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28/52

Episode 28|待つ


 朝の光が、窓の縁を、ゆっくり進んでいた。


 アリスは、机に向かっていた。手元の書類。教団からの定例報告。三枚。署名欄が空いている。


 ペンを取った。署名の二画目で、手が一拍止まった。


 窓の外、廊下の方で、足音がした。軽い。短い。


 ミアだ。


「失礼します」


 ノックの音。低い。三回。


「どうぞ」


 ドアが、開いた。


 ミアが入ってきた。両手に書類の束。


 背は、アリスより少し低い。髪は、濃い茶色。襟の白線は、見習い用。


「おはようございます、アリス様」


「おはようございます」


 ミアは、机の端に書類を置いた。揃え直した。


 もう一度、揃え直した。


「すみません。先ほど、二度、揃えました」


「ええ、気づきましたよ」


 ミアの肩が、少し下がった。


「私で、大丈夫でしょうか」


「大丈夫ですよ」


 アリスは、答えた。ペンを置いた。


「今日、ケイさん方が、宰相様への報告に、おいでになるそうですね」


 アリスの手が、書類の上で一拍止まった。


「……はい」


 ミアが、続けた。


「先ほど、神殿の入口にお名前が届きました。ケイ様、ジン様、サトル様、フウ様、イブ様」


「ヴェリタス教団より、聖詔者として、評議の間に立ち会うように、と」


「ええ。先ほど伺いました」


 ミアが、頷いた。


「ご一緒、してもよろしいでしょうか」


「来てくださいね」


「はい」


 ミアは、頭を下げた。もう一度、頭を下げた。


 ドアが閉まった。


 静かに。


 アリスは、ペンを取り直した。署名の続き。二画目から。


 手は、もう止まらなかった。


 ——イブは、いつから、何を知っていたのか。


 聞こうとして、やめた。


 前回、ケイとの話の中で、同じ問いが出ていた。


 答えは、出なかった。


 今日も、出るとは、思えない。


 だから、聞かない。


 ——確認できたとは、言えない。だが、なかったとは、まだ、言えない。


 書類の三枚目に、署名を入れた。


 顔を上げた。


 窓の外、廊下の影が、少し伸びていた。




 評議の間に、宰相が先に着いていた。


 机の上座。両脇に、文官が二人。


 アリスは、宰相の右側の席に着いた。聖詔者の証明者としての席。


 ミアは、その後ろの椅子に控えて座った。書類を、膝の上に揃えて置いた。


 ほどなく、扉が開いた。


 ケイが、先頭で入ってきた。次にサトル、ジン、フウ、最後にイブ。


 五人が、宰相の前に整列した。


「報告を聞こう」


 宰相が、言った。


「は」


 サトルが、先に話した。哨戒範囲の地図。エラントの密度の動向。三カ所で減少。一カ所で横ばい。


 文官の一人が、地図の上で印を動かした。


 ケイが続けて短く補足した。「南西は、もう、ない」


 ジンが「異常はない」


 フウが「ざわざわは、ない」


 それぞれ、いつもの長さだった。


 イブの番。


「私からも、いいですか」


「申せ」


 宰相が、短く頷いた。


「西側の哨戒、二回、行きました。一回目は北寄り、二回目は南寄りです。足跡がありました。たぶん、二日前。雨の前です」


 イブは、指を、卓上の地図に置いた。


 触れる、その手前で止まった。


「ここから、ここまで」


 指は触れずに、空中で一筋なぞった。


「歩幅から、たぶん、四匹」


 アリスは、その指を見ていた。


 触れる手前で止まる、その所作。


 自分のものに、似ていた。


 いや。


 自分のものと、同じだった。


 ——構造を確認する者の、止め方だ。


 そう、思った。


 声には、出さなかった。


 新参の哨戒役が、教団の所作と同じ止め方を、する。


 偶然、かもしれない。


 偶然でないなら、誰かに、習ったのだ。


 誰に。


 いつ。


 宰相が、文官の方を向いた。


「記録しておけ」


「承知」


 文官が、筆を走らせた。


 宰相が、こちらに視線を移した。


