より、少しだけ、深かった。
——明日も、上げる。
——一度では、終わらない。
◆
朝の食堂は、いつもどおり明るかった。
窓から入る光の角度も、椀の置かれた位置も、ジンの座り方も、変わっていなかった。
ケイは盆を置いた。
向かいの席が一つ空いている。
アリスが祈祷帰りに座る席だ。
フウが椀から顔を上げた。
「アリス、まだ?」
「来ない」
ジンが、短く答えた。
それ以上は言わなかった。
フウは「ふうん」と言って、また椀に顔を戻した。
普段と変わらない声に聞こえた。
だが、匙を動かす速さがいつもより少し遅かった。
サトルが机の端で眼鏡の縁に触れた。
「アリスが行った先で、何か、起きていれば」
言葉を選ぶ間があった。
「私たちにも、わかるはずです」
「ああ」
ケイは答えた。
それだけだった。
——わかるはずだ。
——今のところ、何も来ていない。
匙を取った。
味のことは考えなかった。
ジンが先に食べ終えて、椀を置いた。
椀の縁を一度撫でて、立ち上がった。
「自分は哨戒に出る」
「俺たちは工房に行く」
ケイが言った。
サトルが頷いた。
フウは匙を握ったまま、しばらく動かなかった。
「フウも来るか」
ケイが訊いた。
「行く」
フウは即答した。
椀の中身が、まだ半分残っていた。
◆
工房の机に、三人で集まった。
サトルが羊皮紙を広げた。
広げる必要はなかった。
机の上には、もう、何も新しい情報はなかった。
ケイは右手を開いた。
イブの糸が、手のひらの上にあった。
青白く透けた光の糸。
他の二人には見えない。
糸は、震えていた。
昨日と同じ震え方だった。
切れてはいない。
細くもなっていない。
「ケイ君」
サトルが訊いた。
「届いていますか」
「届いている」
ケイは答えた。
「だが、向こうからは来ない」
サトルが眼鏡の縁を一度、上げた。
何かを言いかけて、やめた。
フウには、糸は見えない。
だが、気配だけはわかる。
フウが手を伸ばした。
ケイの手のひらの上の、何もない空中に。
指の先が、糸の通っているはずの位置で、ほんの少し止まった。
「ある、と思う」
フウが言った。
「いる、と思う」
「ああ」
「でも、ばいばい、してない」
フウが言った。
言ってから、自分の言葉に少し戸惑った顔をした。
ケイは答えなかった。
答えなくていい、とわかった。
糸は震えている。
だが、向こうからは何も伝わってこない。
——届いていることと、届くことは、違う。
そう、内声が出た。
出てから、一度、止まった。
——届いていない、と、いま、確かめた。
◆
夜、ケイは工房に一人だった。
机の端の魔法陣が、灯り代わりに揺れている。
窓の外は黒い。
右手にイブの糸を乗せた。
左手を机の端に置いた。
前に糸を辿ったときよりも、ゆっくり目を閉じた。
意識を、糸に乗せた。
最初の一歩は、軽かった。
糸はまっすぐ伸びていた。
途中までは、前に辿ったときと同じ感覚だった。
糸の上を、視界が進んでいく。
——流れの外へ。
意識を進めた。
覚えのある感覚が途切れた。
その先は、覚えていなかった。
アリスは、その先まで、行ったはずだった。
ケイは進めなかった。
進める線が、なかった。
——アリス。
声を出した。
声ではなかった。
意識の縁から、向こうへ放った。
返事はなかった。
——聞こえるか。
二度目を出した。
今度は、もう少し向こうへ届けるつもりで。
何かに触れた感覚があった。
だが、応答ではなかった。
触れた相手が、動かない感触だった。
眠っている人の体温に、指を当てているような感触だった。
だが、眠っているのか起きているのか、わからなかった。
——アリス。
三度目は出さなかった。
出しても同じだ、とわかった。
わかった、というより、糸の震え方が少しだけ変わったのを感じた。
返ってきたのではなかった。
向こうで、何かがまだ動かないままでいる、震えだった。
意識を引き戻した。
前のときのような、肺の喘ぎはなかった。
代わりに、指先が冷たかった。
机の端を握っていた左手も、冷たかった。
目を開けた。
窓の外は黒いままだった。
魔法陣の揺れも、変わっていなかった。
紙に何かを書きつけることはしなかった。
書くことが、なかった。
机の端から、手を離さなかった。
離せば、何かが決まってしまう気がした。
——届いている。
——届いていない。
二段の内声だった。
矛盾しているとは、思わなかった。
そう、両方が、いま、同時にあった。
——時間が、いる。
それだけ、内声に追加した。
追加してから、ケイは机の端から手を離した。
離した手を、もう一度、糸の上に置いた。
震えは、続いていた。
◆
廊下を歩いた。
宿舎の扉の前で、一度止まった。
ジンの部屋の扉だ。
明かりが漏れていなかった。
ジンは哨戒から戻ったはずだった。
気配は、廊下の外側からはわからなかった。
ジンの寝静まり方は、起きている人の動きとほとんど変わらない。
ケイは自分の扉に手をかけた。
押す前に、一度だけ振り返った。
廊下の端のほうに、誰もいなかった。
——誰も、来なかった。
それは、アリスの不在の言い換えだった。
言い換えだ、と思った瞬間、ケイは扉を押した。
それ以上は、考えなかった。
■
灰色の天井は、変わらなかった。
光の出所も、ファンのような音も、変わらなかった。
寝台の上の小さな体は、昨日と同じ位置にあった。
胸が同じ間隔で上下していた。
口の管も、鼻の管も、後頭部から伸びる太いコードも、同じ位置にあった。
人差し指の先が、動いた。
朝より、ほんの少しだけはっきりと。
中指の先も、続いてわずかに動いた。
首が、横を向きかけて止まった。
その位置で、しばらく止まっていた。
それから、ゆっくり元に戻った。
通路には、誰もいなかった。
寝台の列の端まで、誰も歩いていなかった。
ファンのような音だけが、変わらない速さで聞こえていた。
外に出る道は、まだ、できていなかった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
Ep32、33、35話を一部加筆修正しました。「ケイたちがなぜ“外”を目指すのか」——その目的が伝わりにくい箇所があったため、明確にするための補強です。
ストーリーの大筋は変わりません。お時間があれば読み返していただけると、この先の展開がより掴みやすくなると思います。
引き続きよろしくお願いいたします。




