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Episode 19|加入


 辞令より、イブの方が、早かった。


 ファーマルクへの遠征が終わってから、宰相が一室を使うようにと言い渡していた。実際に使い始めたのはサトルだった。窓際の机に書類を積み、壁際にもう一山。気づけば残りも、各自の場所に腰を落ち着けるようになった。フウは奥の椅子。サトルは窓際の机。ケイは扉に近い席。ジンも窓辺に席があるが、外回りに出ていることが多かった。それぞれの定位置が、ゆるく、できていた。


 四人分の、定位置だった。


 五人目の場所は、決められていなかった。


 その扉が、開いた。


 午前中のことだった。


「あ、ここだ。合ってた」


 昨夜、廊下で会った少女だ。


 明るめの茶色の、短い髪。大きめの目が、部屋を、一回りした。サトルで、止まった。


「昨日の眼鏡の方、ですよね。サトルさん、でしたっけ」


 サトルが、視線を上げた。書類の上に置いていた指が、止まった。


「……イブさん。案内は」


「来るの待ってたんですけど、全然来なくて。自分で来ました」


 サトルが、眼鏡の位置を、整え直した。フレームの両端に、指を置いて、軽く押し上げた。一拍、何かを言いかけて、やめた。


 フウが、奥の椅子から、顔を上げた。


 体が、わずかに、扉の方へ、傾いた。


 目が、イブを、見ていた。動かない。


 息を、吸った。


 吐いた。


「きた」


 フウが、言った。


 ほとんど、独り言のような声だった。


 イブが、フウを見た。


 目が、合った。


 イブも、息を、一つ吸った。


「きました!」


 なぜか、それで、話が成立していた。


 フウが、感じていたものが、止まった場所に、イブが、立っていた。


 フウの肩が、少しだけ、下がった。


 ケイは、扉から二歩離れた位置で、二人を見ていた。視線が、一拍、二人の間で、止まった。




 イブは、部屋に馴染むのに、三分かからなかった。


 サトルの向かいに、座った。椅子を引く音が、軽い。机の上の書類を、指差した。


「これってなんですか」


「魔物の密度記録、です」


 サトルが、答えた。


「密度って、数えられるんですか」


「測定方法がありまして——」


 サトルが、わずかに、身を乗り出した。普段より、ほんの少しだけ、声に温度が乗った。


「エラントの出現頻度と、魔力残滓の濃度を組み合わせて、先月比で段階を出すんです」


「……わかんないですけど、すごいですね」


「順番に説明すれば、わかりますよ」


「先生みたいなこと、言いますね」


 サトルが、書類の角を、指で、ごく短く撫でた。


「先生では、ないですが」


「でも、先生っぽい。サトル先生、て呼んでいいですか」


 サトルが、眼鏡の位置を、もう一度、確かめた。視線が、一瞬、書類の上を泳いだ。


「……どうぞ」


 フウが、奥の椅子から、降りた。


 歩いてくる足音が、軽い。


 イブの隣に、立った。


「フウです」


「あ、フウちゃんか。よろしく! 私イブ。昨日ちょっとだけ会ったよね」


 フウが、頷いた。


「フウちゃん、なんか昨日から、気になってたんだけど——」


 イブが、少し、首を傾けた。


「——なんか、聞こえたりする? 遠いところのとか」


「ざわざわしてる」


 フウが、答えた。


「あー、そういう感じ!」


 イブが、目を、少し大きくした。


「私のは、もっと物理的な感じで。音とか、揺れとか、気配で位置がわかる感じ。近くのだけだけど」


「違う種類」


 フウが、言った。


「そうそう」


 イブが、頷いた。


 それから、わずかに、考えるような顔をした。


「でも、なんか、似てる気がした」


 フウも、考えた。


 顎の下に、指を、軽く当てた。


「うん。似てる」


 二人が、お互いの顔を、見た。


 もう一拍、視線が、絡んだままだった。


