Episode 19|加入
◆
辞令より、イブの方が、早かった。
ファーマルクへの遠征が終わってから、宰相が一室を使うようにと言い渡していた。実際に使い始めたのはサトルだった。窓際の机に書類を積み、壁際にもう一山。気づけば残りも、各自の場所に腰を落ち着けるようになった。フウは奥の椅子。サトルは窓際の机。ケイは扉に近い席。ジンも窓辺に席があるが、外回りに出ていることが多かった。それぞれの定位置が、ゆるく、できていた。
四人分の、定位置だった。
五人目の場所は、決められていなかった。
その扉が、開いた。
午前中のことだった。
「あ、ここだ。合ってた」
昨夜、廊下で会った少女だ。
明るめの茶色の、短い髪。大きめの目が、部屋を、一回りした。サトルで、止まった。
「昨日の眼鏡の方、ですよね。サトルさん、でしたっけ」
サトルが、視線を上げた。書類の上に置いていた指が、止まった。
「……イブさん。案内は」
「来るの待ってたんですけど、全然来なくて。自分で来ました」
サトルが、眼鏡の位置を、整え直した。フレームの両端に、指を置いて、軽く押し上げた。一拍、何かを言いかけて、やめた。
フウが、奥の椅子から、顔を上げた。
体が、わずかに、扉の方へ、傾いた。
目が、イブを、見ていた。動かない。
息を、吸った。
吐いた。
「きた」
フウが、言った。
ほとんど、独り言のような声だった。
イブが、フウを見た。
目が、合った。
イブも、息を、一つ吸った。
「きました!」
なぜか、それで、話が成立していた。
フウが、感じていたものが、止まった場所に、イブが、立っていた。
フウの肩が、少しだけ、下がった。
ケイは、扉から二歩離れた位置で、二人を見ていた。視線が、一拍、二人の間で、止まった。
◆
イブは、部屋に馴染むのに、三分かからなかった。
サトルの向かいに、座った。椅子を引く音が、軽い。机の上の書類を、指差した。
「これってなんですか」
「魔物の密度記録、です」
サトルが、答えた。
「密度って、数えられるんですか」
「測定方法がありまして——」
サトルが、わずかに、身を乗り出した。普段より、ほんの少しだけ、声に温度が乗った。
「エラントの出現頻度と、魔力残滓の濃度を組み合わせて、先月比で段階を出すんです」
「……わかんないですけど、すごいですね」
「順番に説明すれば、わかりますよ」
「先生みたいなこと、言いますね」
サトルが、書類の角を、指で、ごく短く撫でた。
「先生では、ないですが」
「でも、先生っぽい。サトル先生、て呼んでいいですか」
サトルが、眼鏡の位置を、もう一度、確かめた。視線が、一瞬、書類の上を泳いだ。
「……どうぞ」
フウが、奥の椅子から、降りた。
歩いてくる足音が、軽い。
イブの隣に、立った。
「フウです」
「あ、フウちゃんか。よろしく! 私イブ。昨日ちょっとだけ会ったよね」
フウが、頷いた。
「フウちゃん、なんか昨日から、気になってたんだけど——」
イブが、少し、首を傾けた。
「——なんか、聞こえたりする? 遠いところのとか」
「ざわざわしてる」
フウが、答えた。
「あー、そういう感じ!」
イブが、目を、少し大きくした。
「私のは、もっと物理的な感じで。音とか、揺れとか、気配で位置がわかる感じ。近くのだけだけど」
「違う種類」
フウが、言った。
「そうそう」
イブが、頷いた。
それから、わずかに、考えるような顔をした。
「でも、なんか、似てる気がした」
フウも、考えた。
顎の下に、指を、軽く当てた。
「うん。似てる」
二人が、お互いの顔を、見た。
もう一拍、視線が、絡んだままだった。
ケイは、扉の近くで、その様子を、見ていた。視線が、一度、外れた。戻らなかった。
◆
ジンが、来たのは、昼前だった。
扉を開けた。
イブを、見た。
一拍、止まった。
視線が、イブの足元から、首の後ろの辺りまで、ゆっくり、撫でた。それから、目に戻った。
「新しい人?」
「イブです。よろしくお願いします。ジンさんですか」
「そうだ」
ジンが、言った。
「昨日いましたよね、廊下に」
「いた」
「あのとき、私のこと、転移者だってわかりました?」
「わかった」
「なんでですか」
短い沈黙が、あった。
ジンが、視線を、もう一度、イブに、置いた。
「気配」
「気配って、どんな気配ですか」
また、間が、あった。
今度は、少し、長かった。
ジンが、口を、開いた。
「転移者の、気配だ」
言ってから、目を、わずかに、伏せた。説明では、なかった。確かに感じた、という認め方の声だった。
ジンは、説明、しなかった。
だが、間違えたことが、なかった。
イブが、笑った。
体が、わずかに、前に出た。
「……わかりました。ありがとうございます」
ジンが、窓際に、立った。それ以上、何も、言わなかった。
「サトル先生、ジンさんって、いつもこんな感じですか」
イブが、声を、小さくした。
「あの方は、あのような方です」
サトルも、小さく、返した。
「なるほど」
イブが、頷いた。
◆
辞令が、来たのは、昼すぎだった。
文官が、書類を持って、扉を開けた。
すでに部屋にいるイブを見て、一拍、止まった。
書類を持つ手の、親指が、紙の端を、押さえ直した。
「イブ様……もう、こちらに」
「待ってたんですけど、来なくて。自分で来ました」
