Episode 34|目覚め
◆
その日の朝も、アリスは早く目を覚ました。
夢を、覚えていた。
覚えていたが、思い出せなかった。
冷たい場所。
金属の音。
横たわる、誰か。
ここまでが、ここ数日の決まりだった。
だが今朝は——もう一つだけ、覚えていた。
——指が、動いた。
自分の指ではない。
だが自分の指のような気もした。
寝台の縁に手を置いた。
指先は震えていなかった。
身を起こした。
◆
執務室に入ると、ミアはすでに机の前にいた。
「アリス様、おはようございます」
頭を下げた。
昨日より、深く下げた気がした。
「ミア」
「はい」
「今日は、少し、長い話をします」
ミアの顔が、上がった。
「はい」
アリスは机に向かった。
机の引き出しから、薄い紙の束を取り出した。
祈祷の文言を書き写したものだった。
アリスが自分で写したものだ。
何度も使ったのか、紙の縁が、わずかに丸くなっていた。
誰にも、見せたことはなかった。
ミアの前に、置いた。
「これを、預けます」
「……はい」
「午後の祈祷から、これを使ってください」
「アリス様の、写し、ですか」
「はい」
「私の、ものとして、使うのですか」
「いいえ」
アリスは少し、間を置いた。
「私のものとして、声に、出してください」
ミアの目が、紙に落ちた。
落ちたまま、しばらく動かなかった。
「私の——声で、ですか」
「はい」
ミアは紙を見ていた。
紙を見ながら、息を、一度、吸った。
それから、紙の縁を、両手で、揃えた。
「お預かりします」
ミアが言った。
声が、いつもより、低かった。
「……はい」
アリスが頷いた。
「しばらく、というのは」
「私が戻るまで、です」
「……いつ、お戻りに」
アリスは答えなかった。
正確には、答えられなかった。
「私で、大丈夫でしょうか」
ミアがいつも言う言葉だった。
今日は、それが、出なかった。
紙の縁を、もう一度、揃える音がした。
「私で、やります」
——「大丈夫でしょうか」が「やります」に、なっていた。
ミアの中で、言葉が、変わっていた。
アリスはそれを聞いた。
聞いたあと、しばらく、何も言わなかった。
退出のとき、扉のところで、一度、振り返った。
ミアは机の前に立っていた。
紙の上に、両手を置いていた。
背中が、いつもより、まっすぐだった。
◆
工房の扉を開けると、四人がいた。
ケイは椅子に座っていた。
机の上には何もなかった。
机の上に置けるものではなかった。
イブの糸はケイの手のひらの上にあった。
青白く震えていた。
「お待たせ、しました」
アリスが言った。
ジンは壁に背を預けていた。
フウは机の端に腰掛けていた。
サトルは机の向こう側に立っていた。
「アリス様」
サトルが言った。
「ひとつ、確認させてください」
「はい」
「向こう側で、何が、起きるか、わかりますか」
「わかりません」
「結界を、張って、行きます」
サトルは頷かなかった。
眼鏡の縁に、指を、置いたままだった。
少し、間があった。
「……どうか、ご無事で」
サトルが言った。
短かった。
サトルにしては、短かった。
「ありがとうございます」
アリスが答えた。
ジンが、壁から、わずかに背を離した。
何も言わなかった。
言わないことが、何かを言っているように、見えた。
フウが机の上から、ケイの手のひらの方に、目を向けていた。
何かがそこにあるのは、わかっているような顔だった。
「イブの……いる?」
「ああ」
「ここに、いる」
「ああ」
フウは自分の手のひらを見た。
それから、首の後ろに触れた。
「わたしの中の、線は」
「ある」
ケイが言った。
「だが、お前は何もしなくていい」
「うん」
フウは頷いた。
頷いた指は、首の後ろから、離れた。
◆
ケイが立ち上がった。
椅子が後ろに引かれた。
机の脇に立った。
フウが隣に来た。
ケイの右側に立った。
ケイは左の手のひらを、軽く開いた。
糸が震えた。
強くは握らなかった。
右の手のひらを、フウの背に、置いた。
フウは動かなかった。
「アリス」
ケイが言った。
「俺の背に、両手を、置け」
アリスがケイの後ろに回った。
礼服の裾が、わずかに揺れた。
アリスの手が、ケイの背に置かれた。
軽かった。
重さはなかった。
「そこから、入れ」
「はい」
「俺を、通って、外へ出ろ」
「はい」
アリスが息を吸った。
両手をケイの背に置いたまま、目を、閉じた。
空気が変わった。
工房の中の空気が、アリスの周りで、形を持った。
見えるわけではなかった。
だが、肌がそれを知った。
「行ってこい」
ケイが言った。
短かった。
それだけだった。
◆
アリスは、息を、吸った。
ケイの背に置いた手のひらから、熱が、伝わった。
ふだんの人の体温では、なかった。
何かが、ケイの中に、流れているのが、わかった。
結界を、張った。
ふだんと、同じように。
外を、遮るように。
それから、ケイの背に、押した。
押した、というよりも、流れに、沿った。
ケイの背の中に、入った。
抵抗は、なかった。
ケイの体は、扉のように、開いた。
通り抜けていく感覚だった。
そこまでは、早かった。
問題は、そこからだった。
◆
ケイの中を抜けたあと、アリスは、別の場所にいた。
