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Episode 32|糸


 食堂の扉を押した。


 声が流れ込んでこなかった。


 いつもなら、扉の前で、フウの笑い声が届く。今朝は椀を置く音だけだった。


 中に入った。三人いた。ジン、サトル、フウ。


 長机の端に、空いた席があった。


 誰もそこに盆を置かなかった。座面にへこみがない。木の色だけが、ほかより少し新しく見えた。


 イブが座っていた場所だ。


 フウは椀の中を見ていた。スプーンを握ったまま動かさなかった。


 サトルが眼鏡に指を伸ばした。途中で止めた。


 ジンは壁に背を預けていた。刀を膝の上に置いていた。


 ケイは盆を置いた。イブの席ではない、いつもの場所に。


 右の手のひらを膝の上で開いた。


 そこに一本の糸があった。


 蜘蛛の糸より細い。青白く透けている。光を吸わず、自分から淡く震えていた。手のひらに収まる長さに見えたが、引こうとすると終わりが来ない。


 ほかの誰にも見えていなかった。サトルもフウもジンも、ケイの手元を見ても何もないと思っているはずだ。


 イブが最後に置いていったものだ。


 消える瞬間、ケイの手のひらに何かが乗った気がした。気がしただけだった。だが朝になっても、まだそこにあった。


 色がイブの目の色に似ていた。


 握っても重さはない。指先に震えだけが伝わってくる。


「ケイ」


 フウが顔を上げた。


「イブ、どこ行ったの」


 スプーンが椀の縁に当たった。小さな音。


「ばいばい、してないよ。わたし」


 部屋が静かだった。


 ケイは答えなかった。答えを持っていなかった。


 サトルが口を開いた。


「フウちゃん。イブさんは——」


 そこで止まった。眼鏡の縁を一度押し上げた。続きは出てこなかった。


 ジンが低く言った。


「あいつは、自分で道を閉じた」


 それだけだった。


 膝の上の刀の柄に、指先が、一度だけ触れた。それから、離した。


 フウを見て、もう一度、椀に視線を戻した。


 ケイは糸をもう一度握った。


 握ると、遠くで何かが鳴った。声ではない。意味でもない。ただ震えだけが、指の腹から胸へ伝った。ゆっくりと。


 ——これが、どこに繋がっている。


 昨日は考えなかった。今日は考えなければならない。


 ケイは立ち上がった。


「サトル。工房を借りる」




 サトルの工房。


 机の上には、いつも魔法陣が一つ灯っている。サトルが何年も前に組んだものだ。明かりの代わりに置いてあり、ケイは消えたところを見たことがない。


 ケイは椅子に座った。糸を左の手のひらに置いた。揺れも転がりもせず、そこに残った。


「ケイ君。何が、見えてる?」


 サトルが向かいの椅子に座った。


「糸だ」とケイは言った。


「糸——どこに」


「俺の手の上に」


 サトルは目を細めた。手のひらを見て、それからケイの目を見た。


「私には、見えません」


「ああ」


「ケイ君にだけ、ですか」


「たぶん」


 ケイは目を閉じた。


 息を吐いた。長く、ゆっくり。


 魔法陣を読むときと、同じ手順だった。


 肉体は動かさない。意識を、構造の上に乗せる。


 ただ、今日は陣ではない。一本の糸だ。


 右の指で、糸をつまんだ。


 震えが指の腹に届いた。


 その震えに、意識を合わせた。


 ——乗った。


 意識が糸の上を滑っていく感覚があった。


 体は椅子に残っている。視界だけが、糸の通り道を辿る。チップ通信で誰かの視界に図が開く——あの感覚に近い。だが、もっと細い。線の上を点が一つ、進んでいく。


 糸の周りに光があった。


 無数の細い流れの束。それぞれが別の方向に進み、別のところに繋がっている。サトルとの会話、フウの笑い声、ジンの刀の重み。日々、流れている。


 糸はその束の中を貫いていた。


 束のどれにも触れず、ただまっすぐ、外へ伸びていく。


 ——流れの、外へ向かっている。


