Episode 20|チップ
◆
食堂のテーブルに、声が溢れていた。
朝。窓から差し込む光が、床を斜めに切っている。木の卓の縁に当たって、ほのかに温かい色になっていた。声が、その光の中で揺れている。
ケイは端の席で椀を持ったまま、向こうのテーブルを見ていた。
イブが、話していた。
「先生、これ何ですか」
イブが、皿の上の赤い実を指で示した。
「エルバの実です。甘い。食べたことないですか」
「初めてです」
イブが、一つ口に入れた。
目が、わずかに大きくなった。
「あ、ほんとだ。めちゃくちゃ甘い」
サトルが、小さく笑った。
珍しかった。
フウが、口を開いた。
「私も、最初は、驚きました」
フウが、続けた。
「えー、フウちゃんも?」
「うん」
フウが、頷いた。
「すごく酸っぱいかと思って、身構えたら、全然違ったから」
イブが、声を上げた。
笑い声だった。
明るく、軽い。食堂の天井の方まで抜けるような声だった。
サトルの向かいに、座っている。
フウと、笑っている。
ジンに、頷かれている。
三日で、ここまで馴染んでいた。
——三日、しか経っていない。
声には、出さなかった。
ケイの目は、向こうのテーブルから戻らなかった。
椀を口に運んだ。
汁を飲んだ。
飲んだ、はずだ。
喉が動いた感覚は、ある。
イブの笑い声が、まだ聞こえていた。
味は、よくわからなかった。
昨日も、同じ汁だった。
昨日は、味がした。
◆
哨戒の戻り道。
夕方だった。
石畳の上に、長い影が伸びている。風が、少し冷えている。北の方角の空が、灰色に暮れはじめていた。
ジンが、一足先に詰所の方へ入っていった。フウがサトルと話しながら、その後に続いた。サトルが、足を緩めた。視線が、斜め上で止まっていた。指が、虚空をごく短く動いた。チップで、何かを送っているらしかった。いつものことだった。
ケイは、その三歩後ろを歩いていた。
横に、イブがいた。
足音がなかった。
当然、だった。
「ケイさん」
呼ばれた。
ケイは、視線だけを横に動かした。
「何だ」
「いや、そんなちゃんとした話じゃなくて」
イブが、一歩前に出た。
振り返るかたちで、こちらを見た。歩きながら、半身ひねっている。器用な歩き方だ。
「さっき、あの上位種を、止めたとき」
イブが、続けた。
「型、使ってなかったじゃないですか」
イブが見ていた、ということだ。
ケイの指先を。
三日目の新人が。
使わなかった。
ケイは、答えた。
「型って、教わったじゃないですか。なのに、なんで、使わないんですか」
なぜ。
一拍、考えた。
「使わなくていいなら、使わない」
「……なるほど」
間が、あった。
歩く音だけが、続いた。
「慣れたら、私も、できる?」
「わからない」
イブが、頷いた。
「そっか」
それだけ、だった。
詰所の扉が、見えた。
◆
夜だった。
宿舎の廊下は、冷えていた。
ケイは、水を取りに部屋を出た。喉の奥が、乾いていた。一度目が覚めた後、戻らなかったのだ。
寝衣の襟元から、廊下の冷気が入ってきた。素足の裏に、石の冷たさが伝わる。
廊下に、灯りはない。
月だけが、窓の縁を白く縁取っていた。
その縁取りの中に、人影が一つ。
イブだった。
外を見ていた。
窓ガラスに、わずかに結露がある。その表面に、外の灯りがにじんでいる。
振り返った。
目が合った。
「眠れなくて」
イブが、言った。
言い訳の声ではなかった。ただの報告だった。
「ここは、慣れそうか」
ケイは、聞いた。
なぜそう聞いたのか、自分でもわからなかった。
「慣れてる」
即答だった。
「転移したばかりとは、思えない」
「そうですか」
イブが、窓の外に視線を戻した。
暗い。
遠く、城下の灯りがいくつか見える。だが、ほとんどは夜に沈んでいる。
「みんな、もう、ちゃんと、ここで、生きてるんだなって」
沈黙が、あった。
風の音だけが、続いた。
イブが、もう一度口を開いた。
「チップって、転移してくるとき、ちゃんと、ついてくるんですか。体の中に」
さりげなかった。
声の置き方が、それまでとほとんど同じだった。意図的に同じにしているように、聞こえた。
「眠れない」の声と、「チップの問い」の声。同じ高さだった。
同じ高さに、揃えてあった。
引っかかりが、遅れてきた。
ケイは視線をイブの後ろ髪に置いたまま、答えた。
「なぜだ」
「急に、気になって。自分のが、どこにあるか、確かめようとしたら——どこで確認すればいいか、わからなくて」
脊髄の近くだ。
ケイは、言いかけた。
口が、わずかに開いた。舌の先が、上顎に触れた。
止まった。
——自分は、確認したことがない。
声には、出さなかった。
したことがない。
あのとき、サトルがアキラの首の後ろを確認した。
自分のは、誰も確認していない。
自分でも、していない。
したことがないまま、通信はできていた。ずっと。
口を、もう一度開いた。
「——脊髄の近くだと、言われている」
言ってから、舌の上にその言葉が残った。
誰に教わったのか、思い出せなかった。
「確認できる?」
イブが、聞いた。
軽い声だった。
「難しい場所だ。自分では」
ケイは、答えた。
イブが、頷いた。
「そうだよね」
それ以上は、続けなかった。
「おやすみなさい」
イブが、言った。
廊下の先へ、歩いていった。
足音はなかった。
ケイは、窓の外を見た。
暗い。
遠くの灯りが、いくつか揺れている。
——アキラも、確認したことがなかったのだろうか。
声には、出さなかった。
いや。
アキラの話を思い出そうとした。チップの話を、したことがあったか。
覚えていない。
誰も、しなかった。
あのとき、サトルが送ってきた図を、思い出した。
首の後ろ。本来、チップがあるはずの位置。
空白の、丸。
線だけで描かれた、丸。
——たぶん、自分のもそうだ。
一度、浮かんだ。
消えなかった。
廊下の奥で、扉の開く音がした。
イブの部屋だ。
音は、それだけだった。




