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Episode 20|チップ


 食堂のテーブルに、声が溢れていた。


 朝。窓から差し込む光が、床を斜めに切っている。木の卓の縁に当たって、ほのかに温かい色になっていた。声が、その光の中で揺れている。


 ケイは端の席で椀を持ったまま、向こうのテーブルを見ていた。


 イブが、話していた。


「先生、これ何ですか」


 イブが、皿の上の赤い実を指で示した。


「エルバの実です。甘い。食べたことないですか」


「初めてです」


 イブが、一つ口に入れた。


 目が、わずかに大きくなった。


「あ、ほんとだ。めちゃくちゃ甘い」


 サトルが、小さく笑った。


 珍しかった。


 フウが、口を開いた。


「私も、最初は、驚きました」


 フウが、続けた。


「えー、フウちゃんも?」


「うん」


 フウが、頷いた。


「すごく酸っぱいかと思って、身構えたら、全然違ったから」


 イブが、声を上げた。


 笑い声だった。


 明るく、軽い。食堂の天井の方まで抜けるような声だった。


 サトルの向かいに、座っている。


 フウと、笑っている。


 ジンに、頷かれている。


 三日で、ここまで馴染んでいた。


 ——三日、しか経っていない。


 声には、出さなかった。


 ケイの目は、向こうのテーブルから戻らなかった。


 椀を口に運んだ。


 汁を飲んだ。


 飲んだ、はずだ。


 喉が動いた感覚は、ある。


 イブの笑い声が、まだ聞こえていた。


 味は、よくわからなかった。


 昨日も、同じ汁だった。


 昨日は、味がした。




 哨戒の戻り道。


 夕方だった。


 石畳の上に、長い影が伸びている。風が、少し冷えている。北の方角の空が、灰色に暮れはじめていた。


 ジンが、一足先に詰所の方へ入っていった。フウがサトルと話しながら、その後に続いた。サトルが、足を緩めた。視線が、斜め上で止まっていた。指が、虚空をごく短く動いた。チップで、何かを送っているらしかった。いつものことだった。


 ケイは、その三歩後ろを歩いていた。


 横に、イブがいた。


 足音がなかった。


 当然、だった。


「ケイさん」


 呼ばれた。


 ケイは、視線だけを横に動かした。


「何だ」


「いや、そんなちゃんとした話じゃなくて」


 イブが、一歩前に出た。


 振り返るかたちで、こちらを見た。歩きながら、半身ひねっている。器用な歩き方だ。


「さっき、あの上位種を、止めたとき」


 イブが、続けた。


「型、使ってなかったじゃないですか」


 イブが見ていた、ということだ。


 ケイの指先を。


 三日目の新人が。


 使わなかった。


 ケイは、答えた。


「型って、教わったじゃないですか。なのに、なんで、使わないんですか」


 なぜ。


 一拍、考えた。


「使わなくていいなら、使わない」


「……なるほど」


 間が、あった。


 歩く音だけが、続いた。


「慣れたら、私も、できる?」


「わからない」


 イブが、頷いた。


「そっか」


 それだけ、だった。


 詰所の扉が、見えた。




 夜だった。


 宿舎の廊下は、冷えていた。


 ケイは、水を取りに部屋を出た。喉の奥が、乾いていた。一度目が覚めた後、戻らなかったのだ。


 寝衣の襟元から、廊下の冷気が入ってきた。素足の裏に、石の冷たさが伝わる。


 廊下に、灯りはない。


 月だけが、窓の縁を白く縁取っていた。


 その縁取りの中に、人影が一つ。


 イブだった。


 外を見ていた。


 窓ガラスに、わずかに結露がある。その表面に、外の灯りがにじんでいる。


 振り返った。


 目が合った。


「眠れなくて」


 イブが、言った。


 言い訳の声ではなかった。ただの報告だった。


「ここは、慣れそうか」


 ケイは、聞いた。


 なぜそう聞いたのか、自分でもわからなかった。


「慣れてる」


 即答だった。


「転移したばかりとは、思えない」


「そうですか」


 イブが、窓の外に視線を戻した。


 暗い。


 遠く、城下の灯りがいくつか見える。だが、ほとんどは夜に沈んでいる。


「みんな、もう、ちゃんと、ここで、生きてるんだなって」


 沈黙が、あった。


 風の音だけが、続いた。


 イブが、もう一度口を開いた。


「チップって、転移してくるとき、ちゃんと、ついてくるんですか。体の中に」


 さりげなかった。


 声の置き方が、それまでとほとんど同じだった。意図的に同じにしているように、聞こえた。


「眠れない」の声と、「チップの問い」の声。同じ高さだった。


 同じ高さに、揃えてあった。


 引っかかりが、遅れてきた。


 ケイは視線をイブの後ろ髪に置いたまま、答えた。


「なぜだ」


「急に、気になって。自分のが、どこにあるか、確かめようとしたら——どこで確認すればいいか、わからなくて」


 脊髄の近くだ。


 ケイは、言いかけた。


 口が、わずかに開いた。舌の先が、上顎に触れた。


 止まった。


 ——自分は、確認したことがない。


 声には、出さなかった。


 したことがない。


 あのとき、サトルがアキラの首の後ろを確認した。


 自分のは、誰も確認していない。


 自分でも、していない。


 したことがないまま、通信はできていた。ずっと。


 口を、もう一度開いた。


「——脊髄の近くだと、言われている」


 言ってから、舌の上にその言葉が残った。


 誰に教わったのか、思い出せなかった。


「確認できる?」


 イブが、聞いた。


 軽い声だった。


「難しい場所だ。自分では」


 ケイは、答えた。


 イブが、頷いた。


「そうだよね」


 それ以上は、続けなかった。


「おやすみなさい」


 イブが、言った。


 廊下の先へ、歩いていった。


 足音はなかった。


 ケイは、窓の外を見た。


 暗い。


 遠くの灯りが、いくつか揺れている。


 ——アキラも、確認したことがなかったのだろうか。


 声には、出さなかった。


 いや。


 アキラの話を思い出そうとした。チップの話を、したことがあったか。


 覚えていない。


 誰も、しなかった。


 あのとき、サトルが送ってきた図を、思い出した。


 首の後ろ。本来、チップがあるはずの位置。


 空白の、丸。


 線だけで描かれた、丸。


 ——たぶん、自分のもそうだ。


 一度、浮かんだ。


 消えなかった。


 廊下の奥で、扉の開く音がした。


 イブの部屋だ。


 音は、それだけだった。


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