Episode 31|扉
◆
朝の光が、石畳に伸び始めていた。
食堂を出ると、中庭の向こうに人影が立っていた。一つではなかった。横に並んでいる。
数えた。六つ。
それが、こちらへ歩いてくる。歩幅が、揃っていた。足音が、ひとつに重なって聞こえた。
ケイは、中庭に出た。ジンが、隣に並ぶ。フウが、その後ろに立った。サトルとアリスが、続いた。イブは、いちばん前にいた。
人影が、近づいてくる。
——顔が、ない。
のっぺりとした人の形だった。揃いの灰色の装い。目も、鼻も、口もない。六人とも、同じ速さで歩いていた。
「回収部隊です」イブが言った。「ケイさんだけを見ています」
ジンが、刀の柄に手をかけた。「数は」
「いまは、六」イブが言った。「足りなければ、増えます」
アリスが、前に出た。両手を軽く開く。空気が、薄く張りつめた。結界だった。
「ケイさんを囲んでください」イブが言った。「離れないで」
ケイは、動かなかった。顔のない者たちを見ていた。
——あれが、自分を連れていく。
それが何なのかは、まだわからなかった。
◆
最初の一人が、足を速めた。
ジンが、出た。刀が、低く走る。顔のない者の肩を、斜めに捉えた。
倒れなかった。傷の縁が、ほどけて、また閉じた。何ごともなかったように。
「——斬れない」ジンが言った。
ケイは、いちばん近い一人を見た。構造を読もうとした。鍵穴を探した。
何もなかった。
魔物には、構造がある。読めば、鍵が見える。鍵を断てば、存在がほどける。だが、この顔のない者には、それがなかった。読む手がかりが、何もない。
——空っぽだ。
鍵破壊が、届かなかった。ケイの手の中で、組みかけた鍵が、行き場をなくした。
「右から来る!」フウが声を上げた。「ううん——もう、左!」
フウの読みが、追いつかない。相手のほうが、速かった。動く前に、知られている。避ける先に、先回りされている。
サトルが、視界に図を開いた。「ケイ君、あれは——見てから避けてるんじゃありません。先に、知ってる」
「ああ」ケイは言った。「考える前に、知られている」
アリスの結界が、軋んだ。顔のない者たちが、外側から、同じ場所を同時に押していた。六人の力が、ひとつに揃っていた。
「持ちません」アリスが言った。声が、固い。
回収部隊が、輪を詰めてくる。ケイまで、あと数歩だった。
◆
イブが、目を閉じた。
「イブ?」フウが言った。
イブは、答えなかった。こめかみに指を当てている。何かを聞いていた。
「右の二人。次、ジンさんの背中に回ります。三、二——」
ジンが、振り返った。イブが言い終わる前に。刀が、回り込んできた一人を受け止めた。
「左、結界の継ぎ目を狙ってます。アリス様、そこ」
アリスが、結界を継ぎ直した。薄い膜が、破られる手前で、もう一枚重なった。
「なんで」フウが、目を丸くした。「なんで、わかるの」
「聞こえるんです」イブが言った。目を閉じたまま。「あの人たちが次に何をするか。ぜんぶ、声になって流れてる」
ケイは、イブを見た。
——傍受。
ずっと、それで見ていたのか。
「ケイさんたちのも、聞こえます」イブが言った。「ずっと、聞こえてました。チップの通信も、ぜんぶ」
サトルが、息を呑んだ。「待って。それは、チップとチップが、つながって——」
「ちがいます」イブが言った。「チップなんて、最初からないんです。みんな、同じ一つの流れの中にいるだけです」
ケイの中で、何かが噛み合った。
チップを持っていないのに、通信ができた。ずっと、その理由がわからなかった。
——理由なんて、なかった。
最初から、ひとつの流れの中にいた。
だったら、とケイは思った。その流れは、こっちからも読める。
ケイは、目を閉じた。イブの聞いている場所より、もっと奥へ。流れを遡った。
顔のない者たちの動きが、声になって流れている。同じ声が、六つ。一字一句、違わない。
——六人じゃない。
一つを、六回写しただけだ。
ケイは、写しの元を探した。六つの声が、一点から配られている。そこに、構造があった。鍵が、見えた。
ケイは、元の構造に合う鍵を組んだ。そして、断った。
顔のない者が、六人とも、同時に止まった。肩から。指の先から。輪郭が、ほどけていく。今度は、閉じなかった。六つの人の形が、灰色の塵になって、朝の光に散った。
中庭が、静かになった。
ジンが、刀を下ろした。フウが、口を開けたまま、ケイを見ていた。サトルだけが、視界の図に何か書きとめていた。こんなときでも。
◆
中庭の石畳に、灰色の塵が、また集まりはじめた。
いちど散ったものが、形を取り戻していく。一つ。二つ。三つ、四つ。さきほどより、多い。十を超えて、ケイは数えるのをやめた。
「また……」フウの声が、ふるえた。
ケイは、流れの奥を読んだ。写しの元は、さっき断った。だが、新しい元が、また書き込まれている。
——どこから。
読んだ。元を配っている一点は、流れの、もっと奥にあった。ケイの手の届かない奥に。
