Episode 21|知らない声
◆
アリスが首都に入ったのは、夕刻だった。
城門をくぐった瞬間、靴底の感触が、変わった。ファーマルクの土とは違う。湿りがない。乾いた、平らな、石。王都の石畳だ。
ファーマルクの土が、まだ、靴底に残っている気がした。
実際には、首都の門で、振り落とした。
七日、ぶりだった。
迎えの神官が、馬から降りた。礼を、深くした。
「ご案内します」
「結構です」
短く、答えた。
神官が、頭を下げたまま、半歩、退いた。アリスは、一人で、歩き出した。
宮廷の廊下は、静かだった。窓から、夕方の光が、斜めに差していた。柱の影が、長い。歩くたびに、その影を跨いだ。
部屋に、荷物を置いた。鞄を、椅子の脇に。礼服の襟を、一度、整えた。
間を、置かなかった。
チップが、鳴った。
ケイから届いた。
——夕食前に、来られるか。
短い。いつもの、書き方だ。
アリスは、すぐに、立ち上がった。
七日、顔を、見ていなかった。
——変わっていない、はずだ。
変わっていないことを、確かめたかった。
夕食には、まだ、少し早い。それでも、いい、と思った。
廊下を、戻る。
食堂の扉の手前で、止まった。
扉の隙間から、声が、漏れていた。
若い、女の声だった。
笑いの混じった、語尾。
フウの声と、重なっている。
知らない声、だった。
◆
「フウちゃん、それって最初からわかるの? 感知って、習うもの?」
知らない声が、続いていた。
アリスは、扉に、手をかけた。
開けた。
テーブルを、囲んでいた。フウ。サトル。ジン。ケイ。
もう、一人。
小柄な娘だった。明るめの茶色の、短い髪。耳の下で揃っている。大きめの目が、テーブルの上の、フウを見ていた。身を、わずかに、乗り出している。
フウが、答えていた。
「習うっていうより、ずっと、そうだったって感じかな。気づいたら、できてた」
「わかる、それ」
娘が、頷いた。
「教わったとか、練習したとかじゃなくて、なんか、気づいたら——そういうの、すごく、似てる気がする」
アリスは、入口で、止まった。
誰も、気づいていない。
テーブルの四人は、その娘との話に、入っていた。
——四人と、知らない顔。
数えて、一拍、遅れた。
いつもなら、五人だった。
自分の席が、空いていた。
だが、五人目は、別の娘だった。
——馴染んでいる。
自分がいない、七日の間に。
◆
「あ」
気づいたのは、フウだった。
立ち上がりかけたフウを、アリスは、手で制した。
「座っていてください」
テーブルに、近づいた。
サトルが、頭を下げた。
「お疲れ様でした」
ジンが、短く言った。
「来たか」
ケイは、アリスを、一度、見た。それから、視線を、皿の方へ落とした。それだけ、だった。
いつも通り、だった。
いつも通り、で、よかった。
——変わっていない。
そう、思ったはずだった。
娘が、椅子ごと、こちらに向き直った。
「はじめまして。イブ、といいます」
頭を、下げた。
「少し前から、お世話に、なってます」
声が、はきはきしていた。区切りが、あった。初対面なのに、どこか、すでに、場の中に、馴染んでいる気配があった。
「……アリス、です」
アリスは、答えた。
「聖詔者の方、ですよね。サトル先生から、聞いてました」
アリスは、反射的に、サトルを見た。
サトルが、眼鏡の位置を、指で軽く整えた。視線が、わずかに、皿の縁に落ちた。
「……イブさんに、そう呼ばれるように、なりまして」
「先生って柄じゃないって、言ってたんですけど」
イブが、続けた。
「なんか、定着しちゃって」
笑った。
笑うときに、体が、わずかに、横に傾く。
「フウちゃん、って、呼ばれてます」
フウが、言った。
嬉しそうな声だった。
——フウちゃん。
——サトル先生。
七日で、定着する呼び方では、ない。
アリスは、フウを見た。
「……そうですか」
