Episode 29|告白
◆
イブは、誰も起きていない時間に目を覚ました。
窓の外。空が白くなりかけている。鳥の声もまだない。
寝台の縁に座った。膝に手を置いた。しばらく動かなかった。
待っていた。何を待つのかは考えなかった。考えなくてもわかっていた。
——来る。
そう思った瞬間、来た。
声ではない。文字でもない。意味が直接頭の中に置かれていく。
転移者のチップ通信とは違う。あれにはまだ、人の手触りがある。送り手の息づかいのようなものが残っている。これはちがう。冷たい。順序よく、隙間なく積み上がっていく。
『対象、ケイ』
イブの指が、膝の上で止まった。
『回収準備に移行する。次の哨戒で対象の行動範囲を狭めること。退路を把握すること』
『準備が整いしだい、回収部隊を派遣する。報告はこれまで通り続けよ』
意味が置かれ終わった。
部屋が静かだった。
送ってきたのは、いつもの相手だ。顔を見たことはない。声を聞いたこともない。指示が届いて、報告を返す。この世界に来てから、ずっとそれだけの関係だった。逆らったことは、一度もない。
イブは息を吐いた。
——回収。
その言葉なら、教わっていた。手順も覚えた。対象をしかるべき場所へ戻す——任務の言葉だ。
教わっていたときは、ただの言葉だった。
自分の手でしたことはない。一度も。
馬車の空席を思い出した。
誰も座らなかった席。アキラという名前が、もうどこにも要らなくなった日。あのとき自分は、何も言わなかった。配られた書類の同じ場所で、目だけが止まっていた。
サトルの工房の半分だけ開いた扉も思い出した。フウのひと月前より高くなった笑い声も。それから、昨日のアリスの声も。
『答え合わせをするつもりは、ありません』
あの人は気づいていた。気づいていて、追い詰めなかった。逃げ道をふさがなかった。
『今日お引き止めしたのは、それをお伝えするためです』
イブは立ち上がった。
膝がわずかに震えていた。気づかないふりをした。
——もう一つ、空席を作る側には回れない。
それだけを決めた。
扉を開けた。
閉めなかった。半分だけ開けたままにして、廊下に出た。
◆
朝の食堂に四人がいた。
ケイ。ジン。フウ。サトル。それにもう一人——アリスが、長椅子の端に座っていた。昨日の評議のあと、首都に残っていた。今朝の打ち合わせのために、サトルが声をかけたのだ。
扉が開いた。
イブが立っていた。
「おはようございます」
いつもの挨拶だった。声の高さもいつも通りだった。
ただ、笑っていなかった。
ケイは、スプーンを置いた。
——いつもと違う。
イブが机のそばまで来た。椅子は引かなかった。座らなかった。立ったまま、両手を体の前で軽く合わせた。
「聞いてほしいことが、あります」
フウが顔を上げた。サトルの手が止まった。
イブはケイを見た。それから一人ずつ、順に見た。最後にアリスを見た。
「私は——転移者じゃないんです」
静寂。
フウが口を開いた。何も言わずに、また閉じた。
「私をここへ送った人たちがいます」
イブの声は低かった。砕けてもいなかった。いつもの調子が消えていた。
「私の役目は、ケイさんを見ていることでした。何を話したか。何ができるか。どこへ行ったか。——ぜんぶ、向こうに伝えていました。哨戒も、食堂も。最初からずっとです」
ケイは動かなかった。
胸の奥が、ひとつ鈍く鳴った。
——やはり。
驚きではなかった。いつからか、ずっと引っかかっていた。その引っかかりがいま、イブ自身の口で言葉になった。それだけだった。
「……スパイ、ってこと?」
フウだった。声が小さかった。
「うん」
イブが頷いた。フウをまっすぐ見た。
「ごめんね、フウちゃん」
フウは何も言わなかった。膝の上で、両手を握っていた。
ジンが立ち上がっていた。盾は持っていない。それでも手が、腰のあたりで留め金を探すように動いて——止まった。