「聖詔者様、ヴェリタス教団として、相違は」


「ございません」


 アリスは、答えた。


「報告内容、記録の通りで、相違ございません」


「結構」


 宰相が、椅子から立ち上がった。


「報告、ご苦労」


「は」


 五人が、ほぼ同時に頭を下げた。


 イブの下げ方の角度は、サトルとほぼ同じだった。


 深さの揃え方が、新参にしては、少し揃いすぎていた。


 ——いつ、覚えたのか。


 覚える機会は、あったはずだ。


 だが、揃え方は、見ただけでは揃わない。


 宰相が、文官を連れて扉に向かった。


 扉が開く。扉が閉まる。


 廊下の足音が、遠ざかった。


 部屋には、ケイたち五人と、アリスと、ミアが残った。




「サトル様」


 アリスは、席から立ち上がった。


「ヴェリタス教団として、地図の写しを、いただきたく」


「あ、はい。すぐお出しします」


 サトルが、机の端に近づいた。


 ケイとジンとフウは、扉のほうへ歩き始めた。


 イブも、それに続こうとした。


「イブさん」


 アリスは、座ったまま声をかけた。


 名指しは、しないつもりだった。


 だが、声にわずかな重さが乗った。


 乗ったことに、アリスは後から気づいた。


 イブが、足を止めた。


 振り向いて、首を少しだけ傾けた。


 笑っていた。


 笑い方は、いつもの前のめりの笑い方ではなかった。


 聖詔者を前にしているから、控えたように、見せている。


 そう、見せたい、のだろう。


「少しだけ、お時間をいただけますか」


 言ったあとで、アリスは思い出した。


 かつて、同じことを別の人に言ったことがある。


 工房のドアの前で。


 ケイに、言った。


 ずっと前のことだ。


 あのときも、同じ声の置き方だった、と思う。


「あ、はい。大丈夫です」


 イブは、明るく答えた。


 答えるまでの間が、ほんの少し短かった。


 短すぎ、ない。だが、考えた痕跡がなかった。


 ケイが、出て行きかけていた。


 振り返らなかった。


 だが、肩の角度が少し変わった。


 待つ姿勢に変わった、とわかった。


 変わって、それから出て行った。


 扉は、半分だけ開いたままになっていた。


 サトルが、地図の写しを、机の端に置いた。


「あとで、お届けに」


「お願いします」


 サトルが出て行った。


 ミアが、書類を揃えた。


 揃えてから、視線をアリスに向けた。


 アリスは、頷いた。


 ミアが出て行った。


 扉を、静かに閉めた。


 閉めたあとに一拍置いてから、廊下の足音が遠ざかった。


 イブと、二人になった。


 向かい合わせではなかった。


 イブは、入口に近い椅子に立ったまま、片手を椅子の背に置いていた。




「お疲れのところを」


「いえいえ」


 イブが、笑った。


 今度の笑い方は、少しだけ前のめりだった。


 前のめりの幅は、いつもより浅かった。


「ハストゥラには、もう、慣れましたか」


「あ、はい。だいぶ」


「どのあたりが」


「えーと……」


 イブは、視線を少し上に向けた。


 天井ではなく、窓の上の欄間のあたり。


「人が多いところとか。あと、市場の香辛料の匂い」


「最近は、たまに。サトル先生に地図、もらって」


「役に、立ちますか」


「すごく」


 即答だった。


 アリスは、頷いた。


 机の端の湯呑みの縁を、指で軽くなぞった。


 触れた。


 触れた指を、卓の上で止めた。


「西側の哨戒、お一人で」


「最近は、そうですね」


「足跡、二日前、と、おっしゃっていました」


「あ、はい」


「歩幅で、四匹」


「はい」


「お見立て、確かでしたか」


「たぶん」


 アリスは、目を伏せた。


 湯呑みの中の湯気が、ゆっくり上っていた。


 顔の前を、薄い線が横切った。


「私は、構造を読みません」


 アリスは、言った。


「私ができるのは、確認、だけです」


「あ、はい」


「いま、いただいた地図のお話を、私の中で整える、と」


 アリスは、少しだけ間を置いた。