 ケイは昨日、それを知った。流れには、外がある。


 流れ——この世界そのものを動かしている、目に見えない仕組み。空気のように、ずっとそこにある。誰もそれを意識せずに生きている。


 その流れには、向こう側がある。回収部隊は、そこから書き込まれてきた。糸はそこへ伸びていた。


 外の声が聞こえた気がした。


 昨日と同じだ。届かない。


 ——こちらから、何かを送り出すには、足りない。


 ケイはもう一段、深く読んだ。


 呼吸が浅くなった。指先が冷たくなる。頭の奥がひとつ痛んだ。


 そのとき、気づいた。


 糸の途中に、別のものが絡んでいた。


 ——もう一本ある。


 イブの糸ではない。色が違う。震えていない。


 鈍く濁った灰色だった。指先で触れると、冷たかった。震えが返ってこない。死んだものに触れている感触に近い。


 ずっと前からそこにあった。動かず、ただ置かれていた。


 ケイは意識を引き戻した。


 糸の先まで伸ばしていた意識を、肉体に、無理やり戻す。


 細い針の穴に、丸めた糸を一気に通す感覚。


 息が、戻ってきた。


 ——ぶは。


 止めていた呼吸が一度に噴き出した。肺が空気を求めて、何度も繰り返し吸い込もうとした。追いつかなかった。


 椅子の背に体が倒れ込んだ。額の汗がひと粒、机の上に落ちた。


 視界が揺れた。手のひらの上の糸が、二重に見えた。


 指先は冷たいまま、感覚が戻ってこなかった。


「ケイ君!」


 サトルの声が遠かった。耳の奥に膜が一枚張ったような聞こえ方だった。


「ケイ君、医者を——」


「いい」


 ケイは言った。自分の声が他人の声のように聞こえた。


「水を、くれ」


 サトルが慌てて水差しを取った。木のコップに水を注ぐ手が震えていた。


 ケイはコップを受け取った。受け取った瞬間、自分の指も震えていることに気づいた。


 水を口に含んだ。冷たかった。喉の奥に、戻ってきた感覚があった。


「サトル。流れの中に、もう一本ある」


 息がまだ整わない。声が短く切れた。


「もう一本」


「イブの糸とは別だ。古い。ずっと前から繋がっている」


「ケイ君、それは——」


「外から、こちらへ伸びている。誰かが書き込んでくる側だ」


 ケイは指先で虚空を短く撫でた。視界に図を開く。サトルの視界にも同じものが届いているはずだ。


 二本の線。


 細く青白く震える線——イブの糸。外へ伸びている。


 太く灰色で動かない線——もう一本。外から、こちらへ伸びている。


「これは、外への通路じゃない。外からの覗き穴だ」


 ——誰かがずっと使っていた。イブよりも、前から。


「ケイ君、いま潜るのは——」


「だが、こちら側の端を見ないと、誰だかわからない」


 ケイはコップを置いた。


 息を整えた。整いきらないまま、もう一度、目を閉じた。


 今度は、灰色の線に意識を合わせる。


 イブの糸のときと、違った。


 震えは返らなかった。指で触れた感覚だけを頼りに、線の上を進んでいく。冷たい。指がしびれる。


 線は自分から動かない。流れに乗らないから、こちらが歩いて辿るしかなかった。


 一歩進むごとに、線の冷たさが、指の奥まで届いた。


 視界が王宮の中を抜けていった。


 工房の壁。廊下の床。天井の梁。食堂の入り口。長机の上。


 線は長机を越え、向こう側に伸びていた。


 ある場所で、止まった。


 止まった先に、誰かがいた。


 線はその人の輪郭の内側に、深く巻かれていた。本人は気づいていない。眠っているわけでもない。今、近くにいる。すぐ、そこに。


 ケイはもう一段、近づいた。


 ——見えた。


 その瞬間、線の冷たさが肘まで上がってきた。引き戻された。意識が、肉体に、叩き込まれた。


 二度目の戻りは、重かった。


 椅子の背に、体重が叩きつけられた。喉の奥がひりついた。


 頭の奥の痛みが、ひとつから、ふたつに増えていた。


 サトルの声は、今度はもう、聞こえなかった。


 ケイは息を整えた。


 整わなかった。それでも、立った。