ジンは何も言わなかった。ただ、イブを見ていた。
サトルが眼鏡に指をやった。外さなかった。かけ直しもしなかった。ただ、指をフレームに添えたまま動かさなかった。
「……どうして、いまになって」
サトルが言った。
イブはすぐには答えなかった。
アリスを見た。
アリスは長椅子に座ったまま、イブを見ていた。表情は変わっていなかった。聖詔者の顔だった。
それから、アリスが口を開いた。
「わかっていました」
イブの肩がわずかに動いた。
「最初から、です」
アリスはゆっくりと立ち上がった。
「気づいていて、黙っていました。問い詰めることもできました。でも、しませんでした。——あなたが自分で決めるまで。待っていたんです」
イブが唇を噛んだ。
「昨日、お伝えしたとおりです」アリスが言った。「答え合わせをするつもりは、ありませんでした。だから——あなたが自分で来てくれて。よかった」
アリスは笑わなかった。
ただ、声が最後だけ少し低くなった。ふだんの聖詔者の声ではなかった。
イブが下を向いた。
一度。それから顔を上げた。
「だから、来たんです」
ケイを見た。
「ケイさんが危ないから」
ケイがイブを見返した。
「今朝、指令が来ました」イブが言った。「ケイさんを回収すると」
「回収」
サトルが繰り返した。低い声だった。
「私にも、ぜんぶはわかりません」イブが言った。「でも——アキラさんのことを思い出してください」
ケイの頭に、あの日の草原がよぎった。鎧も剣も荷物も消えて——踏み倒された草だけが残っていた。
部屋がまた静かになった。
フウの肩が動いた。
「跡形なく消えた」イブが言った。「転移者の消え方だった。——ジンさんが、そう報告したはずです」
ジンの目がわずかに伏せられた。
「でも、あれは元の世界に戻ったんじゃありません」
イブの声がほんの少し震えた。
「回収、されたんです」
ジンが口を開いた。
「——自分が、上げた報告だ」
それ以上は、言わなかった。
◆
ケイはしばらく黙っていた。
イブの言葉を、頭の中でもう一度置き直した。回収。アキラ。戻ったのではない。——順番に並べた。並べても取り乱しはしなかった。ただ、ひとつだけ確かめておきたいことがあった。
「一つ、聞きたい」
「はい」
「チップだ」
ケイはイブを見た。
「ない。最初から、ない。アキラにもなかった。サトルが図を出した——本来チップがあるはずの場所に、空白の丸を」
「……はい」
「アリスにも、たぶんない。確かめていないだけだ」
イブは答えなかった。すぐには。
ケイが続けた。
「教えてくれ。チップは——どこにある」
イブがケイを見た。
それから、ほんの少しだけ笑った。ふだんの前のめりの笑い方ではなかった。泣くのに近い笑い方だった。
「ケイさん」
「ああ」
「チップなんて——最初から、ないんですよ」
ケイは動かなかった。
「誰にも、です」イブが言った。「ジンさんにも。サトル先生にも。フウちゃんにも。アリス様にも。——最初から一度も、ありません。あると思わされていただけ」
サトルの指が眼鏡から離れた。
フウが自分の首の後ろに手を当てた。何もなかった。当たり前のように、何もなかった。
ジンは動かなかった。
ケイは窓の外を見た。
空が白から青に変わりかけている。鳥が一羽、鳴いた。朝になっていた。
ケイは息を吐いた。
ずっと前——チップが当たり前の時代から、自分だけがそれを知らなかった。あのとき、意味することは一つだと思った。
——違った。一つではなかった。
指先の感覚が、少しだけ遠かった。
「……これから、どうなるの」
フウが言った。誰にともなく。
返事はなかった。
イブだけがケイを見ていた。
「ケイさん。全部、話します。私の知っていること。——でも、その前に」
イブが半分だけ開いたままの扉を見た。
「時間が、ないんです」