 ケイは、扉の近くで、その様子を、見ていた。視線が、一度、外れた。戻らなかった。




 ジンが、来たのは、昼前だった。


 扉を開けた。


 イブを、見た。


 一拍、止まった。


 視線が、イブの足元から、首の後ろの辺りまで、ゆっくり、撫でた。それから、目に戻った。


「新しい人?」


「イブです。よろしくお願いします。ジンさんですか」


「そうだ」


 ジンが、言った。


「昨日いましたよね、廊下に」


「いた」


「あのとき、私のこと、転移者だってわかりました?」


「わかった」


「なんでですか」


 短い沈黙が、あった。


 ジンが、視線を、もう一度、イブに、置いた。


「気配」


「気配って、どんな気配ですか」


 また、間が、あった。


 今度は、少し、長かった。


 ジンが、口を、開いた。


「転移者の、気配だ」


 言ってから、目を、わずかに、伏せた。説明では、なかった。確かに感じた、という認め方の声だった。


 ジンは、説明、しなかった。


 だが、間違えたことが、なかった。


 イブが、笑った。


 体が、わずかに、前に出た。


「……わかりました。ありがとうございます」


 ジンが、窓際に、立った。それ以上、何も、言わなかった。


「サトル先生、ジンさんって、いつもこんな感じですか」


 イブが、声を、小さくした。


「あの方は、あのような方です」


 サトルも、小さく、返した。


「なるほど」


 イブが、頷いた。




 辞令が、来たのは、昼すぎだった。


 文官が、書類を持って、扉を開けた。


 すでに部屋にいるイブを見て、一拍、止まった。


 書類を持つ手の、親指が、紙の端を、押さえ直した。


「イブ様……もう、こちらに」


「待ってたんですけど、来なくて。自分で来ました」


 文官が、小さく、咳をした。姿勢を、わずかに、正した。


 書類を、差し出した。


 ジンが、受け取った。


 書面には、こうあった。


 「哨戒適性・最高位。空席枠への配属を、認める」


 サトルが、ジンの隣から、覗いた。


 フウが、その隣から、覗いた。


 イブも、首を伸ばして、覗き込んだ。


 空席。


 その二文字が、最後に、書かれていた。


 サトルが、書類の角を、押さえ直した。


 フウが、視線を、外した。


 ジンは、動かなかった。


 ケイの指が、机の上で、一度、止まった。


「ちなみに、空席って」


 イブが、聞いた。


 軽い声だった。何も知らない者の声だった。


 間が、あった。


 短いが、確かに、あった。


 サトルが、答えた。


「前に、いた方です」


 言葉が、止まった。


 続けた。


「先日、亡くなりました」


 イブが、頷いた。


 笑わなかった。


 軽い、と言われる声が、軽くなかった。


 頷きが、深かった。


 目が、書類の同じ場所で、しばらく止まっていた。


「そうですか」


 部屋が、静かだった。


 風の音も、廊下の足音も、ない、わけではなかった。だが、その音だけが、後ろに、引いた。


 イブが、書類に、目を、戻した。


「頑張ります」


 それだけ、言った。


 文官が、もう一度、咳をした。一礼して、出ていった。




 翌日。


 初めての、哨戒に、出た。


 五人で、城下の外縁を、回った。


 イブは、いつの間にか、先頭を、歩いていた。


 音が、しなかった。


 革鎧の軋みも、足音も。


 フウが、横で、聞いていた。


 ざわざわが、すぐ、隣にあった。


 聞こえないのに、いる。


 フウが、少し、首を傾けた。


「イブちゃん、って」


「フウちゃん?」


「足、聞こえない」


「あー」


 イブが、振り返った。


「そういう歩き方に、慣れてて。ずっと、こうなんで、自分じゃ、よくわかんないですけど」


 フウが、少し、考えた。


「不思議」


「そう?」


「うん。でも、いい感じ」


 イブが、笑った。