「サトル」


「ええ」


「食堂に、戻る」


 工房の扉に、手をかけた。


 止まった先にいたのは——




 フウだった。


 工房を出た。廊下を歩いた。足がいつもより重かった。一歩踏み出すごとに、視界がわずかに揺れた。それでも、止まらなかった。


 食堂に戻った。


 フウはまだ椀の前にいた。スプーンは、もう置かれていた。


 ケイはフウの隣に座った。座る瞬間、息がまた切れた。


 ジンが壁から背を離した。サトルが入口で止まった。


「フウ」


「なに?」


 フウがこちらを向いた。黒い髪が肩で揺れた。


 ケイは少しのあいだ黙っていた。


 言葉を選んだ。選んでも、軽くはならなかった。


「怖いことを聞く」


「うん」


 フウは笑っていた。怖い、という言葉の意味が届いていないように見えた。


「お前の中に、誰かが隠れていた」


 フウの目がケイを見た。


 椀の中ではない。スプーンでもない。ケイをまっすぐ見ていた。


 部屋が静かだった。


「……ずっと?」


「たぶん、ずっとだ」


「わたしが、ここに来たときから?」


「ああ。たぶん、最初からだ」


 フウは自分の胸に手を当てた。とん、と。確かめるように。


 それから首の後ろに手をやった。チップがあるとされる場所。何もなかった。


「フウ」


 ケイは続けた。


「お前の中にいたのは、外の誰かだ。顔も名前も、わからない」


 フウは胸に当てた手を、そのままにしていた。何かを、思い出そうとしている顔だった。


「……ねえ、ケイ」


「ああ」


「わたし、ときどき、思ってたことがあるの」


「言ってくれ」


「胸の中に、勝手に、ある感じ。自分のじゃない感じ」


 フウは胸の手を、握りしめた。


「……だから、ね」


 ゆっくり、言った。


「初めて会ったとき、『また』って、言ったんだ。わたし」


 ケイは息を止めた。


 初めて会った日のこと。「また、転移してきたね」。あの「また」。


 ずっと引っかかっていた。


「わたし、知ってたんだ。ケイのこと。会う前から」


 フウの声は震えていなかった。


「でも、どこで知ったか、わかんなかった。胸の中に、勝手にあったの。会ったこともないのに、知ってる感じ」


 ケイは、自分の手のひらを見た。糸はもう見えない。だが、感覚は残っていた。


 ——そういうことか。


 ケイは言葉を組み立てた。フウの言葉を、ひとつずつ、翻訳するように。


「フウ。お前の中にあった『知ってる感じ』は、お前のものじゃない」


「うん」


「お前の中にいた、外の誰かのものだ。その誰かが知っていた感覚が、お前にも漏れていた」


「漏れて、た?」


「ああ。お前は、自分の感覚だと思っていた。だが違う。外の誰かの感覚が、お前の中に、ずっと流れ込んでいたんだ」


 フウは、ゆっくり、頷いた。胸の手を、下ろした。


 ケイはさらに、組み立てた。


「お前が会う前から俺を知っていたなら——その誰かは、俺のことを、ずっと前から知っていたことになる」


 ジンが、ケイを見た。


 サトルが入口で、息を止めていた。


「俺がここに来るより、前からだ」とケイは続けた。


「その誰かは、俺がここに来てからは、お前の目を借りて、俺を見ていた。お前の耳を借りて、俺の声を聞いていた」


「わたしの……目?」


「ああ。お前は気づいていなかった。だが、その誰かはお前の中から、俺をずっと観察していた」


 フウは頷いた。一度。ゆっくり、もう一度。


 それから自分の胸に手を当てた。とん、と。さっきと同じ場所だった。


 今度は、すぐに離さなかった。手のひらを当てたまま、しばらく、置いていた。


 唇が、一度、結ばれた。


 それからケイを見て、言った。


「ケイが、追い出してくれる?」


 ケイはすぐには答えなかった。


 追い出す。それはできる。覗き穴を塞ぐ。フウの中から、外の手を断つ。


 だが——


「ああ」


 ケイは言った。


「でも、その前に、少しだけ使わせてくれ」


「使う?」


