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Episode 29|告白


 イブは、誰も起きていない時間に目を覚ました。


 窓の外。空が白くなりかけている。鳥の声もまだない。


 寝台の縁に座った。膝に手を置いた。しばらく動かなかった。


 待っていた。何を待つのかは考えなかった。考えなくてもわかっていた。


 ——来る。


 そう思った瞬間、来た。


 声ではない。文字でもない。意味が直接頭の中に置かれていく。


 転移者のチップ通信とは違う。あれにはまだ、人の手触りがある。送り手の息づかいのようなものが残っている。これはちがう。冷たい。順序よく、隙間なく積み上がっていく。


『対象、ケイ』


 イブの指が、膝の上で止まった。


『回収準備に移行する。次の哨戒で対象の行動範囲を狭めること。退路を把握すること』


『準備が整いしだい、回収部隊を派遣する。報告はこれまで通り続けよ』


 意味が置かれ終わった。


 部屋が静かだった。


 送ってきたのは、いつもの相手だ。顔を見たことはない。声を聞いたこともない。指示が届いて、報告を返す。この世界に来てから、ずっとそれだけの関係だった。逆らったことは、一度もない。


 イブは息を吐いた。


 ——回収。


 その言葉なら、教わっていた。手順も覚えた。対象をしかるべき場所へ戻す——任務の言葉だ。


 教わっていたときは、ただの言葉だった。


 自分の手でしたことはない。一度も。


 馬車の空席を思い出した。


 誰も座らなかった席。アキラという名前が、もうどこにも要らなくなった日。あのとき自分は、何も言わなかった。配られた書類の同じ場所で、目だけが止まっていた。


 サトルの工房の半分だけ開いた扉も思い出した。フウのひと月前より高くなった笑い声も。それから、昨日のアリスの声も。


『答え合わせをするつもりは、ありません』


 あの人は気づいていた。気づいていて、追い詰めなかった。逃げ道をふさがなかった。


『今日お引き止めしたのは、それをお伝えするためです』


 イブは立ち上がった。


 膝がわずかに震えていた。気づかないふりをした。


 ——もう一つ、空席を作る側には回れない。


 それだけを決めた。


 扉を開けた。


 閉めなかった。半分だけ開けたままにして、廊下に出た。




 朝の食堂に四人がいた。


 ケイ。ジン。フウ。サトル。それにもう一人——アリスが、長椅子の端に座っていた。昨日の評議のあと、首都に残っていた。今朝の打ち合わせのために、サトルが声をかけたのだ。


