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Episode 34|目覚め


 その日の朝も、アリスは早く目を覚ました。


 夢を、覚えていた。


 覚えていたが、思い出せなかった。


 冷たい場所。


 金属の音。


 横たわる、誰か。


 ここまでが、ここ数日の決まりだった。


 だが今朝は——もう一つだけ、覚えていた。


 ——指が、動いた。


 自分の指ではない。


 だが自分の指のような気もした。


 寝台の縁に手を置いた。


 指先は震えていなかった。


 身を起こした。




 執務室に入ると、ミアはすでに机の前にいた。


「アリス様、おはようございます」


 頭を下げた。


 昨日より、深く下げた気がした。


「ミア」


「はい」


「今日は、少し、長い話をします」


 ミアの顔が、上がった。


「はい」


 アリスは机に向かった。


 机の引き出しから、薄い紙の束を取り出した。


 祈祷の文言を書き写したものだった。


 アリスが自分で写したものだ。


 何度も使ったのか、紙の縁が、わずかに丸くなっていた。


 誰にも、見せたことはなかった。


 ミアの前に、置いた。


「これを、預けます」


「……はい」


「午後の祈祷から、これを使ってください」


「アリス様の、写し、ですか」


「はい」


「私の、ものとして、使うのですか」


「いいえ」


 アリスは少し、間を置いた。


「私のものとして、声に、出してください」


 ミアの目が、紙に落ちた。


 落ちたまま、しばらく動かなかった。


「私の——声で、ですか」


「はい」


 ミアは紙を見ていた。


 紙を見ながら、息を、一度、吸った。


 それから、紙の縁を、両手で、揃えた。


「お預かりします」


 ミアが言った。


 声が、いつもより、低かった。


「……はい」


 アリスが頷いた。


「しばらく、というのは」


「私が戻るまで、です」


「……いつ、お戻りに」


 アリスは答えなかった。


 正確には、答えられなかった。


「私で、大丈夫でしょうか」


 ミアがいつも言う言葉だった。


 今日は、それが、出なかった。


 紙の縁を、もう一度、揃える音がした。


「私で、やります」


 ——「大丈夫でしょうか」が「やります」に、なっていた。


 ミアの中で、言葉が、変わっていた。


 アリスはそれを聞いた。


 聞いたあと、しばらく、何も言わなかった。


 退出のとき、扉のところで、一度、振り返った。


 ミアは机の前に立っていた。


 紙の上に、両手を置いていた。


 背中が、いつもより、まっすぐだった。




 工房の扉を開けると、四人がいた。


 ケイは椅子に座っていた。


 机の上には何もなかった。


 机の上に置けるものではなかった。


 イブの糸はケイの手のひらの上にあった。


 青白く震えていた。


「お待たせ、しました」


 アリスが言った。


 ジンは壁に背を預けていた。


 フウは机の端に腰掛けていた。


 サトルは机の向こう側に立っていた。


「アリス様」


 サトルが言った。


「ひとつ、確認させてください」


「はい」


「向こう側で、何が、起きるか、わかりますか」


「わかりません」


「結界を、張って、行きます」


 サトルは頷かなかった。


 眼鏡の縁に、指を、置いたままだった。


 少し、間があった。


「……どうか、ご無事で」


 サトルが言った。


 短かった。


 サトルにしては、短かった。


「ありがとうございます」


 アリスが答えた。


 ジンが、壁から、わずかに背を離した。


 何も言わなかった。


 言わないことが、何かを言っているように、見えた。


 フウが机の上から、ケイの手のひらの方に、目を向けていた。


 何かがそこにあるのは、わかっているような顔だった。


「イブの……いる?」


「ああ」


「ここに、いる」


「ああ」


 フウは自分の手のひらを見た。


 それから、首の後ろに触れた。


「わたしの中の、線は」


「ある」


 ケイが言った。


「だが、お前は何もしなくていい」


「うん」


 フウは頷いた。


 頷いた指は、首の後ろから、離れた。




 ケイが立ち上がった。


 椅子が後ろに引かれた。


 机の脇に立った。


 フウが隣に来た。


 ケイの右側に立った。


 ケイは左の手のひらを、軽く開いた。


 糸が震えた。


 強くは握らなかった。


 右の手のひらを、フウの背に、置いた。


 フウは動かなかった。


「アリス」


 ケイが言った。


「俺の背に、両手を、置け」


 アリスがケイの後ろに回った。


 礼服の裾が、わずかに揺れた。


 アリスの手が、ケイの背に置かれた。


 軽かった。


 重さはなかった。


「そこから、入れ」


「はい」


「俺を、通って、外へ出ろ」


「はい」


 アリスが息を吸った。


 両手をケイの背に置いたまま、目を、閉じた。


 空気が変わった。


 工房の中の空気が、アリスの周りで、形を持った。


 見えるわけではなかった。


 だが、肌がそれを知った。


「行ってこい」


 ケイが言った。


 短かった。


 それだけだった。




 アリスは、息を、吸った。


 ケイの背に置いた手のひらから、熱が、伝わった。


 ふだんの人の体温では、なかった。


 何かが、ケイの中に、流れているのが、わかった。


 結界を、張った。


 ふだんと、同じように。


 外を、遮るように。


 それから、ケイの背に、押した。


 押した、というよりも、流れに、沿った。


 ケイの背の中に、入った。


 抵抗は、なかった。


 ケイの体は、扉のように、開いた。


 通り抜けていく感覚だった。


 そこまでは、早かった。


 問題は、そこからだった。




 ケイの中を抜けたあと、アリスは、別の場所にいた。