——外だ。
ここではない。この世界の外。そこから、書き込まれ続けている。ケイに読めるのは、流れのこちら側まで。その外には、手が届かない。
「きりが、ない」ケイは言った。「断っても、外から、また書かれる」
ジンが、刀を構え直した。アリスが、結界を張り直した。二人で、十数体を食い止めていた。長くは保たない。
顔のない者の一人が、結界を抜けた。ケイの、すぐ前に立った。手が、伸びる。
ケイは、避けなかった。避ける先は、もう知られている。
手が、肩に触れた。冷たさが、指の先まで降りていく。体の輪郭が、すこし遠くなった。
——これが、回収か。
イブが、その手とケイの間に入った。
「やめて」
顔のない者が、止まった。
イブの中に、声が流れ込んだ。声も顔もない、いつもの相手。イブだけに聞こえる声を、イブは声に出した。みんなに聞かせるように。
「『その男を引き渡せ』」イブが繰り返した。「『お前の役目だ。果たせば、戻れる。数字も、戻す』」
戻れる。
イブは、その言葉を知っていた。子供のころから、ずっと。役に立てば、空く寝台の側に回されない。
イブは、首を横に振った。
「いりません」イブが言った。「もう、数えるのは、やめます」
イブが、ケイの肩に手を伸ばした。顔のない者の手が掴んでいる、その上から。
「私にも、権限があります」イブが言った。「ケイさんをここで終わらせる権限。それを使えば、回収は済みます。私は、戻れます」
イブの指が、ケイの肩を軽く握った。
「——使いません」
イブの手が、ケイの肩から離れた。
「私が使うのは、もう一つのほうです」
イブの手の中で、何かがほどけた。回収の手が、ケイから引き剥がされた。冷たさが、引いていく。
「この回収の道は、私が通しました」イブが言った。「外とつながる道です。だから——私が、閉じられます。私ごと」
顔のない者たちが、いっせいに、イブのほうを向いた。
◆
イブの体の輪郭が、ほどけ始めた。
肩から。指の先から。回収部隊に向けていた手が、薄くなっていく。
イブは、痛がらなかった。ただ、ケイを見ていた。
「ケイさん。手を、出してください」
ケイは、手を出した。
イブが、その手に触れた。何かが、ケイの中に流れ込んできた。細い。一本の糸のようだった。
「いま閉じる道の、残りです」イブが言った。「外とつながってた線。もう、これだけ。読むことしかできません。出口がどこかも、わかりません」
イブの声が、薄くなっていく。
「でも——外がある。それだけは、ほんとうです」
「イブ」ケイが言った。
「私、ずっと盗み聞きしてました」イブが言った。笑っていた。前のめりに。最後まで。「スパイで。ケイさんたちのこと、ぜんぶ報告して。ひどいな、って、思いますよね」
「——でも」
イブの姿は、もう半分も残っていなかった。
「最後だけ。ちゃんと、話せた」
アリスが、前に出た。イブの、消えかけた目を、まっすぐ見た。
「イブさん」アリスが言った。聖詔者の声ではなかった。「あなたが最後にしたことは、誰にも命じられていません。あなたが、選びました。——それは、本物です。私が、認めます」
イブが、アリスを見た。何か言おうとした。
口が、動いた。声は、もう出なかった。
イブが、消えた。
どこかで、扉が閉まる音がした。半分だけ開いていた扉が、閉まりきる音だった。
◆
中庭に、塵が残っていた。
顔のない者たちが、足を止めていた。十あまり。崩れかけては、形を取り戻そうとして——取り戻せずにいた。
ケイは、流れを読んだ。
奥が、静かだった。外から元を書き込んでいた一点が、消えていた。
——道が、閉じた。
イブが、閉じたのだ。
新しい元は、もう来ない。供給を断たれた写しは、もう写しではなかった。元から切り離されて、それぞれが、閉じた一つの構造になっていた。
ケイは、目を閉じた。一体ずつ読んだ。今度は、鍵が見えた。ぜんぶに。
鍵を組んだ。断った。
顔のない者たちが、いっせいにほどけた。今度は、形を取り戻さなかった。灰色の塵が、石畳に落ちて、それきり動かなかった。
中庭が、静まり返った。
ジンが、刀を納めた。フウが、イブのいた場所に手を伸ばした。何もなかった。足跡も、影も。
フウが、ちいさく言った。「ばいばい、してない」
ケイは、自分の手を見た。さっき、イブが触れた手だった。その奥に、まだ細い糸が残っていた。かすかに、震えている。
ケイは、目を閉じた。糸を、辿ってみた。
遠くで、音がした。声のような、何かだった。言葉には、ならなかった。
——外の声が、聞こえる気がする。
——でも、届かない。
ケイは、手を握った。糸を、離さないように。
朝の光が、石畳をすっかり照らしていた。イブの立っていた場所だけが、まだ、すこし暗いように見えた。
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