Episode 32|糸
◆
食堂の扉を押した。
声が流れ込んでこなかった。
いつもなら、扉の前で、フウの笑い声が届く。今朝は椀を置く音だけだった。
中に入った。三人いた。ジン、サトル、フウ。
長机の端に、空いた席があった。
誰もそこに盆を置かなかった。座面にへこみがない。木の色だけが、ほかより少し新しく見えた。
イブが座っていた場所だ。
フウは椀の中を見ていた。スプーンを握ったまま動かさなかった。
サトルが眼鏡に指を伸ばした。途中で止めた。
ジンは壁に背を預けていた。刀を膝の上に置いていた。
ケイは盆を置いた。イブの席ではない、いつもの場所に。
右の手のひらを膝の上で開いた。
そこに一本の糸があった。
蜘蛛の糸より細い。青白く透けている。光を吸わず、自分から淡く震えていた。手のひらに収まる長さに見えたが、引こうとすると終わりが来ない。
ほかの誰にも見えていなかった。サトルもフウもジンも、ケイの手元を見ても何もないと思っているはずだ。
イブが最後に置いていったものだ。
消える瞬間、ケイの手のひらに何かが乗った気がした。気がしただけだった。だが朝になっても、まだそこにあった。
色がイブの目の色に似ていた。
握っても重さはない。指先に震えだけが伝わってくる。
「ケイ」
フウが顔を上げた。
「イブ、どこ行ったの」
スプーンが椀の縁に当たった。小さな音。
「ばいばい、してないよ。わたし」
部屋が静かだった。
ケイは答えなかった。答えを持っていなかった。
サトルが口を開いた。
「フウちゃん。イブさんは——」
そこで止まった。眼鏡の縁を一度押し上げた。続きは出てこなかった。
ジンが低く言った。
「あいつは、自分で道を閉じた」
それだけだった。
膝の上の刀の柄に、指先が、一度だけ触れた。それから、離した。
フウを見て、もう一度、椀に視線を戻した。
ケイは糸をもう一度握った。
握ると、遠くで何かが鳴った。声ではない。意味でもない。ただ震えだけが、指の腹から胸へ伝った。ゆっくりと。
——これが、どこに繋がっている。
昨日は考えなかった。今日は考えなければならない。
ケイは立ち上がった。
「サトル。工房を借りる」
◆
サトルの工房。
机の上には、いつも魔法陣が一つ灯っている。サトルが何年も前に組んだものだ。明かりの代わりに置いてあり、ケイは消えたところを見たことがない。
ケイは椅子に座った。糸を左の手のひらに置いた。揺れも転がりもせず、そこに残った。
「ケイ君。何が、見えてる?」
サトルが向かいの椅子に座った。
「糸だ」とケイは言った。
「糸——どこに」
「俺の手の上に」
サトルは目を細めた。手のひらを見て、それからケイの目を見た。
「私には、見えません」
「ああ」
「ケイ君にだけ、ですか」
「たぶん」
ケイは目を閉じた。
息を吐いた。長く、ゆっくり。
魔法陣を読むときと、同じ手順だった。
肉体は動かさない。意識を、構造の上に乗せる。
ただ、今日は陣ではない。一本の糸だ。
右の指で、糸をつまんだ。
震えが指の腹に届いた。
その震えに、意識を合わせた。
——乗った。
意識が糸の上を滑っていく感覚があった。
体は椅子に残っている。視界だけが、糸の通り道を辿る。チップ通信で誰かの視界に図が開く——あの感覚に近い。だが、もっと細い。線の上を点が一つ、進んでいく。
糸の周りに光があった。
無数の細い流れの束。それぞれが別の方向に進み、別のところに繋がっている。サトルとの会話、フウの笑い声、ジンの刀の重み。日々、流れている。
糸はその束の中を貫いていた。
束のどれにも触れず、ただまっすぐ、外へ伸びていく。
——流れの、外へ向かっている。
ケイは昨日、それを知った。流れには、外がある。