 工房ではなかった。


 机もなかった。


 人もいなかった。


 空気でも、なかった。


 何か、流れているもの、の中にいた。


 光の筋が、いくつも、自分の脇を、流れていった。


 色は、ない。


 だが、輪郭は、ある。


 触れることのできない、線だった。


 一筋ずつが、別の方向に、向かっていた。


 ふだんの結界が、外を、遮っていた。


 遮ったまま、進もうとした。


 進めなかった。


 何かが、押し返してきた。


 外側からだった。


 結界が、ふくらんだ。


 ふくらんだあと、戻りきらなかった。


「——」


 声にならない音を、漏らした。


 膝が、わずかに、落ちた。


 落ちたが、支えるものはなかった。


 ここには、地面もなかった。


 ——重い。


 息を、吸おうとした。


 吸えなかった。


 そのとき、声が、聞こえた。


「アリス」


 ケイの声だった。


 遠くから、聞こえていた。


 だが、はっきりしていた。


「結界を、薄くしろ」


「……薄く、ですか」


「外を、入れろ」


 アリスは、迷った。


 結界を薄くすれば、外が、入ってくる。


 外が、入ってくれば、自分が、混ざる。


 混ざれば、自分でなくなる。


 ——でも。


 進めないことが、もう、わかっていた。


 息を、吸った。


 結界を、薄くした。




 外が、入ってきた。


 冷たかった。


 だが、痛みはなかった。


 痛みではない、別の何かだった。


 自分の輪郭が、ほどけていく感覚だった。


 ——保てない。


 そう、思った。


 だが、奥で、何かが、繋がっていた。


 ケイの背を、通って、ケイの中の繋がりに、繋がっていた。


 それが、自分を、引いていた。


 引かれた方向に、進んだ。


 結界が、薄くなったまま、形だけは、保った。


 流れに、混ざりながら、形は、保った。


 進んだ。


 向こう側に、何かが、見えた。


 近かった。


 近かったが、別の場所だった。


 寝台が、見えた。


 列の端は、見えなかった。


 その、一つの上に——


 誰かが、横たわっていた。


 背は、小さかった。


 金に近い茶色の髪が、枕の上に、広がっていた。


 ——あの人は、誰、ですか。


 声には、ならなかった。


 近づいた。


 ——あの人は、私、ですか。


 近づきながら、もう、わかっていた。


 近づいて——


 重なった。




 ケイは、左の手のひらの糸を、見ていた。


 糸は、震えていた。


 震え方が、強くなっていた。


 外へ、伸びていた。


「アリス」


 ケイが声に出した。


 返事はなかった。


 ケイの背に当たっていた手のひらが、ふっと、軽くなった。


 軽くなった、というよりも——なくなった。


 ケイは振り返った。


 誰もいなかった。


 礼服の裾の音もなかった。


 足音もなかった。


 気配もなかった。


 ケイの背に、温かさだけが、残った。


 ほんの、一瞬、残った。


 それから、消えた。


 ——温かい。


 声には出さなかった。


 それは、もう、過去の感覚だった。




 サトルが息を吐いた。


 吐いたことに、本人が気づいた様子だった。


 ジンが壁から完全に背を離した。


 刀の柄から、指は離さなかった。


 フウがケイの右側で、息を止めていた。


 止めていたことに、自分で気づいた。


 ゆっくり、吐いた。


 ケイは答えなかった。


 糸は、震えていた。


 外へ、伸びていた。


 ——通っている。


 それだけがわかった。


 外にアリスがいる。


 ここではない場所に、アリスがいる。


 ケイはその場所を知らなかった。




 灰色の部屋がある。


 天井は高くない。


 低くもない。


 継ぎ目のない、灰色。


 低い音が、空気の底を流れている。


 ファンのような音。


 風はなかった。


 寝台が並んでいる。


 列の端は見えない。


 一つの寝台の上に、白い衣に似たものを着た者が横たわっている。


 背は小さい。


 金に近い茶色の髪が、枕の上に広がっている。


 目が、開いた。


 ゆっくりだった。


 まばたきが、一度。


 それから、もう一度。


 天井が見えた。


 継ぎ目のない、灰色。


 目だけが動いた。


 頭は動かなかった。


 ——ここ、は。


 声にはならなかった。


 唇が開かなかった。


 舌が動かなかった。


 指を動かそうとした。


 動いた、気がした。


 だが、自分の指のはずなのに、自分の指のように動かなかった。


 胸が上下している。


 息はしている。


 息はしているが、息の仕方を、忘れているような感じがした。


 奥のほうで、何かが、代わりに、吸って、吐いていた。


 目を、横に動かした。


 寝台が並んでいた。


 隣にも、人がいた。


 目を閉じていた。


 胸がゆっくり上下していた。


 その隣にも、人がいた。


 その隣にも。


 その隣にも。


 列の端は見えなかった。


 ——誰、か。


 声にはならなかった。


 通路に、足音はなかった。


 近くに、人はいなかった。


 列の端まで、誰もいなかった。


 列の向こうの列にも、誰もいなかった。


 低い音が、空気の底を流れていた。


 ファンのような音。


 ずっと続いていた。


 誰も、来なかった。


 目は開いていた。


 体は動かなかった。


 長い時間だった。


 時間だったのかも、わからなかった。


 目だけが、開いていた。


 低い音が、続いていた。


 寝台の列は、変わらなかった。


 通路は、変わらなかった。


 何も、変わらなかった。


 ただ、目だけが、開いていた。


次回から第3章となります。

ここまで伏せてきた設定を徐々に明らかにしていく予定です。

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