とだけ、言った。
——いつから。
聞こうとして、やめた。
椅子を、引いた。
座った。
◆
「教団って、ファーマルクにも、拠点があるんですか」
イブが、聞いてきた。
興味本位、ではなかった。素直な、疑問の声だった。
「……小さなものが、あります」
「そこで、後処理を、されてたんですよね。大変じゃ、なかったですか」
「大変、とは、思いませんでした」
「そっか」
イブが、頷いた。
それきり、深追いは、しなかった。
会話が、流れた。
フウが、エラントの話を始めた。ジンが、一言補足した。サトルが、密度の記録の話を、挟んだ。イブが、その隙間に入って、いくつか聞いた。
自然、だった。
初めて見た顔とは、思えないほどだった。
夕食が、運ばれた。
アリスは、スープを、一口飲んだ。
味は、いつも通りの、はずだった。
なのに、輪郭が、ぼやけていた。
味覚の、せいでは、なかった。
テーブルの、輪郭も、同じだった。
いつもの席に、いつもの人がいる。
いつも通り、なのに。
「ケイさんって、型は、使わないんですよね」
イブの声が、テーブルの反対側を向いていた。
「使わない」
ケイが、答えた。
「型って、基本だって、聞いてたので——最初から使わないって、なんか、すごいな」
「使う方が、楽な場面もある」
「でも、使わないんですよね」
「使わない」
「……そっか」
イブが、頷いた。
短い返事でも、止まらなかった。考えてから、また頷く。そういう、話し方をする娘らしかった。
アリスは、パンに、手を伸ばした。
伸ばしかけて、止まった。
止まったことに、気づいた。
指が、皿の縁の、すぐ手前で、空いていた。
特に、理由は、なかった。
あった、のかもしれない。
自分の手が、自分の指示より、先に止まっていた。
パンを、取った。
食事が、続いた。テーブルの声が、続いた。イブが、何か言うたびに、誰かが返した。笑い声が、出た。ジンですら、口の端が、少し動いた。
アリスは、自分の皿を見た。
——そういうものか。
声には、出さなかった。
初めて会ったとは、思えない。この人たちは、誰でも——
やめた。
パンの端を、指でちぎった。
◆
食事が、終わりかけた頃、ケイが、立った。
アリスも、少し遅れて、立った。
廊下に、出た。
ケイの隣に、並んだ。足音が、二つ、廊下の石を叩いた。
しばらく、どちらも、黙った。
窓の外が、暗くなっていた。廊下の灯りが、点いている。柱の影が、こちら側に伸びていた。
「アキラさんのことは」
アリスが、言った。
「聞いたか」
「報告で。……でも、実際に」
「ああ」
ケイが、短く答えた。
それ以上、続けなかった。
アリスは、少し、足が、遅くなった。
それだけ、だった。
アキラの名前を、出したのは、自分だった。
ケイは、答えていた。
足を、止めたのは、自分の方だった。
——半歩。
歩幅の差が、半歩、開いた。ケイが、少し、先を歩いた。アリスは、その背中を見た。広くはない。だが、足は、止まらなかった。
「明日、時間はあるか」
ケイが、聞いた。
顔は、こちらに、向けなかった。
「あります」
「話がある」
「……わかりました」
角に、差し掛かった。
ケイが、何も言わずに、曲がっていった。
アリスは、角の手前で、一度、止まった。
ケイが消えた方を、一度だけ、見た。
それから、歩き始めた。
石畳の音が、一つに、戻った。
◆
ケイは、夜の廊下を、ひとりで歩いた。
窓の外は、暗かった。城下の灯りが、いくつか点いている。だが、ほとんどは、夜に沈んでいた。
食堂の声が、まだ、耳の奥に残っていた。フウの返事。サトルの言いよどみ。イブの、止まらない頷き。
止まった。
廊下の真ん中で、立っていた。
窓の外の灯りを、見た。
——確認できたとして、何が、見つかる。
声には、出さなかった。
昼間と、同じ問いだった。
歩き始めた。
問いは、ついてきた。




