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Episode 36|不在


ミアは、祈祷の間に立っていた。一人で。


いつもの時刻だ。

東の高窓から、光がまっすぐに入ってきている。

床の石がいつもどおり冷たい。


胸の前で紙を開いた。

昨夜、預かった紙だ。

アリスが写したものだ。

誰にも見せたことがない、と言っていた。


紙の縁を指で揃えた。

そろえる音だけが聞こえた。


——今日、私が上げる。

——アリス様の、声で。


——アリス様が、ここにいる、と。

——そう、思わせなければ、いけない。


口を開いた。

喉がいつもより少し乾いていた。


最初の一句が出た。

自分の声だ。

だが誦み方は、アリスの誦み方だった。

言葉の終わりを、ほんの少し長く引く。

息継ぎを句の途中で入れない。


それがアリスの誦み方だった。

何度も隣で聞いてきた。

覚えていたつもりはなかった。

覚えていた。


二句目。

三句目。

止まらなかった。


途中で一度、息が合わなくなった。

目の奥に、薄く水が浮いた。

紙の上の文字が、ほんの一瞬、ぼやけた。

口は止めなかった。

止めれば、戻れなくなる気がした。


——大丈夫でしょうか。

喉の手前まで、口癖が上がってきた。

そこで止まった。

今日は、その先には行かなかった。


最後の一句を、いつもの長さで引いた。

紙を閉じた。

両手を、紙の上に重ねた。


頭を上げた。

祈祷の間には誰もいなかった。

扉の向こうの廊下も、静かだった。


——誰も、気づかなかった。


それが、わかった。

わかったあとで、紙の縁を握る指が、はじめて震えた。

震えたことに気づいて、ミアは紙を、もう一度、揃え直した。


背中をまっすぐにした。

昨日と同じ角度で。

そう、決めた。


祈祷の間を出るとき、扉に手をかけた。

押す前に、一度、息を吸った。

昨日より、少しだけ、深かった。


——明日も、上げる。

——一度では、終わらない。



朝の食堂は、いつもどおり明るかった。

窓から入る光の角度も、椀の置かれた位置も、ジンの座り方も、変わっていなかった。


ケイは盆を置いた。

向かいの席が一つ空いている。

アリスが祈祷帰りに座る席だ。


フウが椀から顔を上げた。

「アリス、まだ?」


「来ない」

ジンが、短く答えた。

それ以上は言わなかった。


フウは「ふうん」と言って、また椀に顔を戻した。

普段と変わらない声に聞こえた。

だが、匙を動かす速さがいつもより少し遅かった。


サトルが机の端で眼鏡の縁に触れた。

「アリスが行った先で、何か、起きていれば」

言葉を選ぶ間があった。

「私たちにも、わかるはずです」


「ああ」

ケイは答えた。

それだけだった。


——わかるはずだ。

——今のところ、何も来ていない。


匙を取った。

味のことは考えなかった。

ジンが先に食べ終えて、椀を置いた。

椀の縁を一度撫でて、立ち上がった。


「自分は哨戒に出る」


「俺たちは工房に行く」

ケイが言った。

サトルが頷いた。

フウは匙を握ったまま、しばらく動かなかった。


「フウも来るか」

ケイが訊いた。


「行く」

フウは即答した。

椀の中身が、まだ半分残っていた。



工房の机に、三人で集まった。

サトルが羊皮紙を広げた。

広げる必要はなかった。

机の上には、もう、何も新しい情報はなかった。


ケイは右手を開いた。

イブの糸が、手のひらの上にあった。

青白く透けた光の糸。

他の二人には見えない。


糸は、震えていた。

昨日と同じ震え方だった。

切れてはいない。

細くもなっていない。


「ケイ君」

サトルが訊いた。

「届いていますか」


「届いている」

ケイは答えた。

「だが、向こうからは来ない」


サトルが眼鏡の縁を一度、上げた。

何かを言いかけて、やめた。


フウには、糸は見えない。

だが、気配だけはわかる。

フウが手を伸ばした。

ケイの手のひらの上の、何もない空中に。

指の先が、糸の通っているはずの位置で、ほんの少し止まった。


「ある、と思う」

フウが言った。

「いる、と思う」


「ああ」


「でも、ばいばい、してない」

フウが言った。

言ってから、自分の言葉に少し戸惑った顔をした。