流れ——この世界そのものを動かしている、目に見えない仕組み。空気のように、ずっとそこにある。誰もそれを意識せずに生きている。
その流れには、向こう側がある。回収部隊は、そこから書き込まれてきた。糸はそこへ伸びていた。
外の声が聞こえた気がした。
昨日と同じだ。届かない。
——こちらから、何かを送り出すには、足りない。
ケイはもう一段、深く読んだ。
呼吸が浅くなった。指先が冷たくなる。頭の奥がひとつ痛んだ。
そのとき、気づいた。
糸の途中に、別のものが絡んでいた。
——もう一本ある。
イブの糸ではない。色が違う。震えていない。
鈍く濁った灰色だった。指先で触れると、冷たかった。震えが返ってこない。死んだものに触れている感触に近い。
ずっと前からそこにあった。動かず、ただ置かれていた。
ケイは意識を引き戻した。
糸の先まで伸ばしていた意識を、肉体に、無理やり戻す。
細い針の穴に、丸めた糸を一気に通す感覚。
息が、戻ってきた。
——ぶは。
止めていた呼吸が一度に噴き出した。肺が空気を求めて、何度も繰り返し吸い込もうとした。追いつかなかった。
椅子の背に体が倒れ込んだ。額の汗がひと粒、机の上に落ちた。
視界が揺れた。手のひらの上の糸が、二重に見えた。
指先は冷たいまま、感覚が戻ってこなかった。
「ケイ君!」
サトルの声が遠かった。耳の奥に膜が一枚張ったような聞こえ方だった。
「ケイ君、医者を——」
「いい」
ケイは言った。自分の声が他人の声のように聞こえた。
「水を、くれ」
サトルが慌てて水差しを取った。木のコップに水を注ぐ手が震えていた。
ケイはコップを受け取った。受け取った瞬間、自分の指も震えていることに気づいた。
水を口に含んだ。冷たかった。喉の奥に、戻ってきた感覚があった。
「サトル。流れの中に、もう一本ある」
息がまだ整わない。声が短く切れた。
「もう一本」
「イブの糸とは別だ。古い。ずっと前から繋がっている」
「ケイ君、それは——」
「外から、こちらへ伸びている。誰かが書き込んでくる側だ」
ケイは指先で虚空を短く撫でた。視界に図を開く。サトルの視界にも同じものが届いているはずだ。
二本の線。
細く青白く震える線——イブの糸。外へ伸びている。
太く灰色で動かない線——もう一本。外から、こちらへ伸びている。
「これは、外への通路じゃない。外からの覗き穴だ」
——誰かがずっと使っていた。イブよりも、前から。
「ケイ君、いま潜るのは——」
「だが、こちら側の端を見ないと、誰だかわからない」
ケイはコップを置いた。
息を整えた。整いきらないまま、もう一度、目を閉じた。
今度は、灰色の線に意識を合わせる。
イブの糸のときと、違った。
震えは返らなかった。指で触れた感覚だけを頼りに、線の上を進んでいく。冷たい。指がしびれる。
線は自分から動かない。流れに乗らないから、こちらが歩いて辿るしかなかった。
一歩進むごとに、線の冷たさが、指の奥まで届いた。
視界が王宮の中を抜けていった。
工房の壁。廊下の床。天井の梁。食堂の入り口。長机の上。
線は長机を越え、向こう側に伸びていた。
ある場所で、止まった。
止まった先に、誰かがいた。
線はその人の輪郭の内側に、深く巻かれていた。本人は気づいていない。眠っているわけでもない。今、近くにいる。すぐ、そこに。
ケイはもう一段、近づいた。
——見えた。
その瞬間、線の冷たさが肘まで上がってきた。引き戻された。意識が、肉体に、叩き込まれた。
二度目の戻りは、重かった。
椅子の背に、体重が叩きつけられた。喉の奥がひりついた。
頭の奥の痛みが、ひとつから、ふたつに増えていた。
サトルの声は、今度はもう、聞こえなかった。
ケイは息を整えた。
整わなかった。それでも、立った。
「サトル」
「ええ」
