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Episode 18|帰還


 馬車の中に、空席が一つあった。


 誰も、そこに座らなかった。ファーマルクを出るとき、自然に、そうなっていた。


 車輪が、石畳を叩く。規則的な音だ。低い、乾いた音。一定の間隔で、車体が一度沈み、また持ち上がる。


 空席が、揺れる。


 座面に、誰も乗っていない。へこみがない。荷物も置かれていない。そこだけ、布の張りが、他より、わずかに、新しく見える。


 誰も、直さなかった。


 四人乗りの、空席。


 一人分の、不在。


 揺れるたびに、その座面だけが、軽かった。


 フウは、窓の外を向いている。前髪が、ガラスに触れそうな位置にあった。視線は、外の景色を追っていない。動いていない。


 ジンは、腕を組んで、目を閉じている。眠ってはいない。揺れに合わせて、肩が一度、上下する。それだけだ。


 サトルは、壁を見ている。視線が、車内の一点で止まっている。何もない位置だ。ときおり、目だけが、ごく短く、動く。チップの中で、何かを、開いては閉じているのだろう。


 ケイは、空席の向かい側に座っている。


 揺れるたびに、隣の席の荷物がずれた。誰も、直さなかった。


 しばらくして、フウが、言った。


「ざわざわ、少し、減った」


 誰も、答えなかった。


「……減った。でも、消えてない」


 フウが、もう一度、言った。今度は、自分に確かめるような声だった。


 ジンが、目を開けた。


 フウを、一度、見た。


 また、閉じた。


 窓の外に、木が続いている。葉が、出始めていた。北の春は、遅い。それでも、来てはいる。


 街道は、長かった。




 ハストゥラの城門が見えたのは、夕方だった。


 橙が、石壁に滲んでいる。出るときに見た色と、同じだ。同じ角度で、同じ濃度で、滲んでいる。だが、戻ってきた者の数は、違う。


 出るときは、五人だった。


 戻ったのは、四人だった。


 城門の衛兵が、馬車を通した。頭を下げた。一礼が、いつもより、わずかに深い。


 誰も、声をかけてこなかった。


 話は、すでに、届いているのだろう。


 宰相室は、三階にある。


 四人で、廊下を歩いた。ジンが先頭に立った。フウが続いた。サトルが後ろ、ケイが最後尾だった。並びが、自然に決まった。


 扉の前で、ジンが、一度、止まった。


 ノックは、しなかった。


 扉が、内側から開いた。


 宰相は、窓際に立っていた。


 振り返った。


 視線が、入ってきた四人を、順に、撫でた。アキラがいるはずだった場所に、ほんの一拍、視線が止まった。すぐに、戻った。


 一人足りないことは、すでに、伝わっていたようだった。


「報告を」


 短い。いつもの声だ。


 ジンが、前に出た。


「掃討は、完了しました。ファーマルク近郊のエラント上位種、殲滅を確認。封鍵魔物の残存反応も、ありません」


 宰相が、息を、一つ、置いた。


 報告書を、机に、戻した。


 指が、紙の縁を、押さえた。


「アキラについては」


 短い間が、あった。


 ジンが、答えた。


「消えました」


 言葉が、止まった。


 続けた。


「意識を失い、翌日、跡形なく。転移者の、消え方でした」


 宰相が、一行を、見た。


 それぞれの顔を、順に。フウを見た。サトルを見た。ケイを見た。最後に、ジンに戻った。


 息を、一つ、吐いた。


 長くも、短くもない、息だ。


「功績は、記録する」


 制度の言葉だった。冷たくはない。だが、温度もない。


「身元の手がかりは」


 サトルが、答えた。


「ありません」


「わかった」


 ケイは、宰相室の壁を、見ていた。


 石が、滑らかに削られている。継ぎ目の線が、上から下へ、まっすぐに伸びている。


 ——記録だけが、残る。


 声には、出さなかった。


 アキラ、という名前。


 功績、という欄。


 消失、という結末。


 三行で、終わる。


 アキラの体は、ない。墓も、ない。砂を入れる場所も、ない。


 あの場所にも、もう、何も、残っていないだろう。


「ご苦労だった。今夜は、休め」


 宰相が、続けた。


 今度は、声が、少しだけ、落ちていた。


 扉が、閉まった。




 廊下に出た。


 サトルが、眼鏡を、外した。袖の内側で、レンズを拭いた。ゆっくりだ。普段より、ずっと、ゆっくりだった。


 拭き終えても、すぐにはかけ直さなかった。掌の中に、しばらく、持ったままだった。


 ジンが、先に歩き出した。


 フウが、ケイの隣に並んだ。


 歩幅が、いつもより、半歩、短い。


 誰も、何も、言わなかった。


 角を、曲がった。


 角の向こうから、声がした。


 明るい声だった。


 場違いなほど、明るい。


「あ、人いた!よかった〜」


 四人の足が、一度、止まった。


 ジンが、視線だけを、声の方へ向けた。サトルは、まだ、眼鏡を、かけ直していなかった。フウの肩が、一瞬、動いた。


 柱の陰から、出てきた。


 小柄な少女だ。


 明るめの茶色の、短い髪。耳の下で、揃っている。大きめの目が、四人を、順に、見た。一人、また一人。視線が、迷いなく動く。


 白い詰襟のシャツに、丈の短い上着。腰に、革のベルト。体の線が細い。背は、ケイの肩のあたりまで、しかなかった。


「道、わかんなくて」


 少女が、笑った。


 笑うときに、体が、わずかに、前に出る癖がある。


「ここってどこですか、この建物」


 サトルが、ようやく、眼鏡を、かけ直した。


 フレームの位置を、指で、整えた。


「……転移者、ですか」


「えっ、わかります?」


 少女が、目を、丸くした。それから、また笑った。


「そうなんです。さっき騎士の人に連れてきてもらって、ここで待ってろって言われたんですけど、ちょっとうろうろしてたら、完全に、迷って」


 話し方が、早い。


 だが、聞き取れる早さだ。区切りが、ちゃんとある。


 フウが、振り返った。


 目が、少し、丸くなっていた。


 肩が、また、動いた。


 フウの感知が、強く、反応している。


 いつもより、ずっと、強い。


 ケイは、少女を、見た。


 ——次の、転移者か。


 声には、出さなかった。


 アキラがいた場所が、まだ、馬車の中で揺れていた。あの空席が、たった今、廊下の真ん中で、別の形を取りはじめた気がした。


 一人、消えた。


 一人、来た。


 間が、短い。


「名前は」


 ケイが、聞いた。


 いつもの声だった。


 少女が、背筋を、伸ばした。


 笑ったまま。


「イブです」


 頭を、少し下げた。


「よろしくお願いします!」


 声が、明るい。


 明るすぎる、というほどでもない。


 サトルが、眼鏡の位置を、整え直した。フレームの両端に、指を置いた。短い動作だ。だが、馬車を降りてから初めて、その手の動きが、いつもの速さに戻った。


 ジンが、視線を、元に戻した。歩き出そうとして、止まった。盾の留め金に、指が、触れた。すぐに、下りた。


 フウが、小さく、息を、吸った。


 吸って、止めた。


 吐かない。


 少女の方を、見ている。視線が、外れない。


 足が、半歩、前に出た。


 言葉は、出てこなかった。


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