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Episode 30|寝台


 朝の食堂。窓の外は、まだ薄暗い。


 イブは、立ったままだった。盆は手にしていない。両手は、体の前で軽く組まれている。いつもの前のめりの笑い方は、もうどこにもなかった。


「全部、話します」


 声が、ふだんより低かった。


 ケイは、椅子に座ったままイブを見ていた。チップなんて最初からない——さっき聞いたばかりの言葉が、まだ指の先に残っている。


 ——聞く。


 それだけを決めた。


「私が、どこから来たのか」イブが言った。「先に、それを話します。そのほうが、たぶん早いので」


「信じられないことも、あると思います」イブが続けた。「でも、全部ほんとうです」


 ケイは、何も言わなかった。少ししてから、口を開いた。


「話せ」


 サトルが眼鏡に指を添えた。フウは椅子の上で膝を抱えている。ジンは壁際に立っている。アリスは、テーブルの向かいでイブを見ていた。聖詔者の顔ではなかった。


 イブが、息を吸った。




 イブには、生まれた家の記憶がない。


 物心ついたときには、施設にいた。家族のいない子供を引き取って育てる、そういう場所だった。


「保護された子」。イブたちは、そう呼ばれていた。「捨てられた」ではなく「保護された」。職員は、その言い方を大事にしていた。


 施設は、清潔だった。食事は足りていた。同じ服を着た子供たちが、同じ時間に起きて、同じ時間に眠った。イブは、それを不幸だと思ったことがなかった。比べる外側を知らなかったからだ。


 ただ一つ、はっきりした規則があった。


 役に立つこと。


 子供たちは、貢献度という数字で測られた。施設の廊下の壁に、全員の数字が並んでいた。よく学ぶ子。よく従う子。手のかからない子。数字の高い子は、上の課程へ進んだ。低い子は——別の施設へ移された。


 移された子がどこへ行くのかは、誰も教えてくれなかった。戻ってきた子もいなかった。


 ある朝、隣の寝台が空いていた。前の日までそこにいた子の数字が、壁から消えていた。職員は「あの子は、次の場所で頑張っています」と言った。誰も、それ以上は聞かなかった。聞いた子の数字が下がるのを、イブは一度だけ見たことがあった。


 イブの数字は、ちょうど真ん中だった。真ん中は、いちばん落ち着かない場所だった。少し下がれば、空く寝台の側になる。イブは毎朝、壁の数字を見てから一日を始めた。


 十五になった年、イブは面談に呼ばれた。


 机の向こうに、施設の人ではない大人が座っていた。きちんとした服を着ていた。その人は、イブの数字の記録を長いあいだ見ていた。


「君に、向いている仕事がある」


 向こうの世界を見てくる仕事だ、とその人は言った。


 向こうの世界。イブは、その言葉を前にも聞いたことがあった。眠ったまま戻ってこない人たち。寝台に横たわったまま、別のどこかで暮らしている人たち。そういう人たちのための大きな仕組みがあるのだという。


「君は眠らない。入って、見て、戻ってくる。ある人物のそばにいて、観察して、報告する。それだけだ」


 それだけ。イブは、その言葉を口の中で何度か繰り返した。


「やってくれるか」


 イブは「はい」と答えた。


 考えた時間はなかった。断るという言葉が、そもそも頭の中になかった。役目を与えられるということは、必要とされているということだった。必要とされている子は、空く寝台の側に回されない。それだけで、じゅうぶんだった。


 訓練は、半年あった。観察のしかた。報告のしかた。向こうの世界での振る舞いかた。イブは覚えるのが早かった。初めて自分の数字が上がるのを見た。


 教わった言葉の中に、回収というものがあった。


 観察した人物に異常が出たとき。決められた外へ出ようとしたとき。その人を向こうの世界から連れ出す。それを回収と呼ぶ、と教わった。手順も、言葉も教わった。


 だがイブは、一度も自分がそれをやるとは思っていなかった。回収は、もっと上のちゃんとした人がやることだった。自分の仕事は、見ること。報告すること。それだけのはずだった。