ケイは答えなかった。

答えなくていい、とわかった。


糸は震えている。

だが、向こうからは何も伝わってこない。


——届いていることと、届くことは、違う。


そう、内声が出た。

出てから、一度、止まった。


——届いていない、と、いま、確かめた。



夜、ケイは工房に一人だった。

机の端の魔法陣が、灯り代わりに揺れている。

窓の外は黒い。


右手にイブの糸を乗せた。

左手を机の端に置いた。

前に糸を辿ったときよりも、ゆっくり目を閉じた。


意識を、糸に乗せた。

最初の一歩は、軽かった。

糸はまっすぐ伸びていた。

途中までは、前に辿ったときと同じ感覚だった。

糸の上を、視界が進んでいく。


——流れの外へ。


意識を進めた。

覚えのある感覚が途切れた。

その先は、覚えていなかった。

アリスは、その先まで、行ったはずだった。


ケイは進めなかった。

進める線が、なかった。


——アリス。


声を出した。

声ではなかった。

意識の縁から、向こうへ放った。


返事はなかった。


——聞こえるか。


二度目を出した。

今度は、もう少し向こうへ届けるつもりで。

何かに触れた感覚があった。

だが、応答ではなかった。

触れた相手が、動かない感触だった。

眠っている人の体温に、指を当てているような感触だった。

だが、眠っているのか起きているのか、わからなかった。


——アリス。


三度目は出さなかった。

出しても同じだ、とわかった。

わかった、というより、糸の震え方が少しだけ変わったのを感じた。

返ってきたのではなかった。

向こうで、何かがまだ動かないままでいる、震えだった。


意識を引き戻した。

前のときのような、肺の喘ぎはなかった。

代わりに、指先が冷たかった。

机の端を握っていた左手も、冷たかった。


目を開けた。

窓の外は黒いままだった。

魔法陣の揺れも、変わっていなかった。


紙に何かを書きつけることはしなかった。

書くことが、なかった。


机の端から、手を離さなかった。

離せば、何かが決まってしまう気がした。


——届いている。

——届いていない。


二段の内声だった。

矛盾しているとは、思わなかった。

そう、両方が、いま、同時にあった。


——時間が、いる。


それだけ、内声に追加した。

追加してから、ケイは机の端から手を離した。

離した手を、もう一度、糸の上に置いた。

震えは、続いていた。



廊下を歩いた。

宿舎の扉の前で、一度止まった。

ジンの部屋の扉だ。

明かりが漏れていなかった。


ジンは哨戒から戻ったはずだった。

気配は、廊下の外側からはわからなかった。

ジンの寝静まり方は、起きている人の動きとほとんど変わらない。


ケイは自分の扉に手をかけた。

押す前に、一度だけ振り返った。

廊下の端のほうに、誰もいなかった。


——誰も、来なかった。


それは、アリスの不在の言い換えだった。

言い換えだ、と思った瞬間、ケイは扉を押した。

それ以上は、考えなかった。



灰色の天井は、変わらなかった。

光の出所も、ファンのような音も、変わらなかった。


寝台の上の小さな体は、昨日と同じ位置にあった。

胸が同じ間隔で上下していた。

口の管も、鼻の管も、後頭部から伸びる太いコードも、同じ位置にあった。


人差し指の先が、動いた。

朝より、ほんの少しだけはっきりと。

中指の先も、続いてわずかに動いた。


首が、横を向きかけて止まった。

その位置で、しばらく止まっていた。

それから、ゆっくり元に戻った。


通路には、誰もいなかった。

寝台の列の端まで、誰も歩いていなかった。

ファンのような音だけが、変わらない速さで聞こえていた。


外に出る道は、まだ、できていなかった。


いつもお読みいただきありがとうございます。

Ep32、33、35話を一部加筆修正しました。「ケイたちがなぜ“外”を目指すのか」——その目的が伝わりにくい箇所があったため、明確にするための補強です。


ストーリーの大筋は変わりません。お時間があれば読み返していただけると、この先の展開がより掴みやすくなると思います。


引き続きよろしくお願いいたします。

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