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Episode 33|夢


 同じ朝のことだった。


 ケイたちが食堂に集まる、少し前。


 アリスが目を覚ました。


 息が、浅かった。


 夢を覚えていた。


 覚えていたが、思い出せなかった。


 冷たい場所。


 金属の音。


 横たわる、誰か。


 そこまでで、輪郭がほどけた。


 ほどけたあと、しばらく天井を見ていた。


 ——またですか。


 声には出さなかった。


 ずっと前から見ていた。


 でも、夢だと、思っていた。


 あの朝から、はっきりするようになった。


 寝台の縁に手を置いた。


 神殿の朝の冷たさを知っている。


 だが、夢の中の冷たさは——それと違った。


 身を起こした。


 礼服に手を伸ばした。


 指先がわずかに震えた。




 神殿の朝の祈祷。


 唇は文言を辿っていた。


 頭の奥は、別のことを辿っていた。


 ——あの朝から、続いている。


 答えを、考えなかった。


 文言を半分ほど終えたところで、視界がふいに二重になった。


 石の床の冷たさ。


 別の冷たさ。


 膝の下に、両方があった。


 息を止めた。


 それから、もう一度、文言を辿りはじめた。


 文言の中身は、覚えていなかった。




 夢で何度も見た景色だった。


 灰色の部屋がある。


 天井は高くない。


 低くもない。


 継ぎ目のない、灰色。


 低い音が、空気の底を流れている。


 ファンのような音。


 だが、風はなかった。


 寝台が並んでいた。


 一列ではない。


 いくつかの列がある。


 列の端は、見えない。


 寝台の上に人がいる。


 目を閉じている。


 胸がゆっくり上下している。


 誰も起きていない。


 誰も歩いていない。


 誰も見ていない。


 通路に、足音はなかった。




 執務室に入ると、ミアが立ち上がった。


「アリス様。おはようございます」


 頭を下げた。


 そのまま、止まった。


 顔を上げて、もう一度、アリスを見た。


「あの——」


 ミアが言った。


 言いかけて、口を閉じた。


 それから、また、開いた。


「お顔の色が」


「少し、眠れなかっただけです」


 アリスは机に向かった。


 書類の束に手を伸ばした。


 ミアがためらった一拍のあと、後ろに控えた。


「アリス様」


「はい」


「祈祷の間、文言が、一度、止まりました」


 ミアの声は小さかった。


「私の、聞き違いでしょうか」


 書類の上の指が止まった。


 止まったことを、ミアは見ていた。


「聞き違いではありません」


「……はい」


「今日は、もう、止まりません」


 ミアの返事はなかった。


 代わりに、紙の縁を指で揃える音がした。




 書類の二枚目を開いた。


 今週の業務記録。


 文字は目に入っていた。


 意味は入ってこなかった。


 ——今朝も、見えた。


 ——以前より、はっきりと。


 イブの告白の朝、サトルが言った。


「寝台に横たわったまま暮らす人たち——それは、私たちのことですか」と。


 そのとき、自分は驚かなかった。


 誰も、それに触れなかった。


 書類を、閉じた。




 夢の続きだった。


 寝台の列の端に、古いものがある。


 継ぎ目の周りに、薄い擦れ。


 別の列の端は、新しい。


 寝台の足元がまだ光っている。


 通路の床に、ほこりはなかった。


 ほこりが積もる場所では、なかった。




 執務を終えて、外に出た。


 ミアは「お疲れ様でした」と頭を下げた。


 アリスは「午後の祈祷は、戻ってから」と短く答えた。


 ミアの口から「私で、大丈夫でしょうか」という言葉は、出なかった。


 石畳を歩いた。


 人の声がする。


 馬車の音。


 鍛冶屋の槌の音。


 朝の街の音だった。


 聞き慣れた音だった。


 歩きながら、頭の奥で言葉が浮かんだ。


 ——やっと、ですね。


 声には出さなかった。


 何が「やっと」なのか。


 わからなかった。


 わからないのに、その言葉だけがはっきりしていた。


 足が止まった。


