Episode 24|輪郭
◆
ケイは、夜の工房に一人だった。
机の端に、灯り代わりの魔法陣が、静かに揺れていた。光が、机の縁を淡く撫でている。
昼の食堂では、できないことだった。
誰にも、見られたくはなかった。
延髄の位置は、わかっている。首の後ろ。脊髄の最上部。体内チップは、その付近に埋め込まれる、と聞いていた。
ケイは、目を閉じた。
息を、ゆっくり吐いた。
魔法陣では、ない。
人体だ。
構造を読む要領で、自分の首の後ろに意識を向けた。
魔法陣の線を、読むときと、同じだ。
ここから、ここまで、という、輪郭。
ものには、必ず、ある。
いつもなら、何かが引っかかる。
構造の端が、見える。ここから始まって、ここで終わる、という輪郭がある。
今は、なかった。
何もない。
指の先まで、見えた。
机の木目も、見えた。
首の後ろ、だけが、空白だった。
正確には——何かが「ある」という手応えが、ない。
ケイは、もう一度、息を吐いた。
目を、開けなかった。
だが、「ない」と断言するには、根拠が弱かった。
人体の構造を、読んだことは一度もない。
読めていないのか、もともと存在しないのか。
その二つを、今の自分には区別できない。
初めて、読もうとしたものに、答えを出せるはずがない。
だが、答えは、出したかった。
目を、開けた。
机の上の魔法陣が、まだ揺れていた。光が、わずかに傾いていた。さっきと、同じ位置のようでも、違うようでもあった。
——確認できた、とは言えない。
声には、出さなかった。
——だが、なかった、ともまだ言えない。
◆
アリスが執務室に入ると、ミアが机の前で、書類を広げていた。
見習い用の礼服。襟の縁に、ヴェリタス教団の白い線が、一本。濃い茶色の髪が、うつむくたびに揺れる。
背が、低い。アリスより、一つか二つ、年が下だ。
ミアの補佐を任せてから、もうすぐ三ヶ月になる。
教団の認証記録。一週間分。整理して持ってくるのが、ミアの習慣になっていた。
「アリス様」
ミアが、顔を上げた。
「こちら、なんですが」
「はい」
「一枚、なんとなく、違和感があって」
ミアの指が、書類の上で止まっていた。
「どこですか」
「……うまく、言えないんですが」
ミアが、指先をほんの少しだけ、書類の端へ滑らせた。
「ここ、だと思います」
アリスは、書類を受け取った。
ミアが指した箇所を、見た。
署名の形式は、正しい。
だが、何かが——
日付の、筆圧が違った。
同じペン、同じインク、同じ手。
だが、一文字、だけ。
確かに、おかしかった。
アリスは、書類を脇に置いた。
「よく、気づきましたね」
「あの、なんとなく、そう見えただけ、なんですが」
「それで、いいです」
ミアが、小さく頷いた。
まだ、自信なさそうに。
——私も、そう言った。
声には、出さなかった。
なんとなく、そう見えただけです、と。
孤児院の、面談室、だった。
シスターに、聞かれた。
なぜ、わかったの、と。
答えは、同じだった。
アリスは、ミアを見た。
アリスとは、似ていなかった。
髪の色も、目の高さも、違った。
ただ——
俯くときの、肩の落ち方が、似ていた。
アリスは、書類に視線を戻した。
手の動きが、ほんの一拍遅れた。
ミアは、気づかなかった。
気づかれないように、戻した。
◆
ケイは、哨戒から戻ったところだった。
廊下に出ると、角から、人が出てきた。
イブだった。
「あ、ケイさん」
イブが、言った。
目が、わずかに細くなった。笑うときの顔だ。
ケイは、足を止めた。
「今日、哨戒、どうでした」
「問題なかった」
「ですよねー」
イブが、並んで歩き始めた。
「こっちも、何も出なくて。ちょっと、拍子抜けっていうか」
ケイは、答えなかった。
「そういう日の方が、多いですよね、実際」
イブが、続けた。
「出ない日が、続くと、油断するって、ジンさんが、言ってました」
「そうだ」
「ですよね」
しばらく、並んで歩いた。
絨毯は、ない。
自分の足音は、聞こえていた。
イブの足音は、聞こえなかった。
肩の動き。手の振り方。視線の置き方。
どれも、いつも通りだった。
ケイは、横目で一度見た。
イブの目が、廊下の前方を見ていた。
笑っていなかった。
だが、目尻は、さっきと変わっていなかった。
笑いを消した、はずだった。
だが、顔の筋肉は、戻っていなかった。
——表情が、追いついていない。
あるいは——
——最初から、笑っていなかった、のかもしれない。
「じゃあ、お疲れ様でした」
角で、イブが言った。
手を、軽く上げて、曲がっていった。
廊下に、一人になった。
ケイは、止まったまま、角の方を見ていた。
——普段通り、だ。
声には、出さなかった。
確証が、ない。
疑う、確証も。
疑わない、確証も。




