Episode 27|順序
◆
アリスは、いつもより早く目を覚ました。
眠りが、浅かった。
夢を見ていたはずだが、覚えていなかった。
覚えていない、ということだけが、残っていた。
朝の祈祷を終え、執務室に戻った。
窓の外は、もう明るい。
机の上に、昨日のうちに教団の記録室から持ち出してきた一冊が置かれていた。
ミアが「お先に出しておきました」と書いた紙が、表紙の上にのっている。
席に着いた。
表紙を開いた。
霧の事件の後、教団がまとめた記録の一冊だった。
ヴェリタス教団は、土地に起きた異常を必ず記録に残す。
あの事件も、例外ではなかった。
中ほどの頁を開いた。
二色の線で組まれた図がある。
あの霧の構造を、後から書き残したものだ。
書いたのは、自分だった。
教団に頼まれ、戦闘の翌週に提出した。
外側の縁までは、書けた。
内側の本体は、書ききれなかった。
書ききれない、と注釈を残してあった。
アリスは、この図を、もう何度も見直していた。
今朝も、見た。
昨日も、見た。
一昨日も、見た。
その前も。
外側の線は、読める。
あのとき、自分が認証した縁の構造だ。
手応えが、ある。
だが、内側に入ると、線が読めなくなる。
ケイが組んだ鍵の本体の部分だ。
目を閉じて、構造を辿った。
外側の縁までは、行ける。
その先で、いつも止まる。
触れる手前で、止まる。
あのとき、自分が認証できたのは、外側の縁だけだった。
書けたのも、そこまでだった。
鍵そのものを、自分は、知らない。
——一人では、無理だ。
その自覚が来た。
来たことが、めずらしかった。
今までは、自分の側でできる分だけで満足していた。
届けた。
声ではない。
体内チップを介した、通話だった。
ケイに、だった。
——お時間、いただけますか。
短かった。
それ以上は送らなかった。
返事は、すぐには来なかった。
しばらく経った。
ケイから、届いた。
——わかった。
短い。
それきりだった。
返事の前の一拍が、いつもより長かった。
——少し、遅かった。
声には、出さなかった。
◆
ケイは、半刻ほどで来た。
扉を叩いてから、入ってきた。
扉を閉めたあと、一度だけ、廊下の方に視線が戻った。
戻ったことに、本人は気づいていないようだった。
夜の疲れが、顔に残っていた。
残っているが、消そうとしていた。
アリスには、そう見えた。
「すみません、急に」
「いや」
ケイは、立ったまま、机の脇に来た。
立ち止まる前に、窓の外を、一度、確かめていた。
そういう動きが、最近、増えた気がした。
「霧の記録なのです」
表紙を見せた。
ケイの目が、一瞬だけ止まった。
「あのときの」
「はい」
ケイは、小さく頷いた。
「もう一度、構造を、見せていただけませんか」
アリスは、続けた。
「外側の縁は、私の側で読めます。あのときと同じです。けれど、内側の鍵の本体が、私には、読めないままなのです」
言いながら、頁を開いた。
線の図を指した。
ここまで、と指で囲った。
その先には、触れなかった。
触れる手前で、止めた。
「触ろうとしても、止まります」
「そうだろうな」
「自分の手で確かめておきたいのです。あの日、自分が証明したものが、何だったのか」
ケイは、少しの間、何も言わなかった。
それから、
「分かった」
と言った。
「記録室の方が広い。持っていこう」
「はい」
◆
教団の記録室は、神殿の奥にあった。
窓は、高い位置にひとつだけある。
昼の光が、机の半分まで届いていた。
机の上に、冊子を広げた。
線の図を、中央に置いた。
ケイが、片側に立った。
アリスは、反対側に回ろうとして、止めた。
反対側からでは、図が逆さに見える。
同じ方向から見る必要があった。
ケイの隣に、並んだ。
近かった。
ケイは、少しずれた。
アリスが立つ場所を、空けた。
アリスは、礼を言わずに、その位置に立った。
二人の横顔が、図の上で並んだ。
ケイが、指を動かした。
図の外側から始めた。
「外側の縁。ここは、あのとき、アリスが認証した」
「はい」
「その内側に、自分が組んだ鍵の本体がある」
指が、外側の線の内側へ動いた。
止まった。
触れる手前で、止まった。
「ここから先は、図に書ききれていない」
アリスは、目を細めた。
ケイの指が止まった位置を、自分の指でも辿った。
ケイの指の少し下で、自分の指が止まった。
触れる手前だった。
ケイと、同じ位置だった。
「同じ場所、ですね」
「ああ」
ケイは、少し黙った。
それから、
「ここから先は、口で言う」
「お願いします」
ケイは、言葉で構造を辿った。
短かった。
不要なことを言わなかった。
鍵の本体は、霧そのものの構造を裏返したものだ。
鏡を裏返して、同じ形を、別の側から組むのに似ていた。
外側を読み取り、内側を反転させて組む。
組み終わったとき、霧は自分自身を拒めない。
アリスは、聞いていた。
聞きながら、自分の中で図を組み直した。
「……外側の縁の認証は、内側の鍵を信じるための、最後の確認だったのですね」
「そうだ」
「逆ではなかったのですね」
「逆ではない」
ずっと、自分の認証が最初の鍵だと思っていた。
違った。
ケイの鍵があったから、自分の認証が意味を持った。
沈黙。
順序が、逆だった。
アリスは、図を見ていた。
しばらく動かなかった。
窓からの光が、机の上で、少し位置を変えていた。
「……ありがとうございます」
声が、いつもより低かった。
「役に、立ったか」
ケイは、図から指を離した。
離すのに、少し時間がかかった。
離したくないわけではないらしい。
ただ、構造を最後まで辿り終えるのに時間がかかった、というふうだった。
「もう一度、書き足しておきます」
アリスは、言った。
「ケイさんの言ったところまで」
「書いてくれ」
ケイは、短く返した。
「またお願いするかもしれません」
「いつでも」
◆
記録室を出た。
廊下の石が、靴の音をよく拾う。
二人の足音が並んで聞こえた。
途中で、アリスは立ち止まった。
ケイも、止まった。
振り返らなかった。
半歩先で、待っていた。
「ケイさんは」
言いかけて、息を整えた。
「ときどき、ずっと前から、知っていた人みたいに、見えます」
ケイは、答えなかった。
答えないことに、責める気持ちはなかった。
むしろ、答えないでくれた、と思った。
「……すみません。変なことを言いました」
「いや」
短い沈黙があった。
廊下の途中で、二人とも動かなかった。
アリスは、小さく笑った。
声は出さなかった。
口の端が、すこし上がっただけだった。
それは、聖詔者の笑い方ではなかった。
ケイは、振り返らなかった。
だが、肩の角度が少し変わった。
待つ姿勢に変わった、と分かった。
アリスは、もう一歩進んだ。
ケイの隣に、並んだ。
二人で、残りの廊下を歩いた。
やがて、神殿の正面の扉。
外は、昼の光。
ケイが、先に出ていく。
アリスは、扉のところで少しだけ立っていた。
神殿の正面から、街の往来が低く見える。
屋根が連なる。その奥に、城門の方角の空。薄い色。
——ケイさんの鍵が、先だった。
ケイが言ったのではない。
自分が、自分の中で言った。
——私の認証は、その後を、追っただけだった。
胸の奥が、静かに、温かい。
——あの日、私は、ケイさんを、信じたのだ。
声には、出さなかった。
出すことではなかった。
今日は、聞かないでよかった。
理由は、考えなかった。