 長く待っていた気がした。


 ずっと前から。


 何を待っていたのか、それもわからなかった。


 ただ「ここではない場所」に、自分の何かがある。


 その感覚はずっとあった。


 夢だと、思っていた。


 イブの告白を聞いた朝から、夢ではないのかもしれないと思いはじめた。


 思いはじめてから、毎日、夢を見るようになった。


 ——夢、ではないのかもしれない。


 足を踏み出した。


 食堂のある建物が見えてきた。




 食堂の扉の前で、一度、止まった。


 扉の向こうから声がする。


 ケイの声だった。


 何かを言っていた。


 言葉までは聞き取れなかった。


 扉の縁に指を置いた。


 押そうとして、押さなかった。


 ——話の途中だ。


 聞き耳を立てるためではなかった。


 扉を開けたあとの自分を、整えるためだった。


 午前の祈祷の文言が、まだ、頭の中に残っていた。


 それをしまう時間が、ほしかった。


 息を吸った。


 吐いた。


 中で、フウの声がした。


「ケイが、使うなら、いいよ」


 それから、ケイの声。短かった。


 アリスは扉を、押した。




 ケイがいた。


 フウがいた。


 ジンが、サトルが、いた。


 イブの席は、空のままだった。


 ——昨日、自分が認めた席だ。


「お話、終わりましたか」


 四人を順に見た。


 ケイの目が、一度、こちらに止まった。


 ジンが、膝の上の刀の柄から、指を離した。


 サトルが、眼鏡の縁に触れた。


 フウが、椀を両手で持ち直した。


 ケイがアリスを見た。


「アリス。外に出る道ができる」


 その言葉が、耳に入った。


 入ったあと、ほんの一拍。


 ——外に、出る。


 頭の奥に、ずっとあった「ここではない場所」が、輪郭を持った。


 夢の中で見ていた灰色の部屋。


 並んでいた寝台。


 そこに、自分が、いる。


 ずっと、いた。


 戻る、ということ。


 扉の縁に、まだ指を添えていた。


 押すために添えた指が、今は、自分を支えるために、そこにあった。


「……私が、ですか」


 聞いた。


 聞いたあとで、自分の声を聞いた。


 驚いた声ではなかった。


 確認する声でも、なかった。


 ——私が、行く。


 そうなることが、長く決まっていたような声だった。


「ああ。流れの中で身を守れるのは、お前だけだ」


 ケイが言った。


 アリスの指が、扉の縁から離れた。


「外に出て、何を」


 聞いた。


 ケイは少し、迷ったようだった。それから、隠さずに言った。


「これを仕組んだ者の正体を掴む。そして、ここから皆を出す道を探す」


 皆を。


 その言葉が、胸の奥に落ちた。


 夢の中の、並んだ寝台。同じ息で生かされている人たち。あの人たちも、ここではない場所に、本当の体があるのだろうか。


 わからなかった。


 だが、ケイが「皆」と言ったとき、その中に自分も、あの寝台の人たちも、入っているのだと思った。


 頷いた。


 聖詔者の頷き方ではなかった。


 それから、小さく言った。


「やっと、ですね」


 言ったあと、それを、自分でも聞いた。


 ——やっと、何が、なのか。


 問いは、出た。


 だが、答えを、考えなかった。


 考えなくても、その言葉が自分の口から出たという事実だけが残った。


 それで、十分だった。


 ケイは答えなかった。


 アリスは、それも、わかっていた。




 灰色の部屋がある。


 寝台の列がある。


 人が並んでいる。


 胸がゆっくり上下している。


 一つの寝台。


 その上に、白い衣に似たものを着た者が横たわっている。


 背は小さい。


 金に近い茶色の髪が、枕の上に広がっている。


 目は閉じている。


 胸が、上下している。


 その指先が、一度、わずかに動いた。


 通路に、足音はなかった。


 近くに、人はいなかった。


 列の端まで、誰もいなかった。


 列の向こうの列にも、誰もいなかった。


 低い音が、空気の底を流れていた。


 ファンのような音。


 ずっと続いていた。


 誰も、見ていなかった。


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