Episode 33|夢
◆
同じ朝のことだった。
ケイたちが食堂に集まる、少し前。
アリスが目を覚ました。
息が、浅かった。
夢を覚えていた。
覚えていたが、思い出せなかった。
冷たい場所。
金属の音。
横たわる、誰か。
そこまでで、輪郭がほどけた。
ほどけたあと、しばらく天井を見ていた。
——またですか。
声には出さなかった。
ずっと前から見ていた。
でも、夢だと、思っていた。
あの朝から、はっきりするようになった。
寝台の縁に手を置いた。
神殿の朝の冷たさを知っている。
だが、夢の中の冷たさは——それと違った。
身を起こした。
礼服に手を伸ばした。
指先がわずかに震えた。
◆
神殿の朝の祈祷。
唇は文言を辿っていた。
頭の奥は、別のことを辿っていた。
——あの朝から、続いている。
答えを、考えなかった。
文言を半分ほど終えたところで、視界がふいに二重になった。
石の床の冷たさ。
別の冷たさ。
膝の下に、両方があった。
息を止めた。
それから、もう一度、文言を辿りはじめた。
文言の中身は、覚えていなかった。
■
夢で何度も見た景色だった。
灰色の部屋がある。
天井は高くない。
低くもない。
継ぎ目のない、灰色。
低い音が、空気の底を流れている。
ファンのような音。
だが、風はなかった。
寝台が並んでいた。
一列ではない。
いくつかの列がある。
列の端は、見えない。
寝台の上に人がいる。
目を閉じている。
胸がゆっくり上下している。
誰も起きていない。
誰も歩いていない。
誰も見ていない。
通路に、足音はなかった。
◆
執務室に入ると、ミアが立ち上がった。
「アリス様。おはようございます」
頭を下げた。
そのまま、止まった。
顔を上げて、もう一度、アリスを見た。
「あの——」
ミアが言った。
言いかけて、口を閉じた。
それから、また、開いた。
「お顔の色が」
「少し、眠れなかっただけです」
アリスは机に向かった。
書類の束に手を伸ばした。
ミアがためらった一拍のあと、後ろに控えた。
「アリス様」
「はい」
「祈祷の間、文言が、一度、止まりました」
ミアの声は小さかった。
「私の、聞き違いでしょうか」
書類の上の指が止まった。
止まったことを、ミアは見ていた。
「聞き違いではありません」
「……はい」
「今日は、もう、止まりません」
ミアの返事はなかった。
代わりに、紙の縁を指で揃える音がした。
◆
書類の二枚目を開いた。
今週の業務記録。
文字は目に入っていた。
意味は入ってこなかった。
——今朝も、見えた。
——以前より、はっきりと。
イブの告白の朝、サトルが言った。
「寝台に横たわったまま暮らす人たち——それは、私たちのことですか」と。
そのとき、自分は驚かなかった。
誰も、それに触れなかった。
書類を、閉じた。
■
夢の続きだった。
寝台の列の端に、古いものがある。
継ぎ目の周りに、薄い擦れ。
別の列の端は、新しい。
寝台の足元がまだ光っている。
通路の床に、ほこりはなかった。
ほこりが積もる場所では、なかった。
◆
執務を終えて、外に出た。
ミアは「お疲れ様でした」と頭を下げた。
アリスは「午後の祈祷は、戻ってから」と短く答えた。
ミアの口から「私で、大丈夫でしょうか」という言葉は、出なかった。
石畳を歩いた。
人の声がする。
馬車の音。
鍛冶屋の槌の音。
朝の街の音だった。
聞き慣れた音だった。
歩きながら、頭の奥で言葉が浮かんだ。
——やっと、ですね。
声には出さなかった。
何が「やっと」なのか。
わからなかった。
わからないのに、その言葉だけがはっきりしていた。
足が止まった。
長く待っていた気がした。
ずっと前から。
何を待っていたのか、それもわからなかった。
ただ「ここではない場所」に、自分の何かがある。
その感覚はずっとあった。
夢だと、思っていた。
イブの告白を聞いた朝から、夢ではないのかもしれないと思いはじめた。
思いはじめてから、毎日、夢を見るようになった。
——夢、ではないのかもしれない。
足を踏み出した。
食堂のある建物が見えてきた。
◆
食堂の扉の前で、一度、止まった。
扉の向こうから声がする。
ケイの声だった。
何かを言っていた。
言葉までは聞き取れなかった。
扉の縁に指を置いた。
押そうとして、押さなかった。
——話の途中だ。
聞き耳を立てるためではなかった。
扉を開けたあとの自分を、整えるためだった。
午前の祈祷の文言が、まだ、頭の中に残っていた。
それをしまう時間が、ほしかった。
息を吸った。
吐いた。
中で、フウの声がした。
「ケイが、使うなら、いいよ」
それから、ケイの声。短かった。
アリスは扉を、押した。
◆
ケイがいた。
フウがいた。
ジンが、サトルが、いた。
イブの席は、空のままだった。
——昨日、自分が認めた席だ。
「お話、終わりましたか」
四人を順に見た。
ケイの目が、一度、こちらに止まった。
ジンが、膝の上の刀の柄から、指を離した。
サトルが、眼鏡の縁に触れた。
フウが、椀を両手で持ち直した。
ケイがアリスを見た。
「アリス。外に出る道ができる」
その言葉が、耳に入った。
入ったあと、ほんの一拍。
——外に、出る。
頭の奥に、ずっとあった「ここではない場所」が、輪郭を持った。
夢の中で見ていた灰色の部屋。
並んでいた寝台。
そこに、自分が、いる。
ずっと、いた。
戻る、ということ。
扉の縁に、まだ指を添えていた。
押すために添えた指が、今は、自分を支えるために、そこにあった。
「……私が、ですか」
聞いた。
聞いたあとで、自分の声を聞いた。
驚いた声ではなかった。
確認する声でも、なかった。
——私が、行く。
そうなることが、長く決まっていたような声だった。
「ああ。流れの中で身を守れるのは、お前だけだ」
ケイが言った。
アリスの指が、扉の縁から離れた。
「外に出て、何を」
聞いた。
ケイは少し、迷ったようだった。それから、隠さずに言った。
「これを仕組んだ者の正体を掴む。そして、ここから皆を出す道を探す」
皆を。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
夢の中の、並んだ寝台。同じ息で生かされている人たち。あの人たちも、ここではない場所に、本当の体があるのだろうか。
わからなかった。
だが、ケイが「皆」と言ったとき、その中に自分も、あの寝台の人たちも、入っているのだと思った。
頷いた。
聖詔者の頷き方ではなかった。
それから、小さく言った。
「やっと、ですね」
言ったあと、それを、自分でも聞いた。
——やっと、何が、なのか。
問いは、出た。
だが、答えを、考えなかった。
考えなくても、その言葉が自分の口から出たという事実だけが残った。
それで、十分だった。
ケイは答えなかった。
アリスは、それも、わかっていた。
■
灰色の部屋がある。
寝台の列がある。
人が並んでいる。
胸がゆっくり上下している。
一つの寝台。
その上に、白い衣に似たものを着た者が横たわっている。
背は小さい。
金に近い茶色の髪が、枕の上に広がっている。
目は閉じている。
胸が、上下している。
その指先が、一度、わずかに動いた。
通路に、足音はなかった。
近くに、人はいなかった。
列の端まで、誰もいなかった。
列の向こうの列にも、誰もいなかった。
低い音が、空気の底を流れていた。
ファンのような音。
ずっと続いていた。
誰も、見ていなかった。