 そう思っていた。




 イブが、口を閉じた。


 回想を語る声が、そこで一度途切れた。食堂が、静かになった。


「待ってください」


 サトルだった。両手が、テーブルの上で止まっている。


「さっき、君は言いましたね」サトルが言った。「眠ったまま戻ってこない人たち。寝台に横たわったまま、別のどこかで暮らしている人たち、と」


「言いました」


「それは——」サトルの声が、一度止まった。「それは、私たちのことですか」


 イブは、すぐには答えなかった。


「……はい」


 食堂が、静まり返った。


 フウが、首の後ろに手をやった。指先で、そこを確かめている。チップがあるはずの場所だった。何度確かめても何もないことを、フウはもう知っている。


 ジンは、動かなかった。壁際に立ったまま、指一本動かさなかった。動かないことが、動揺だった。


 サトルは、しばらく何も言わなかった。組んだ両手の指が、一度強く握られた。


「私たちは、いまどこにいるんですか」


 イブは、首を横に振った。「私も、そこまでは知りません。教えられていないので」


「それは、後でいい」ケイが言った。「最後まで聞く」


 ケイは、アリスを見た。アリスは、眼を伏せたままだった。驚いていなかった。


「続けます」イブが言った。「時間がないので」


 誰も止めなかった。


 イブが、もう一度息を吸った。




 イブが向こうの世界——いまこの食堂のある世界に来た日のことを、よく覚えている。


 最初に見たのは、空だった。


 施設の外を、イブはほとんど知らなかった。空がこんなに広いものだとは、思っていなかった。イブは足を止めて、しばらくそれを見ていた。報告には書かなかった。書くようなことではなかった。


 仕事は、簡単なはずだった。ケイという名の転移者を観察する。そばにいて、見て、報告する。そのために、転移者のふりをして仲間に入る。ちょうどアキラという人が一人いなくなったあとだった。空いた場所に入ればよかった。


 イブは、うまくやった。


 フウは、イブの足音がないことを不思議がって、すぐに懐いた。サトルは、イブが工房に入っても顔を上げなかった。それが嫌ではなかった。ジンは、イブの軽口に口の端だけ動かした。ケイは——何を聞いても短く答えた。長くは答えなかった。


 全部、仕事だった。最初は。


 いつからか、わからない。


 サトルの工房の扉を閉めずに出るようになった。閉めれば、また開ける。開けるなら、閉めなくていい。理由は考えなかった。考えると、面倒な気がした。


 報告に書くことが、少しずつ減っていった。書けることは、たくさんあった。フウの感覚のこと。ケイの術式のこと。書けば、数字は上がった。それでも、書かない日が増えた。


 イブは、それを自分でもおかしいと思わなかった。居心地がいい、とだけ思った。居心地がいい場所を報告で汚したくなかった。


 加入の手続きの書類に、空席、という二文字があった。


 イブが入る前、その場所は空席だった。アキラという転移者が一人いなくなって、空いていた。イブは、その二文字をしばらく見ていた。


 子供のころに見た、空いた寝台と同じ二文字だった。


 アキラは、回収されたのだ。イブがこの世界に来る前に。イブの入る場所を空けるために。


 回収は、もっと上のちゃんとした人がやること。そう思っていた。違った。回収された人の空けた場所に、自分は座っていた。次に同じことをするのは、自分かもしれなかった。


 そして、今朝。


 指令が来た。声も顔もない、いつもの相手から。ケイ回収の地ならしをしろ、と。


 イブは、扉を半分開けたまま部屋を出た。閉めなかった。そして、この食堂に来た。




 イブが、話し終えた。


 食堂は、静かだった。窓の外が、さっきより明るい。誰も口を開かなかった。長いあいだ、そうしていた。


 フウが、口を開いた。「イブは……ケイを回収しに来たの」


「来ました」イブが言った。「でも、しません」


 サトルが眼鏡を外した。袖で拭いて、かけ直した。「……報告しなかったら、君の数字は、どうなりますか」


 イブは答えなかった。数字が下がった子が、どこへ行くのか——さっき、イブは話したばかりだった。


 ケイは、イブを見ていた。


 ——観察、されていた。


 ずっと。


「一つ、聞く」ケイが言った。


「はい」


「お前は、空く寝台の側に回されたくなかっただけか」


 イブが、ケイを見た。少しのあいだ、何も言わなかった。


「……最初は、そうです」イブが言った。「でも、いまは違います。ここが、居心地がよかったから」


 アリスが、小さく頷いた。聖詔者の頷き方ではなかった。


 イブが、口を開いた。何かを続けようとした。


 その言葉が、途中で止まった。


 何かが、届いた。声も顔もない、いつもの相手からだった。


 口が、半分開いたまま動かなくなった。


「イブ?」フウが言った。


 イブは答えなかった。視線が、食堂の扉へ動いた。それから、その先——壁の向こう、もっと遠くへ。


「——来ました」


 ケイが立ち上がった。「何が」


「回収部隊です」イブが言った。声が、低かった。「もう、街に入ってます」


 ジンが、壁から背を離した。手が、刀にかかっている。


 窓の外が、明るい。


 朝が、来ていた。


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