「お前の中の、その通路を。一度だけ」


 フウはケイを見ていた。


 怖がっていなかった。疑ってもいなかった。


「うん」


 フウは言った。


「ケイが使うなら、いいよ」


 ケイはフウの頭に手を置こうとした。


 途中で止めた。手を膝に戻した。


 ——軽く受け取った。軽く受け取れることが、いちばん重い。




「サトル」


 ケイは立ち上がった。


「三つ、揃う」


 サトルが入口から机に近づいた。


「三つ」


「イブの糸。フウの覗き穴。それと、繋ぐ俺だ」


 ケイは手のひらを開いた。糸が震えていた。


「イブの糸は、外を読む。読み取りだけだ。こちらから外の声は聞こえる。だが、こちらの声は届かない」


「ええ」


「フウの覗き穴は逆だ。外から、こちらへ。書き込む側だ。外の誰かが、フウを通して、こちらにものを送り込んでいた」


 サトルの眼鏡が明かりを反射した。


「片方は読むだけ。片方は書くだけ。別々なら、どちらも半分だ」


 ケイは二本の線を図に描いた。細い線と、太い線。


「だが、繋げば」


 ケイは二本の線の端を重ねた。


「読んで、書ける。双方向になる」


 サトルが息を吸った。


「双方向——それは」


「外と、こちらを行き来できる」


 部屋の誰も動かなかった。


 ジンが壁から、完全に背を離した。


「ケイ君。それは、つまり」


「ああ」


 ケイはサトルを見た。


「誰かを、外に送り出せる」


 サトルの手が、机の縁を握った。


「ケイ君。外に出て——どうするんです」


 ケイは、灰色の線を指した。外からこちらへ伸びる、覗き穴。


「向こうに、これを仕組んだ者がいる。転移者をここへ呼び、使い、消えれば次を呼ぶ。アキラも、レドも、そうやって消えた。イブも、その手駒だった」


 サトルは何も言わなかった。


「このままここにいても、順番を待つだけだ。いつか俺たちも、同じように消される」


 ケイは続けた。


「だから、先に外へ出る。誰が、何のために、こんな仕組みを作ったのか。正体を掴む。そして——ここに囚われた者を、ひとり残らず外に出す道を、探す」


 部屋の空気が動かなかった。


「それが、外へ出る理由だ」


 サトルが、ゆっくりと頷いた。


 ケイは考えた。誰を送り出すか。


 答えは、考える前からあった。


 二本の線を束ねて橋を作っても、渡る者がいなければ意味がない。


 渡るには、自分の意識を線に乗せて、外まで運ばなければならない。


 ケイは、辿るだけで二度、息が止まった。線の冷たさが、肘まで上がってきた。普通の者なら、線の半分も行かないうちに、意識が削られて潰れる。


 ——渡るあいだ、自分を守れる者でなければ、無理だ。


 流れの中で、結界を張れる者は、一人しかいない。


 食堂の扉が開いた。


 アリスが立っていた。白い礼服。朝の祈祷の帰りだ。


「お話、終わりましたか」


 アリスはケイたちの顔を、順に見た。


 ケイはアリスを見た。


「アリス。外に出る道ができる」


 アリスはすぐには動かなかった。


「……私が、ですか」


「ああ。流れの中で身を守れるのは、お前だけだ」


 アリスの指が、扉の縁から離れた。


「外に出て、何を」


 ケイは少し迷った。だが、隠さなかった。


「これを仕組んだ者の正体を掴む。そして、ここから皆を出す道を探す」


 アリスは、しばらく黙っていた。


 それから、小さく言った。


「やっと、ですね」


 ケイには、その意味がわかった。


 アリスはずっと、見送る側にいた。消えていく者を。向こうへ送られたという者を。聖詔者として、ただ祈ることしかできなかった。


 その手で、初めて、何かを変えられるかもしれない。


「やります」とアリスは言った。聖詔者の声ではなかった。


 手のひらの中で、糸が震えていた。さっきより、強く。


 ——外の声が聞こえる。今度は、届く。


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