「ご報告のとおりで合っている、と、思います」


「よかった」


 イブが、笑った。


 笑い方の前のめりが、いつもの幅に戻った。


 戻ったところで、アリスは視線を上げた。


 イブの目を、見た。


 ——わかっている。ほとんど、わかっている。


 だが、確証だけが、ない。


「正確には、言えませんが」


 アリスは、続けた。


「ご報告に、出ていないことが、ある、と、思います」


 イブの笑顔は、消えなかった。


 口の端の角度が、変わらなかった。


 変わらないことが、わずかに変わっていた。


「えっと、それは」


「いえ」


 アリスは、首を横に振った。


「いまの私の力では、それ以上は言えません」


「……はい」


「答え合わせをするつもりは、ありません」


 あなたが、誰か。


 あなたが、何を知っているか。


 今日、それを問うために、引き止めたのではない。


「はい」


「今日お引き止めしたのは、それをお伝えするためです」


 知っていることを、知っている、と。


 ただ、それだけだった。


「……はい」


 イブは、笑っていた。


 笑い方は、変わっていなかった。


 イブの呼吸の、ひと刻みが、揃いすぎた。


 吸う長さと、吐く長さが、同じになった。


 ふだんは、そうではなかった。


 椅子の背に置いた手の指が、ほんの一拍、短く動いた。


 椅子の木目を、一度だけ軽く撫でた。


 それだけだった。


「お時間、ありがとうございました」


 アリスは、頭を下げた。


 イブも、下げた。


 深さは、来たときとほぼ同じだった。


「失礼します」


 イブが、扉に向かった。


 半分開いたままの扉を、自分の手で、もう少し開けた。


 出て行った。


 扉を、閉めなかった。




 ミアが、戻ってきた。


 ノックは、しなかった。


 扉が半分開いていたからだ。


「アリス様」


「ええ」


「お茶器、お下げします」


「お願いします」


 ミアが、湯呑みを揃えて盆にのせた。


 五人分と、自分の分。


 イブの湯呑みが、ほぼ半分減っていた。


 ほぼ、サトルと同じ量だった。


「アリス様」


「ええ」


「あの方、よく笑う方ですね」


「ええ」


 アリスは、答えた。


 それ以上は、言わなかった。


 ミアも、それ以上は聞かなかった。


 聞かないでくれたことが、いまはありがたかった。


 俯くときの、ミアの肩の落ち方が、目に入った。


 ——昔の、自分の肩だ。


 声には、出さなかった。


 ミアが、頭を下げた。


「あの、午後の祈祷の準備、進めておきますね」


「お願いします」


 盆を持って、出て行った。


 扉が閉まる音。


 小さい。




 アリスは、机に戻った。


 署名の終わった三枚を、揃えた。


 揃えた書類の端を、指で軽く撫でた。


 撫でて、止まった。


 触れる手前ではなかった。


 触れていた。


 ——確認できたとは、言えない。


 声には、出さなかった。


 ——だが、なかったとは、まだ、言えない。


 窓の外の光が、もう一段進んでいた。


 朝の光ではなかった。


 昼の光に変わりかけていた。


 ——気づいた、と、言ってしまえば、それで、終わる。


 アリスは、ペンを置いた。


 机に、両手を軽く重ねた。


 ケイの肩の角度を、思い出した。


 振り返らずに待っていた、あの角度を。


 ——だから、待つ。


 答えを、急がない。


 イブが、何を企てているとしても。


 その時が、来るまで、見届ける。


 そう、決めたのだ。


 たぶん、もう、ずっと前に。


 今日、もう一度、決めた、というだけのことだ。


 廊下の遠くのほうで、軽い足音が聞こえた。


 イブの足音ではなかった。


 イブの足音は、聞こえなかった。


 聞こえないことは、いつものことだった。


 アリスは、目を伏せた。


 窓の外を見るのを、やめた。


 理由は、考えなかった。


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