 扉が開いた。


 イブが立っていた。


「おはようございます」


 いつもの挨拶だった。声の高さもいつも通りだった。


 ただ、笑っていなかった。


 ケイは、スプーンを置いた。


 ——いつもと違う。


 イブが机のそばまで来た。椅子は引かなかった。座らなかった。立ったまま、両手を体の前で軽く合わせた。


「聞いてほしいことが、あります」


 フウが顔を上げた。サトルの手が止まった。


 イブはケイを見た。それから一人ずつ、順に見た。最後にアリスを見た。


「私は——転移者じゃないんです」


 静寂。


 フウが口を開いた。何も言わずに、また閉じた。


「私をここへ送った人たちがいます」


 イブの声は低かった。砕けてもいなかった。いつもの調子が消えていた。


「私の役目は、ケイさんを見ていることでした。何を話したか。何ができるか。どこへ行ったか。——ぜんぶ、向こうに伝えていました。哨戒も、食堂も。最初からずっとです」


 ケイは動かなかった。


 胸の奥が、ひとつ鈍く鳴った。


 ——やはり。


 驚きではなかった。いつからか、ずっと引っかかっていた。その引っかかりがいま、イブ自身の口で言葉になった。それだけだった。


「……スパイ、ってこと?」


 フウだった。声が小さかった。


「うん」


 イブが頷いた。フウをまっすぐ見た。


「ごめんね、フウちゃん」


 フウは何も言わなかった。膝の上で、両手を握っていた。


 ジンが立ち上がっていた。盾は持っていない。それでも手が、腰のあたりで留め金を探すように動いて——止まった。


 ジンは何も言わなかった。ただ、イブを見ていた。


 サトルが眼鏡に指をやった。外さなかった。かけ直しもしなかった。ただ、指をフレームに添えたまま動かさなかった。


「……どうして、いまになって」


 サトルが言った。


 イブはすぐには答えなかった。


 アリスを見た。


 アリスは長椅子に座ったまま、イブを見ていた。表情は変わっていなかった。聖詔者の顔だった。


 それから、アリスが口を開いた。


「わかっていました」


 イブの肩がわずかに動いた。


「最初から、です」


 アリスはゆっくりと立ち上がった。


「気づいていて、黙っていました。問い詰めることもできました。でも、しませんでした。——あなたが自分で決めるまで。待っていたんです」


 イブが唇を噛んだ。


「昨日、お伝えしたとおりです」アリスが言った。「答え合わせをするつもりは、ありませんでした。だから——あなたが自分で来てくれて。よかった」


 アリスは笑わなかった。


 ただ、声が最後だけ少し低くなった。ふだんの聖詔者の声ではなかった。


 イブが下を向いた。


 一度。それから顔を上げた。


「だから、来たんです」


 ケイを見た。


「ケイさんが危ないから」


 ケイがイブを見返した。


「今朝、指令が来ました」イブが言った。「ケイさんを回収すると」


「回収」


 サトルが繰り返した。低い声だった。


「私にも、ぜんぶはわかりません」イブが言った。「でも——アキラさんのことを思い出してください」


 ケイの頭に、あの日の草原がよぎった。鎧も剣も荷物も消えて——踏み倒された草だけが残っていた。


 部屋がまた静かになった。


 フウの肩が動いた。


「跡形なく消えた」イブが言った。「転移者の消え方だった。——ジンさんが、そう報告したはずです」


 ジンの目がわずかに伏せられた。


「でも、あれは元の世界に戻ったんじゃありません」


 イブの声がほんの少し震えた。


「回収、されたんです」


 ジンが口を開いた。


「——自分が、上げた報告だ」


 それ以上は、言わなかった。




 ケイはしばらく黙っていた。


 イブの言葉を、頭の中でもう一度置き直した。回収。アキラ。戻ったのではない。——順番に並べた。並べても取り乱しはしなかった。ただ、ひとつだけ確かめておきたいことがあった。


「一つ、聞きたい」


「はい」


「チップだ」


 ケイはイブを見た。


「ない。最初から、ない。アキラにもなかった。サトルが図を出した——本来チップがあるはずの場所に、空白の丸を」


「……はい」


「アリスにも、たぶんない。確かめていないだけだ」


 イブは答えなかった。すぐには。


 ケイが続けた。


「教えてくれ。チップは——どこにある」


 イブがケイを見た。


 それから、ほんの少しだけ笑った。ふだんの前のめりの笑い方ではなかった。泣くのに近い笑い方だった。


「ケイさん」


「ああ」


「チップなんて——最初から、ないんですよ」


 ケイは動かなかった。


「誰にも、です」イブが言った。「ジンさんにも。サトル先生にも。フウちゃんにも。アリス様にも。——最初から一度も、ありません。あると思わされていただけ」


 サトルの指が眼鏡から離れた。


 フウが自分の首の後ろに手を当てた。何もなかった。当たり前のように、何もなかった。


 ジンは動かなかった。


 ケイは窓の外を見た。


 空が白から青に変わりかけている。鳥が一羽、鳴いた。朝になっていた。


 ケイは息を吐いた。


 ずっと前——チップが当たり前の時代から、自分だけがそれを知らなかった。あのとき、意味することは一つだと思った。


 ——違った。一つではなかった。


 指先の感覚が、少しだけ遠かった。


「……これから、どうなるの」


 フウが言った。誰にともなく。


 返事はなかった。


 イブだけがケイを見ていた。


「ケイさん。全部、話します。私の知っていること。——でも、その前に」


 イブが半分だけ開いたままの扉を見た。


「時間が、ないんです」


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