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Episode 31|扉


 朝の光が、石畳に伸び始めていた。


 食堂を出ると、中庭の向こうに人影が立っていた。一つではなかった。横に並んでいる。


 数えた。六つ。


 それが、こちらへ歩いてくる。歩幅が、揃っていた。足音が、ひとつに重なって聞こえた。


 ケイは、中庭に出た。ジンが、隣に並ぶ。フウが、その後ろに立った。サトルとアリスが、続いた。イブは、いちばん前にいた。


 人影が、近づいてくる。


 ——顔が、ない。


 のっぺりとした人の形だった。揃いの灰色の装い。目も、鼻も、口もない。六人とも、同じ速さで歩いていた。


「回収部隊です」イブが言った。「ケイさんだけを見ています」


 ジンが、刀の柄に手をかけた。「数は」


「いまは、六」イブが言った。「足りなければ、増えます」


 アリスが、前に出た。両手を軽く開く。空気が、薄く張りつめた。結界だった。


「ケイさんを囲んでください」イブが言った。「離れないで」


 ケイは、動かなかった。顔のない者たちを見ていた。


 ——あれが、自分を連れていく。


 それが何なのかは、まだわからなかった。




 最初の一人が、足を速めた。


 ジンが、出た。刀が、低く走る。顔のない者の肩を、斜めに捉えた。


 倒れなかった。傷の縁が、ほどけて、また閉じた。何ごともなかったように。


「——斬れない」ジンが言った。


 ケイは、いちばん近い一人を見た。構造を読もうとした。鍵穴を探した。


 何もなかった。


 魔物には、構造がある。読めば、鍵が見える。鍵を断てば、存在がほどける。だが、この顔のない者には、それがなかった。読む手がかりが、何もない。


 ——空っぽだ。


 鍵破壊が、届かなかった。ケイの手の中で、組みかけた鍵が、行き場をなくした。


「右から来る!」フウが声を上げた。「ううん——もう、左!」


 フウの読みが、追いつかない。相手のほうが、速かった。動く前に、知られている。避ける先に、先回りされている。


 サトルが、視界に図を開いた。「ケイ君、あれは——見てから避けてるんじゃありません。先に、知ってる」


「ああ」ケイは言った。「考える前に、知られている」


 アリスの結界が、軋んだ。顔のない者たちが、外側から、同じ場所を同時に押していた。六人の力が、ひとつに揃っていた。


「持ちません」アリスが言った。声が、固い。


 回収部隊が、輪を詰めてくる。ケイまで、あと数歩だった。




 イブが、目を閉じた。


「イブ?」フウが言った。


 イブは、答えなかった。こめかみに指を当てている。何かを聞いていた。


「右の二人。次、ジンさんの背中に回ります。三、二——」


 ジンが、振り返った。イブが言い終わる前に。刀が、回り込んできた一人を受け止めた。


「左、結界の継ぎ目を狙ってます。アリス様、そこ」


 アリスが、結界を継ぎ直した。薄い膜が、破られる手前で、もう一枚重なった。


「なんで」フウが、目を丸くした。「なんで、わかるの」


「聞こえるんです」イブが言った。目を閉じたまま。「あの人たちが次に何をするか。ぜんぶ、声になって流れてる」


 ケイは、イブを見た。


 ——傍受。


 ずっと、それで見ていたのか。


「ケイさんたちのも、聞こえます」イブが言った。「ずっと、聞こえてました。チップの通信も、ぜんぶ」


 サトルが、息を呑んだ。「待って。それは、チップとチップが、つながって——」


「ちがいます」イブが言った。「チップなんて、最初からないんです。みんな、同じ一つの流れの中にいるだけです」


 ケイの中で、何かが噛み合った。


 チップを持っていないのに、通信ができた。ずっと、その理由がわからなかった。


 ——理由なんて、なかった。


 最初から、ひとつの流れの中にいた。


 だったら、とケイは思った。その流れは、こっちからも読める。


 ケイは、目を閉じた。イブの聞いている場所より、もっと奥へ。流れを遡った。


 顔のない者たちの動きが、声になって流れている。同じ声が、六つ。一字一句、違わない。


 ——六人じゃない。


 一つを、六回写しただけだ。


 ケイは、写しの元を探した。六つの声が、一点から配られている。そこに、構造があった。鍵が、見えた。


 ケイは、元の構造に合う鍵を組んだ。そして、断った。


 顔のない者が、六人とも、同時に止まった。肩から。指の先から。輪郭が、ほどけていく。今度は、閉じなかった。六つの人の形が、灰色の塵になって、朝の光に散った。


 中庭が、静かになった。


 ジンが、刀を下ろした。フウが、口を開けたまま、ケイを見ていた。サトルだけが、視界の図に何か書きとめていた。こんなときでも。




 中庭の石畳に、灰色の塵が、また集まりはじめた。


 いちど散ったものが、形を取り戻していく。一つ。二つ。三つ、四つ。さきほどより、多い。十を超えて、ケイは数えるのをやめた。


「また……」フウの声が、ふるえた。


 ケイは、流れの奥を読んだ。写しの元は、さっき断った。だが、新しい元が、また書き込まれている。


 ——どこから。


