Episode 18|帰還
◆
馬車の中に、空席が一つあった。
誰も、そこに座らなかった。ファーマルクを出るとき、自然に、そうなっていた。
車輪が、石畳を叩く。規則的な音だ。低い、乾いた音。一定の間隔で、車体が一度沈み、また持ち上がる。
空席が、揺れる。
座面に、誰も乗っていない。へこみがない。荷物も置かれていない。そこだけ、布の張りが、他より、わずかに、新しく見える。
誰も、直さなかった。
四人乗りの、空席。
一人分の、不在。
揺れるたびに、その座面だけが、軽かった。
フウは、窓の外を向いている。前髪が、ガラスに触れそうな位置にあった。視線は、外の景色を追っていない。動いていない。
ジンは、腕を組んで、目を閉じている。眠ってはいない。揺れに合わせて、肩が一度、上下する。それだけだ。
サトルは、壁を見ている。視線が、車内の一点で止まっている。何もない位置だ。ときおり、目だけが、ごく短く、動く。チップの中で、何かを、開いては閉じているのだろう。
ケイは、空席の向かい側に座っている。
揺れるたびに、隣の席の荷物がずれた。誰も、直さなかった。
しばらくして、フウが、言った。
「ざわざわ、少し、減った」
誰も、答えなかった。
「……減った。でも、消えてない」
フウが、もう一度、言った。今度は、自分に確かめるような声だった。
ジンが、目を開けた。
フウを、一度、見た。
また、閉じた。
窓の外に、木が続いている。葉が、出始めていた。北の春は、遅い。それでも、来てはいる。
街道は、長かった。
◆
ハストゥラの城門が見えたのは、夕方だった。
橙が、石壁に滲んでいる。出るときに見た色と、同じだ。同じ角度で、同じ濃度で、滲んでいる。だが、戻ってきた者の数は、違う。
出るときは、五人だった。
戻ったのは、四人だった。
城門の衛兵が、馬車を通した。頭を下げた。一礼が、いつもより、わずかに深い。
誰も、声をかけてこなかった。
話は、すでに、届いているのだろう。
宰相室は、三階にある。
四人で、廊下を歩いた。ジンが先頭に立った。フウが続いた。サトルが後ろ、ケイが最後尾だった。並びが、自然に決まった。
扉の前で、ジンが、一度、止まった。
ノックは、しなかった。
扉が、内側から開いた。
宰相は、窓際に立っていた。
振り返った。
視線が、入ってきた四人を、順に、撫でた。アキラがいるはずだった場所に、ほんの一拍、視線が止まった。すぐに、戻った。
一人足りないことは、すでに、伝わっていたようだった。
「報告を」
短い。いつもの声だ。
ジンが、前に出た。
「掃討は、完了しました。ファーマルク近郊のエラント上位種、殲滅を確認。封鍵魔物の残存反応も、ありません」
宰相が、息を、一つ、置いた。
報告書を、机に、戻した。
指が、紙の縁を、押さえた。
「アキラについては」
短い間が、あった。
ジンが、答えた。
「消えました」
言葉が、止まった。
続けた。
「意識を失い、翌日、跡形なく。転移者の、消え方でした」
宰相が、一行を、見た。
それぞれの顔を、順に。フウを見た。サトルを見た。ケイを見た。最後に、ジンに戻った。
息を、一つ、吐いた。
長くも、短くもない、息だ。
「功績は、記録する」
制度の言葉だった。冷たくはない。だが、温度もない。
「身元の手がかりは」
サトルが、答えた。
「ありません」
「わかった」
ケイは、宰相室の壁を、見ていた。
石が、滑らかに削られている。継ぎ目の線が、上から下へ、まっすぐに伸びている。
——記録だけが、残る。
声には、出さなかった。
アキラ、という名前。
功績、という欄。
消失、という結末。
三行で、終わる。
アキラの体は、ない。墓も、ない。砂を入れる場所も、ない。
あの場所にも、もう、何も、残っていないだろう。
「ご苦労だった。今夜は、休め」
宰相が、続けた。
今度は、声が、少しだけ、落ちていた。
扉が、閉まった。
◆
廊下に出た。
サトルが、眼鏡を、外した。袖の内側で、レンズを拭いた。ゆっくりだ。普段より、ずっと、ゆっくりだった。
拭き終えても、すぐにはかけ直さなかった。掌の中に、しばらく、持ったままだった。
ジンが、先に歩き出した。
フウが、ケイの隣に並んだ。
歩幅が、いつもより、半歩、短い。
誰も、何も、言わなかった。
角を、曲がった。
角の向こうから、声がした。
明るい声だった。
場違いなほど、明るい。
「あ、人いた!よかった〜」
四人の足が、一度、止まった。
ジンが、視線だけを、声の方へ向けた。サトルは、まだ、眼鏡を、かけ直していなかった。フウの肩が、一瞬、動いた。
柱の陰から、出てきた。
小柄な少女だ。
明るめの茶色の、短い髪。耳の下で、揃っている。大きめの目が、四人を、順に、見た。一人、また一人。視線が、迷いなく動く。
白い詰襟のシャツに、丈の短い上着。腰に、革のベルト。体の線が細い。背は、ケイの肩のあたりまで、しかなかった。
「道、わかんなくて」
少女が、笑った。
笑うときに、体が、わずかに、前に出る癖がある。
「ここってどこですか、この建物」
サトルが、ようやく、眼鏡を、かけ直した。
フレームの位置を、指で、整えた。
「……転移者、ですか」
「えっ、わかります?」
少女が、目を、丸くした。それから、また笑った。
「そうなんです。さっき騎士の人に連れてきてもらって、ここで待ってろって言われたんですけど、ちょっとうろうろしてたら、完全に、迷って」
話し方が、早い。
だが、聞き取れる早さだ。区切りが、ちゃんとある。
フウが、振り返った。
目が、少し、丸くなっていた。
肩が、また、動いた。
フウの感知が、強く、反応している。
いつもより、ずっと、強い。
ケイは、少女を、見た。
——次の、転移者か。
声には、出さなかった。
アキラがいた場所が、まだ、馬車の中で揺れていた。あの空席が、たった今、廊下の真ん中で、別の形を取りはじめた気がした。
一人、消えた。
一人、来た。
間が、短い。
「名前は」
ケイが、聞いた。
いつもの声だった。
少女が、背筋を、伸ばした。
笑ったまま。
「イブです」
頭を、少し下げた。
「よろしくお願いします!」
声が、明るい。
明るすぎる、というほどでもない。
サトルが、眼鏡の位置を、整え直した。フレームの両端に、指を置いた。短い動作だ。だが、馬車を降りてから初めて、その手の動きが、いつもの速さに戻った。
ジンが、視線を、元に戻した。歩き出そうとして、止まった。盾の留め金に、指が、触れた。すぐに、下りた。
フウが、小さく、息を、吸った。
吸って、止めた。
吐かない。
少女の方を、見ている。視線が、外れない。
足が、半歩、前に出た。
言葉は、出てこなかった。