工房ではなかった。
机もなかった。
人もいなかった。
空気でも、なかった。
何か、流れているもの、の中にいた。
光の筋が、いくつも、自分の脇を、流れていった。
色は、ない。
だが、輪郭は、ある。
触れることのできない、線だった。
一筋ずつが、別の方向に、向かっていた。
ふだんの結界が、外を、遮っていた。
遮ったまま、進もうとした。
進めなかった。
何かが、押し返してきた。
外側からだった。
結界が、ふくらんだ。
ふくらんだあと、戻りきらなかった。
「——」
声にならない音を、漏らした。
膝が、わずかに、落ちた。
落ちたが、支えるものはなかった。
ここには、地面もなかった。
——重い。
息を、吸おうとした。
吸えなかった。
そのとき、声が、聞こえた。
「アリス」
ケイの声だった。
遠くから、聞こえていた。
だが、はっきりしていた。
「結界を、薄くしろ」
「……薄く、ですか」
「外を、入れろ」
アリスは、迷った。
結界を薄くすれば、外が、入ってくる。
外が、入ってくれば、自分が、混ざる。
混ざれば、自分でなくなる。
——でも。
進めないことが、もう、わかっていた。
息を、吸った。
結界を、薄くした。
◆
外が、入ってきた。
冷たかった。
だが、痛みはなかった。
痛みではない、別の何かだった。
自分の輪郭が、ほどけていく感覚だった。
——保てない。
そう、思った。
だが、奥で、何かが、繋がっていた。
ケイの背を、通って、ケイの中の繋がりに、繋がっていた。
それが、自分を、引いていた。
引かれた方向に、進んだ。
結界が、薄くなったまま、形だけは、保った。
流れに、混ざりながら、形は、保った。
進んだ。
向こう側に、何かが、見えた。
近かった。
近かったが、別の場所だった。
寝台が、見えた。
列の端は、見えなかった。
その、一つの上に——
誰かが、横たわっていた。
背は、小さかった。
金に近い茶色の髪が、枕の上に、広がっていた。
——あの人は、誰、ですか。
声には、ならなかった。
近づいた。
——あの人は、私、ですか。
近づきながら、もう、わかっていた。
近づいて——
重なった。
◆
ケイは、左の手のひらの糸を、見ていた。
糸は、震えていた。
震え方が、強くなっていた。
外へ、伸びていた。
「アリス」
ケイが声に出した。
返事はなかった。
ケイの背に当たっていた手のひらが、ふっと、軽くなった。
軽くなった、というよりも——なくなった。
ケイは振り返った。
誰もいなかった。
礼服の裾の音もなかった。
足音もなかった。
気配もなかった。
ケイの背に、温かさだけが、残った。
ほんの、一瞬、残った。
それから、消えた。
——温かい。
声には出さなかった。
それは、もう、過去の感覚だった。
◆
サトルが息を吐いた。
吐いたことに、本人が気づいた様子だった。
ジンが壁から完全に背を離した。
刀の柄から、指は離さなかった。
フウがケイの右側で、息を止めていた。
止めていたことに、自分で気づいた。
ゆっくり、吐いた。
ケイは答えなかった。
糸は、震えていた。
外へ、伸びていた。
——通っている。
それだけがわかった。
外にアリスがいる。
ここではない場所に、アリスがいる。
ケイはその場所を知らなかった。
■
灰色の部屋がある。
天井は高くない。
低くもない。
継ぎ目のない、灰色。
低い音が、空気の底を流れている。
ファンのような音。
風はなかった。
寝台が並んでいる。
列の端は見えない。
一つの寝台の上に、白い衣に似たものを着た者が横たわっている。
背は小さい。
金に近い茶色の髪が、枕の上に広がっている。
目が、開いた。
ゆっくりだった。
まばたきが、一度。
それから、もう一度。
天井が見えた。
継ぎ目のない、灰色。
目だけが動いた。
頭は動かなかった。
——ここ、は。
声にはならなかった。
唇が開かなかった。
舌が動かなかった。
指を動かそうとした。
動いた、気がした。
だが、自分の指のはずなのに、自分の指のように動かなかった。
胸が上下している。
息はしている。
息はしているが、息の仕方を、忘れているような感じがした。
奥のほうで、何かが、代わりに、吸って、吐いていた。
目を、横に動かした。
寝台が並んでいた。
隣にも、人がいた。
目を閉じていた。
胸がゆっくり上下していた。
その隣にも、人がいた。
その隣にも。
その隣にも。
列の端は見えなかった。
——誰、か。
声にはならなかった。
通路に、足音はなかった。
近くに、人はいなかった。
列の端まで、誰もいなかった。
列の向こうの列にも、誰もいなかった。
低い音が、空気の底を流れていた。
ファンのような音。
ずっと続いていた。
誰も、来なかった。
目は開いていた。
体は動かなかった。
長い時間だった。
時間だったのかも、わからなかった。
目だけが、開いていた。
低い音が、続いていた。
寝台の列は、変わらなかった。
通路は、変わらなかった。
何も、変わらなかった。
ただ、目だけが、開いていた。
次回から第3章となります。
ここまで伏せてきた設定を徐々に明らかにしていく予定です。
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