 今度は、前のめりにはならなかった。代わりに、目が、わずかに、細くなった。




 角を、曲がった。


 その瞬間、イブが、片手を、上げた。


 全員が、止まった。


「壁の、向こう。なんか、動いてます。三匹、くらいかな」


 ジンが、頷いた。


「行く」


 路地に入った瞬間、エラントが、三匹、飛び出した。


 ジンが、前の一匹を、捌いた。


 ケイが、奥の一匹を、構造から処理した。


 残りの、一匹。


 イブに、向かった。


 イブは、いなかった。


 壁を、蹴っていた。


 爪先が、石壁の表面を捉えた。次の瞬間、壁を押した。体が横に流れる。革鎧の軋みはない。低く短い、空気の動く音だけがあった。


 エラントが、空振りした。


 止まった、その一瞬。


 ジンの剣が、届いた。


 三秒も、かからなかった。


 ケイが、ちらりと、イブを見た。何も、言わなかった。


「……やっぱ、はやいですね、みなさん」


 誰も、返事を、しなかった。


「ケイさん、いつもこんな感じ?」


「そうだ」


「標準、ですか」


「標準だ」


 イブが、少し、遠い目を、した。


「標準、か……」




 昼を、過ぎたころ、ジンが、足を、止めた。


「北側を、確認する。自分が、行く」


「一人で、ですか」


 イブが、聞いた。


「問題ない」


「何かあったら」


「ない」


「でも、万が一」


「ない」


 ジンが、言った。


 間が、あった。


「……ジンさんって、心配されたこと、ないですか」


 ジンが、視線を、上げた。


「ある」


「誰に?」


 ジンが、フウを、見た。


 短い間、見た。


 戻した。


「フウに」


 フウが、小さく、手を、挙げた。


「フウちゃん、か……なんか、わかる気がする」


 イブが、頷いた。


 ジンが、歩き出した。背中が、いつもより、わずかに、まっすぐ、見えた。




 夕方、宮廷に、戻った。


 ケイが、机で、記録を、書いていた。


 筆を動かしている。一定の速さだ。


 イブが、向かいに、座った。


 ケイは、筆を、止めなかった。


「ケイさんって、今日、何語、しゃべりましたか」


 ケイが、少し、考えた。


 筆は、動いている。


「数えていない」


「数えてたの、私」


 返事は、なかった。


「八語です。哨戒中、ずっと」


「そうか」


 ケイが、言った。


「それが、九語目ですね」


 ケイは、筆を、動かし続けた。


 少し、間が、空いた。


 イブが、机の縁に、指を、置いた。爪の先で、軽く、二度、叩いた。


 それから、その指を、止めた。


「……ねえ」


 イブが、言った。


 声が、少しだけ、低くなっていた。


「こわくないよ、私。話しかけて、いいよ」


 ケイが、筆を、止めた。


 顔は、上げなかった。


「話しかけているのは、そちらだ」


 イブが、小さく、笑った。


「確かに」


 また、間が、空いた。


「今日、どうだった。役に立てた?」


 ケイが、筆を、置いた。


 今度は、顔を、上げた。


 イブを、見た。


「問題なかった」


「……ケイさんにとっての、褒め言葉って、それですか」


「そうだ」


「わかった。それで、いい」


 イブが、立ち上がった。


 少し、嬉しそうな顔を、していた。


「また、明日もよろしく」


 ケイは、答えなかった。


 筆を、もう一度、手に取った。


 動かし、はじめた。


 イブが、扉に、手を、かけた。


 扉を開けながら、もう一度、口を開いた。


「十三語」


 小声だった。


 聞こえる、ぎりぎりの声だ。


 ケイは、何も、言わなかった。


 筆の音だけが、続いていた。


 机の縁に、爪の跡が、二つ、ついていた。


 さっき、イブが、叩いた場所だ。


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