「食堂に、戻る」
工房の扉に、手をかけた。
止まった先にいたのは——
◆
フウだった。
工房を出た。廊下を歩いた。足がいつもより重かった。一歩踏み出すごとに、視界がわずかに揺れた。それでも、止まらなかった。
食堂に戻った。
フウはまだ椀の前にいた。スプーンは、もう置かれていた。
ケイはフウの隣に座った。座る瞬間、息がまた切れた。
ジンが壁から背を離した。サトルが入口で止まった。
「フウ」
「なに?」
フウがこちらを向いた。黒い髪が肩で揺れた。
ケイは少しのあいだ黙っていた。
言葉を選んだ。選んでも、軽くはならなかった。
「怖いことを聞く」
「うん」
フウは笑っていた。怖い、という言葉の意味が届いていないように見えた。
「お前の中に、誰かが隠れていた」
フウの目がケイを見た。
椀の中ではない。スプーンでもない。ケイをまっすぐ見ていた。
部屋が静かだった。
「……ずっと?」
「たぶん、ずっとだ」
「わたしが、ここに来たときから?」
「ああ。たぶん、最初からだ」
フウは自分の胸に手を当てた。とん、と。確かめるように。
それから首の後ろに手をやった。チップがあるとされる場所。何もなかった。
「フウ」
ケイは続けた。
「お前の中にいたのは、外の誰かだ。顔も名前も、わからない」
フウは胸に当てた手を、そのままにしていた。何かを、思い出そうとしている顔だった。
「……ねえ、ケイ」
「ああ」
「わたし、ときどき、思ってたことがあるの」
「言ってくれ」
「胸の中に、勝手に、ある感じ。自分のじゃない感じ」
フウは胸の手を、握りしめた。
「……だから、ね」
ゆっくり、言った。
「初めて会ったとき、『また』って、言ったんだ。わたし」
ケイは息を止めた。
初めて会った日のこと。「また、転移してきたね」。あの「また」。
ずっと引っかかっていた。
「わたし、知ってたんだ。ケイのこと。会う前から」
フウの声は震えていなかった。
「でも、どこで知ったか、わかんなかった。胸の中に、勝手にあったの。会ったこともないのに、知ってる感じ」
ケイは、自分の手のひらを見た。糸はもう見えない。だが、感覚は残っていた。
——そういうことか。
ケイは言葉を組み立てた。フウの言葉を、ひとつずつ、翻訳するように。
「フウ。お前の中にあった『知ってる感じ』は、お前のものじゃない」
「うん」
「お前の中にいた、外の誰かのものだ。その誰かが知っていた感覚が、お前にも漏れていた」
「漏れて、た?」
「ああ。お前は、自分の感覚だと思っていた。だが違う。外の誰かの感覚が、お前の中に、ずっと流れ込んでいたんだ」
フウは、ゆっくり、頷いた。胸の手を、下ろした。
ケイはさらに、組み立てた。
「お前が会う前から俺を知っていたなら——その誰かは、俺のことを、ずっと前から知っていたことになる」
ジンが、ケイを見た。
サトルが入口で、息を止めていた。
「俺がここに来るより、前からだ」とケイは続けた。
「その誰かは、俺がここに来てからは、お前の目を借りて、俺を見ていた。お前の耳を借りて、俺の声を聞いていた」
「わたしの……目?」
「ああ。お前は気づいていなかった。だが、その誰かはお前の中から、俺をずっと観察していた」
フウは頷いた。一度。ゆっくり、もう一度。
それから自分の胸に手を当てた。とん、と。さっきと同じ場所だった。
今度は、すぐに離さなかった。手のひらを当てたまま、しばらく、置いていた。
唇が、一度、結ばれた。
それからケイを見て、言った。
「ケイが、追い出してくれる?」
ケイはすぐには答えなかった。
追い出す。それはできる。覗き穴を塞ぐ。フウの中から、外の手を断つ。
だが——
「ああ」
ケイは言った。
「でも、その前に、少しだけ使わせてくれ」
