Episode 28|待つ
◆
朝の光が、窓の縁を、ゆっくり進んでいた。
アリスは、机に向かっていた。手元の書類。教団からの定例報告。三枚。署名欄が空いている。
ペンを取った。署名の二画目で、手が一拍止まった。
窓の外、廊下の方で、足音がした。軽い。短い。
ミアだ。
「失礼します」
ノックの音。低い。三回。
「どうぞ」
ドアが、開いた。
ミアが入ってきた。両手に書類の束。
背は、アリスより少し低い。髪は、濃い茶色。襟の白線は、見習い用。
「おはようございます、アリス様」
「おはようございます」
ミアは、机の端に書類を置いた。揃え直した。
もう一度、揃え直した。
「すみません。先ほど、二度、揃えました」
「ええ、気づきましたよ」
ミアの肩が、少し下がった。
「私で、大丈夫でしょうか」
「大丈夫ですよ」
アリスは、答えた。ペンを置いた。
「今日、ケイさん方が、宰相様への報告に、おいでになるそうですね」
アリスの手が、書類の上で一拍止まった。
「……はい」
ミアが、続けた。
「先ほど、神殿の入口にお名前が届きました。ケイ様、ジン様、サトル様、フウ様、イブ様」
「ヴェリタス教団より、聖詔者として、評議の間に立ち会うように、と」
「ええ。先ほど伺いました」
ミアが、頷いた。
「ご一緒、してもよろしいでしょうか」
「来てくださいね」
「はい」
ミアは、頭を下げた。もう一度、頭を下げた。
ドアが閉まった。
静かに。
アリスは、ペンを取り直した。署名の続き。二画目から。
手は、もう止まらなかった。
——イブは、いつから、何を知っていたのか。
聞こうとして、やめた。
前回、ケイとの話の中で、同じ問いが出ていた。
答えは、出なかった。
今日も、出るとは、思えない。
だから、聞かない。
——確認できたとは、言えない。だが、なかったとは、まだ、言えない。
書類の三枚目に、署名を入れた。
顔を上げた。
窓の外、廊下の影が、少し伸びていた。
◆
評議の間に、宰相が先に着いていた。
机の上座。両脇に、文官が二人。
アリスは、宰相の右側の席に着いた。聖詔者の証明者としての席。
ミアは、その後ろの椅子に控えて座った。書類を、膝の上に揃えて置いた。
ほどなく、扉が開いた。
ケイが、先頭で入ってきた。次にサトル、ジン、フウ、最後にイブ。
五人が、宰相の前に整列した。
「報告を聞こう」
宰相が、言った。
「は」
サトルが、先に話した。哨戒範囲の地図。エラントの密度の動向。三カ所で減少。一カ所で横ばい。
文官の一人が、地図の上で印を動かした。
ケイが続けて短く補足した。「南西は、もう、ない」
ジンが「異常はない」
フウが「ざわざわは、ない」
それぞれ、いつもの長さだった。
イブの番。
「私からも、いいですか」
「申せ」
宰相が、短く頷いた。
「西側の哨戒、二回、行きました。一回目は北寄り、二回目は南寄りです。足跡がありました。たぶん、二日前。雨の前です」
イブは、指を、卓上の地図に置いた。
触れる、その手前で止まった。
「ここから、ここまで」
指は触れずに、空中で一筋なぞった。
「歩幅から、たぶん、四匹」
アリスは、その指を見ていた。
触れる手前で止まる、その所作。
自分のものに、似ていた。
いや。
自分のものと、同じだった。
——構造を確認する者の、止め方だ。
そう、思った。
声には、出さなかった。
新参の哨戒役が、教団の所作と同じ止め方を、する。
偶然、かもしれない。
偶然でないなら、誰かに、習ったのだ。
誰に。
いつ。
宰相が、文官の方を向いた。
「記録しておけ」
「承知」
文官が、筆を走らせた。
宰相が、こちらに視線を移した。
「聖詔者様、ヴェリタス教団として、相違は」
「ございません」
アリスは、答えた。
「報告内容、記録の通りで、相違ございません」
「結構」
宰相が、椅子から立ち上がった。
「報告、ご苦労」
「は」
五人が、ほぼ同時に頭を下げた。
イブの下げ方の角度は、サトルとほぼ同じだった。
深さの揃え方が、新参にしては、少し揃いすぎていた。
——いつ、覚えたのか。
覚える機会は、あったはずだ。
だが、揃え方は、見ただけでは揃わない。
宰相が、文官を連れて扉に向かった。
扉が開く。扉が閉まる。
廊下の足音が、遠ざかった。
部屋には、ケイたち五人と、アリスと、ミアが残った。
◆
「サトル様」
アリスは、席から立ち上がった。
「ヴェリタス教団として、地図の写しを、いただきたく」
「あ、はい。すぐお出しします」
サトルが、机の端に近づいた。
ケイとジンとフウは、扉のほうへ歩き始めた。
イブも、それに続こうとした。
「イブさん」
アリスは、座ったまま声をかけた。
名指しは、しないつもりだった。
だが、声にわずかな重さが乗った。
乗ったことに、アリスは後から気づいた。
イブが、足を止めた。
振り向いて、首を少しだけ傾けた。
笑っていた。
笑い方は、いつもの前のめりの笑い方ではなかった。
聖詔者を前にしているから、控えたように、見せている。
そう、見せたい、のだろう。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
言ったあとで、アリスは思い出した。
かつて、同じことを別の人に言ったことがある。
工房のドアの前で。
ケイに、言った。
ずっと前のことだ。
あのときも、同じ声の置き方だった、と思う。
「あ、はい。大丈夫です」
イブは、明るく答えた。
答えるまでの間が、ほんの少し短かった。
短すぎ、ない。だが、考えた痕跡がなかった。