 読んだ。元を配っている一点は、流れの、もっと奥にあった。ケイの手の届かない奥に。


 ——外だ。


 ここではない。この世界の外。そこから、書き込まれ続けている。ケイに読めるのは、流れのこちら側まで。その外には、手が届かない。


「きりが、ない」ケイは言った。「断っても、外から、また書かれる」


 ジンが、刀を構え直した。アリスが、結界を張り直した。二人で、十数体を食い止めていた。長くは保たない。


 顔のない者の一人が、結界を抜けた。ケイの、すぐ前に立った。手が、伸びる。


 ケイは、避けなかった。避ける先は、もう知られている。


 手が、肩に触れた。冷たさが、指の先まで降りていく。体の輪郭が、すこし遠くなった。


 ——これが、回収か。


 イブが、その手とケイの間に入った。


「やめて」


 顔のない者が、止まった。


 イブの中に、声が流れ込んだ。声も顔もない、いつもの相手。イブだけに聞こえる声を、イブは声に出した。みんなに聞かせるように。


「『その男を引き渡せ』」イブが繰り返した。「『お前の役目だ。果たせば、戻れる。数字も、戻す』」


 戻れる。


 イブは、その言葉を知っていた。子供のころから、ずっと。役に立てば、空く寝台の側に回されない。


 イブは、首を横に振った。


「いりません」イブが言った。「もう、数えるのは、やめます」


 イブが、ケイの肩に手を伸ばした。顔のない者の手が掴んでいる、その上から。


「私にも、権限があります」イブが言った。「ケイさんをここで終わらせる権限。それを使えば、回収は済みます。私は、戻れます」


 イブの指が、ケイの肩を軽く握った。


「——使いません」


 イブの手が、ケイの肩から離れた。


「私が使うのは、もう一つのほうです」


 イブの手の中で、何かがほどけた。回収の手が、ケイから引き剥がされた。冷たさが、引いていく。


「この回収の道は、私が通しました」イブが言った。「外とつながる道です。だから——私が、閉じられます。私ごと」


 顔のない者たちが、いっせいに、イブのほうを向いた。




 イブの体の輪郭が、ほどけ始めた。


 肩から。指の先から。回収部隊に向けていた手が、薄くなっていく。


 イブは、痛がらなかった。ただ、ケイを見ていた。


「ケイさん。手を、出してください」


 ケイは、手を出した。


 イブが、その手に触れた。何かが、ケイの中に流れ込んできた。細い。一本の糸のようだった。


「いま閉じる道の、残りです」イブが言った。「外とつながってた線。もう、これだけ。読むことしかできません。出口がどこかも、わかりません」


 イブの声が、薄くなっていく。


「でも——外がある。それだけは、ほんとうです」


「イブ」ケイが言った。


「私、ずっと盗み聞きしてました」イブが言った。笑っていた。前のめりに。最後まで。「スパイで。ケイさんたちのこと、ぜんぶ報告して。ひどいな、って、思いますよね」


「——でも」


 イブの姿は、もう半分も残っていなかった。


「最後だけ。ちゃんと、話せた」


 アリスが、前に出た。イブの、消えかけた目を、まっすぐ見た。


「イブさん」アリスが言った。聖詔者の声ではなかった。「あなたが最後にしたことは、誰にも命じられていません。あなたが、選びました。——それは、本物です。私が、認めます」


 イブが、アリスを見た。何か言おうとした。


 口が、動いた。声は、もう出なかった。


 イブが、消えた。


 どこかで、扉が閉まる音がした。半分だけ開いていた扉が、閉まりきる音だった。




 中庭に、塵が残っていた。


 顔のない者たちが、足を止めていた。十あまり。崩れかけては、形を取り戻そうとして——取り戻せずにいた。


 ケイは、流れを読んだ。


 奥が、静かだった。外から元を書き込んでいた一点が、消えていた。


 ——道が、閉じた。


 イブが、閉じたのだ。


 新しい元は、もう来ない。供給を断たれた写しは、もう写しではなかった。元から切り離されて、それぞれが、閉じた一つの構造になっていた。


 ケイは、目を閉じた。一体ずつ読んだ。今度は、鍵が見えた。ぜんぶに。


 鍵を組んだ。断った。


 顔のない者たちが、いっせいにほどけた。今度は、形を取り戻さなかった。灰色の塵が、石畳に落ちて、それきり動かなかった。


 中庭が、静まり返った。


 ジンが、刀を納めた。フウが、イブのいた場所に手を伸ばした。何もなかった。足跡も、影も。


 フウが、ちいさく言った。「ばいばい、してない」


 ケイは、自分の手を見た。さっき、イブが触れた手だった。その奥に、まだ細い糸が残っていた。かすかに、震えている。


 ケイは、目を閉じた。糸を、辿ってみた。


 遠くで、音がした。声のような、何かだった。言葉には、ならなかった。


 ——外の声が、聞こえる気がする。


 ——でも、届かない。


 ケイは、手を握った。糸を、離さないように。


 朝の光が、石畳をすっかり照らしていた。イブの立っていた場所だけが、まだ、すこし暗いように見えた。


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