「使う?」
「お前の中の、その通路を。一度だけ」
フウはケイを見ていた。
怖がっていなかった。疑ってもいなかった。
「うん」
フウは言った。
「ケイが使うなら、いいよ」
ケイはフウの頭に手を置こうとした。
途中で止めた。手を膝に戻した。
——軽く受け取った。軽く受け取れることが、いちばん重い。
◆
「サトル」
ケイは立ち上がった。
「三つ、揃う」
サトルが入口から机に近づいた。
「三つ」
「イブの糸。フウの覗き穴。それと、繋ぐ俺だ」
ケイは手のひらを開いた。糸が震えていた。
「イブの糸は、外を読む。読み取りだけだ。こちらから外の声は聞こえる。だが、こちらの声は届かない」
「ええ」
「フウの覗き穴は逆だ。外から、こちらへ。書き込む側だ。外の誰かが、フウを通して、こちらにものを送り込んでいた」
サトルの眼鏡が明かりを反射した。
「片方は読むだけ。片方は書くだけ。別々なら、どちらも半分だ」
ケイは二本の線を図に描いた。細い線と、太い線。
「だが、繋げば」
ケイは二本の線の端を重ねた。
「読んで、書ける。双方向になる」
サトルが息を吸った。
「双方向——それは」
「外と、こちらを行き来できる」
部屋の誰も動かなかった。
ジンが壁から、完全に背を離した。
「ケイ君。それは、つまり」
「ああ」
ケイはサトルを見た。
「誰かを、外に送り出せる」
サトルの手が、机の縁を握った。
「ケイ君。外に出て——どうするんです」
ケイは、灰色の線を指した。外からこちらへ伸びる、覗き穴。
「向こうに、これを仕組んだ者がいる。転移者をここへ呼び、使い、消えれば次を呼ぶ。アキラも、レドも、そうやって消えた。イブも、その手駒だった」
サトルは何も言わなかった。
「このままここにいても、順番を待つだけだ。いつか俺たちも、同じように消される」
ケイは続けた。
「だから、先に外へ出る。誰が、何のために、こんな仕組みを作ったのか。正体を掴む。そして——ここに囚われた者を、ひとり残らず外に出す道を、探す」
部屋の空気が動かなかった。
「それが、外へ出る理由だ」
サトルが、ゆっくりと頷いた。
ケイは考えた。誰を送り出すか。
答えは、考える前からあった。
二本の線を束ねて橋を作っても、渡る者がいなければ意味がない。
渡るには、自分の意識を線に乗せて、外まで運ばなければならない。
ケイは、辿るだけで二度、息が止まった。線の冷たさが、肘まで上がってきた。普通の者なら、線の半分も行かないうちに、意識が削られて潰れる。
——渡るあいだ、自分を守れる者でなければ、無理だ。
流れの中で、結界を張れる者は、一人しかいない。
食堂の扉が開いた。
アリスが立っていた。白い礼服。朝の祈祷の帰りだ。
「お話、終わりましたか」
アリスはケイたちの顔を、順に見た。
ケイはアリスを見た。
「アリス。外に出る道ができる」
アリスはすぐには動かなかった。
「……私が、ですか」
「ああ。流れの中で身を守れるのは、お前だけだ」
アリスの指が、扉の縁から離れた。
「外に出て、何を」
ケイは少し迷った。だが、隠さなかった。
「これを仕組んだ者の正体を掴む。そして、ここから皆を出す道を探す」
アリスは、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「やっと、ですね」
ケイには、その意味がわかった。
アリスはずっと、見送る側にいた。消えていく者を。向こうへ送られたという者を。聖詔者として、ただ祈ることしかできなかった。
その手で、初めて、何かを変えられるかもしれない。
「やります」とアリスは言った。聖詔者の声ではなかった。
手のひらの中で、糸が震えていた。さっきより、強く。
——外の声が聞こえる。今度は、届く。