ケイが、出て行きかけていた。
振り返らなかった。
だが、肩の角度が少し変わった。
待つ姿勢に変わった、とわかった。
変わって、それから出て行った。
扉は、半分だけ開いたままになっていた。
サトルが、地図の写しを、机の端に置いた。
「あとで、お届けに」
「お願いします」
サトルが出て行った。
ミアが、書類を揃えた。
揃えてから、視線をアリスに向けた。
アリスは、頷いた。
ミアが出て行った。
扉を、静かに閉めた。
閉めたあとに一拍置いてから、廊下の足音が遠ざかった。
イブと、二人になった。
向かい合わせではなかった。
イブは、入口に近い椅子に立ったまま、片手を椅子の背に置いていた。
◆
「お疲れのところを」
「いえいえ」
イブが、笑った。
今度の笑い方は、少しだけ前のめりだった。
前のめりの幅は、いつもより浅かった。
「ハストゥラには、もう、慣れましたか」
「あ、はい。だいぶ」
「どのあたりが」
「えーと……」
イブは、視線を少し上に向けた。
天井ではなく、窓の上の欄間のあたり。
「人が多いところとか。あと、市場の香辛料の匂い」
「最近は、たまに。サトル先生に地図、もらって」
「役に、立ちますか」
「すごく」
即答だった。
アリスは、頷いた。
机の端の湯呑みの縁を、指で軽くなぞった。
触れた。
触れた指を、卓の上で止めた。
「西側の哨戒、お一人で」
「最近は、そうですね」
「足跡、二日前、と、おっしゃっていました」
「あ、はい」
「歩幅で、四匹」
「はい」
「お見立て、確かでしたか」
「たぶん」
アリスは、目を伏せた。
湯呑みの中の湯気が、ゆっくり上っていた。
顔の前を、薄い線が横切った。
「私は、構造を読みません」
アリスは、言った。
「私ができるのは、確認、だけです」
「あ、はい」
「いま、いただいた地図のお話を、私の中で整える、と」
アリスは、少しだけ間を置いた。
「ご報告のとおりで合っている、と、思います」
「よかった」
イブが、笑った。
笑い方の前のめりが、いつもの幅に戻った。
戻ったところで、アリスは視線を上げた。
イブの目を、見た。
——わかっている。ほとんど、わかっている。
だが、確証だけが、ない。
「正確には、言えませんが」
アリスは、続けた。
「ご報告に、出ていないことが、ある、と、思います」
イブの笑顔は、消えなかった。
口の端の角度が、変わらなかった。
変わらないことが、わずかに変わっていた。
「えっと、それは」
「いえ」
アリスは、首を横に振った。
「いまの私の力では、それ以上は言えません」
「……はい」
「答え合わせをするつもりは、ありません」
あなたが、誰か。
あなたが、何を知っているか。
今日、それを問うために、引き止めたのではない。
「はい」
「今日お引き止めしたのは、それをお伝えするためです」
知っていることを、知っている、と。
ただ、それだけだった。
「……はい」
イブは、笑っていた。
笑い方は、変わっていなかった。
イブの呼吸の、ひと刻みが、揃いすぎた。
吸う長さと、吐く長さが、同じになった。
ふだんは、そうではなかった。
椅子の背に置いた手の指が、ほんの一拍、短く動いた。
椅子の木目を、一度だけ軽く撫でた。
それだけだった。
「お時間、ありがとうございました」
アリスは、頭を下げた。
イブも、下げた。
深さは、来たときとほぼ同じだった。
「失礼します」
イブが、扉に向かった。
半分開いたままの扉を、自分の手で、もう少し開けた。
出て行った。
扉を、閉めなかった。
◆
ミアが、戻ってきた。
ノックは、しなかった。
扉が半分開いていたからだ。
「アリス様」
「ええ」
「お茶器、お下げします」
「お願いします」
ミアが、湯呑みを揃えて盆にのせた。
五人分と、自分の分。
イブの湯呑みが、ほぼ半分減っていた。
ほぼ、サトルと同じ量だった。
「アリス様」
「ええ」
「あの方、よく笑う方ですね」
「ええ」
アリスは、答えた。
それ以上は、言わなかった。
ミアも、それ以上は聞かなかった。
聞かないでくれたことが、いまはありがたかった。
俯くときの、ミアの肩の落ち方が、目に入った。
——昔の、自分の肩だ。
声には、出さなかった。
ミアが、頭を下げた。
「あの、午後の祈祷の準備、進めておきますね」
「お願いします」
盆を持って、出て行った。
扉が閉まる音。
小さい。
◆
アリスは、机に戻った。
署名の終わった三枚を、揃えた。
揃えた書類の端を、指で軽く撫でた。
撫でて、止まった。
触れる手前ではなかった。
触れていた。
——確認できたとは、言えない。
声には、出さなかった。
——だが、なかったとは、まだ、言えない。
窓の外の光が、もう一段進んでいた。
朝の光ではなかった。
昼の光に変わりかけていた。
——気づいた、と、言ってしまえば、それで、終わる。
アリスは、ペンを置いた。
机に、両手を軽く重ねた。
ケイの肩の角度を、思い出した。
振り返らずに待っていた、あの角度を。
——だから、待つ。
答えを、急がない。
イブが、何を企てているとしても。
その時が、来るまで、見届ける。
そう、決めたのだ。
たぶん、もう、ずっと前に。
今日、もう一度、決めた、というだけのことだ。
廊下の遠くのほうで、軽い足音が聞こえた。
イブの足音ではなかった。
イブの足音は、聞こえなかった。
聞こえないことは、いつものことだった。
アリスは、目を伏せた。
窓の外を見るのを、やめた。
理由は、考えなかった。