文官が、小さく、咳をした。姿勢を、わずかに、正した。
書類を、差し出した。
ジンが、受け取った。
書面には、こうあった。
「哨戒適性・最高位。空席枠への配属を、認める」
サトルが、ジンの隣から、覗いた。
フウが、その隣から、覗いた。
イブも、首を伸ばして、覗き込んだ。
空席。
その二文字が、最後に、書かれていた。
サトルが、書類の角を、押さえ直した。
フウが、視線を、外した。
ジンは、動かなかった。
ケイの指が、机の上で、一度、止まった。
「ちなみに、空席って」
イブが、聞いた。
軽い声だった。何も知らない者の声だった。
間が、あった。
短いが、確かに、あった。
サトルが、答えた。
「前に、いた方です」
言葉が、止まった。
続けた。
「先日、亡くなりました」
イブが、頷いた。
笑わなかった。
軽い、と言われる声が、軽くなかった。
頷きが、深かった。
目が、書類の同じ場所で、しばらく止まっていた。
「そうですか」
部屋が、静かだった。
風の音も、廊下の足音も、ない、わけではなかった。だが、その音だけが、後ろに、引いた。
イブが、書類に、目を、戻した。
「頑張ります」
それだけ、言った。
文官が、もう一度、咳をした。一礼して、出ていった。
◆
翌日。
初めての、哨戒に、出た。
五人で、城下の外縁を、回った。
イブは、いつの間にか、先頭を、歩いていた。
音が、しなかった。
革鎧の軋みも、足音も。
フウが、横で、聞いていた。
ざわざわが、すぐ、隣にあった。
聞こえないのに、いる。
フウが、少し、首を傾けた。
「イブちゃん、って」
「フウちゃん?」
「足、聞こえない」
「あー」
イブが、振り返った。
「そういう歩き方に、慣れてて。ずっと、こうなんで、自分じゃ、よくわかんないですけど」
フウが、少し、考えた。
「不思議」
「そう?」
「うん。でも、いい感じ」
イブが、笑った。
今度は、前のめりにはならなかった。代わりに、目が、わずかに、細くなった。
◆
角を、曲がった。
その瞬間、イブが、片手を、上げた。
全員が、止まった。
「壁の、向こう。なんか、動いてます。三匹、くらいかな」
ジンが、頷いた。
「行く」
路地に入った瞬間、エラントが、三匹、飛び出した。
ジンが、前の一匹を、捌いた。
ケイが、奥の一匹を、構造から処理した。
残りの、一匹。
イブに、向かった。
イブは、いなかった。
壁を、蹴っていた。
爪先が、石壁の表面を捉えた。次の瞬間、壁を押した。体が横に流れる。革鎧の軋みはない。低く短い、空気の動く音だけがあった。
エラントが、空振りした。
止まった、その一瞬。
ジンの剣が、届いた。
三秒も、かからなかった。
ケイが、ちらりと、イブを見た。何も、言わなかった。
「……やっぱ、はやいですね、みなさん」
誰も、返事を、しなかった。
「ケイさん、いつもこんな感じ?」
「そうだ」
「標準、ですか」
「標準だ」
イブが、少し、遠い目を、した。
「標準、か……」
◆
昼を、過ぎたころ、ジンが、足を、止めた。
「北側を、確認する。自分が、行く」
「一人で、ですか」
イブが、聞いた。
「問題ない」
「何かあったら」
「ない」
「でも、万が一」
「ない」
ジンが、言った。
間が、あった。
「……ジンさんって、心配されたこと、ないですか」
ジンが、視線を、上げた。
「ある」
「誰に?」
ジンが、フウを、見た。
短い間、見た。
戻した。
「フウに」
フウが、小さく、手を、挙げた。
「フウちゃん、か……なんか、わかる気がする」
イブが、頷いた。
ジンが、歩き出した。背中が、いつもより、わずかに、まっすぐ、見えた。
◆
夕方、宮廷に、戻った。
ケイが、机で、記録を、書いていた。
筆を動かしている。一定の速さだ。
イブが、向かいに、座った。
ケイは、筆を、止めなかった。
「ケイさんって、今日、何語、しゃべりましたか」
ケイが、少し、考えた。
筆は、動いている。
「数えていない」
「数えてたの、私」
返事は、なかった。
「八語です。哨戒中、ずっと」
「そうか」
ケイが、言った。
「それが、九語目ですね」
ケイは、筆を、動かし続けた。
少し、間が、空いた。
イブが、机の縁に、指を、置いた。爪の先で、軽く、二度、叩いた。
それから、その指を、止めた。
「……ねえ」
イブが、言った。
声が、少しだけ、低くなっていた。
「こわくないよ、私。話しかけて、いいよ」
ケイが、筆を、止めた。
顔は、上げなかった。
「話しかけているのは、そちらだ」
イブが、小さく、笑った。
「確かに」
また、間が、空いた。
「今日、どうだった。役に立てた?」
ケイが、筆を、置いた。
今度は、顔を、上げた。
イブを、見た。
「問題なかった」
「……ケイさんにとっての、褒め言葉って、それですか」
「そうだ」
「わかった。それで、いい」
イブが、立ち上がった。
少し、嬉しそうな顔を、していた。
「また、明日もよろしく」
ケイは、答えなかった。
筆を、もう一度、手に取った。
動かし、はじめた。
イブが、扉に、手を、かけた。
扉を開けながら、もう一度、口を開いた。
「十三語」
小声だった。
聞こえる、ぎりぎりの声だ。
ケイは、何も、言わなかった。
筆の音だけが、続いていた。
机の縁に、爪の跡が、二つ、ついていた。
さっき、イブが、叩いた場所だ。




