Episode 17|消失
◆
誰も、動かなかった。
風が、樹冠の上を渡っていく。木々の揺れる音が、低く続いている。地面は、まだ夜の冷えを残している。鎧が触れたあたりの土が、わずかに湿っている。
半刻、過ぎた。
もう一度、過ぎた。
三度目を、誰も、数えなかった。
フウは、アキラの手を握ったままだ。顔は伏せている。毛先が、アキラの手の甲に落ちていた。動かない。
フウの指は、白くなっていた。
爪の付け根まで、白い。
アキラの手は、まだ、温い。
フウは、その温度を、自分の指で、抱え込んでいた。
ジンは、膝をついたままだ。盾は、地面に下ろされている。刀の柄に手が乗っている。手の甲の血管が、いつもより浮いていた。
サトルは、一歩引いた位置に立っている。視線は空にあった。樹冠の隙間から覗く、白い空。だが、見ていない。視界の中の、別の何かを、追っている目だ。チップの中の記録を、めくっているのだろう。指が、虚空を、ごく短く、撫でた。一度、二度。撫でて、止まる。
ケイの指は、まだアキラの首の後ろにあった。
離せなかった。
離した瞬間に、何かが確定する気がした。
——指を、抜く。
それは、診終わる、という意味だ。
診終わるとは、もう読まない、という意味だった。
「他に反応は」
ケイが、ようやく言った。声が低い。自分の声に聞こえなかった。
フウが、首を横に振った。
顔は、上げない。
「……ないよ。今は」
今は、と言った。
ケイは、その「今は」を聞き取った。聞き取って、訊き返さなかった。
アキラの呼吸が、続いていた。
浅い。
胸が、小さく、上下している。
止まりはしない。だが、戻りもしない。
ケイは、もう一度、首の後ろの構造を読もうとした。
骨はある。指の腹が、頸椎の硬さを確認する。肉はある。指の側面が、皮膚の下の柔らかさを確認する。血も、止まっていない。指先が、ぬるい温度を拾う。
骨。肉。血。
——だが、読める形をしていない。
いつもの感覚を入れる。入れて、滑る。鍵穴がない。掛け金がない。解錠する場所がない。
ただの、肉の塊だ。
ケイは、目を伏せた。
誰も、それ以上のことを言わなかった。
◆
光の角度が、変わった。
樹冠から斜めに差していた光が、真上から落ちる光になっていた。冬の北の、薄い光だ。それでも、最初に倒れたときよりは、確かに上がっている。
昼を、少し過ぎた頃だった。
フウが、顔を、少し動かした。
耳を、何かに向けるような動きだ。視線は、伏せたままだ。
それから、顔を上げた。
握っていた手を、わずかに開いた。
手の中が、空になっていた。
フウは、その空の手のひらを見ていた。指を曲げない。閉じない。開いたまま、しばらく、動かなかった。
ケイが、視線を下げた。
アキラが倒れていた場所。
草が、残っていた。
踏み倒された草。鎧の重みで、沈んだ形のままだ。沈んだ角度のまま、戻っていない。
ただ、その上に、何もなかった。
鎧がない。剣がない。荷物がない。腰の革袋も、首にかけていた金具も、ない。
骨も、肉も、血も、ない。
草だけが、残っていた。
ケイは、しゃがんだまま、その草を見ていた。
——違う。
声には、出さなかった。
ひとつめは、レドだった。
遺体が、あった。重さが、あった。砂を入れる場所が、あった。
ふたつめは、霧の中の転移者。
遺体が、なかった。鎧も、剣も、なかった。霧が晴れた後、踏み荒らされた草だけが、残っていた。地面に、染みもなかった。
みっつめが、アキラだ。
鎧が、消えた。剣が、消えた。骨も、肉も、消えた。
草は、残った。
——消え方が、違う。
ケイの中で、引っかかりが、輪郭を持ちはじめる。まだ、言葉にならない。だが、形が見えはじめていた。三つある。三つとも、違う。
ジンが、立ち上がった。
膝の土を払わない。盾を、ゆっくり拾った。
「……戻ったんですね」
サトルが、言った。
確かめる声だった。誰に確かめているのか、わからない。自分にか、ケイにか、それとも、いない者にか。
ケイは、答えなかった。
ジンも、答えなかった。
フウは、まだ、空の手のひらを見ていた。
——本当に、そうか。
ケイの中で、その問いだけが、残った。
答えは、出なかった。
◆
ジンが、盾を背に回した。
「撤収する」
短い。
いつもの声だった。
フウが、立ち上がった。足元の毛布を、抱え直す。それから、振り返らずに歩き出そうとした。
動かなかったのは、サトルだった。
眼鏡に、指が伸びた。押し上げようとして、止まった。フレームに触れたまま、動かない。
サトルの喉が、一度、上下した。
言葉を、選んでいた。
選んで、置き直していた。
息を、一つ吐いた。
長い息だ。
それから、もう一度、息を吸った。
「一つ——」
声が、続かなかった。
唇が、一度閉じた。
もう一度、開いた。
「言っておかないと、いけないことが、あります」
全員が、止まった。
フウが、振り返った。ジンが、サトルを見た。ケイは、しゃがんだまま、視線だけを上げた。
サトルが、ようやく眼鏡を押し上げた。フレームの縁を、二本の指で、慎重に持ち上げた。
視線を、上に向けた。
視界の一点を、指で、軽く突いた。記録を、開いたのだ。今朝の、戦闘の前にはなかった印だ。倒れたアキラの首の後ろを、確認したときに、付けたものだ。
サトルが、その記録を、パーティに送った。
「アキラさんの首の後ろ。延髄の近くを、さっき確認しました」
一拍。
「延髄に、体内チップが埋め込まれているはずです。私たちが、元の世界で、皆そうしていたように」
もう一拍。
「こちらに来ても、念話が、使えています。だから、私たちは、チップを持ったまま転移してきた、と、考えてきました」
間。
「パーティ間の通信は、すべて、そのチップを介して、繋がっている」
もう一度、間。
「アキラさんの延髄に、それが、ありませんでした」
静寂。
風の音が、止まったように聞こえた。実際には、止まっていない。木々はまだ揺れている。だが、音が、後ろに引いた。
ジンの首が、動いた。
体は、そのままだ。視線だけが、サトルの方を向いた。
サトルが、続けた。
「損傷で失った、わけではないと思います。傷の形を見ると——切れた跡も、抜けた跡もありません。皮膚は綺麗でした。最初から、なかった状態に見えました」
ケイの視界に、図が開いた。フウとジンの視界にも、同じものが届いているはずだ。首の後ろの輪郭と、本来チップがあるべき位置を示す丸。その丸が、空白で描かれている。塗りつぶされていない。線だけだ。
「ただ——」
サトルが、もう一度、息を吸った。
「アキラさんとは、今日もずっと、チップで通信していました。戦闘中も。展開の指示も、迂回の合図も、全部、通信で受けていました」
誰も、口を挟まなかった。
「体内チップが、ない。それなのに、通信が、できていた。そういうことに、なります」
図が、閉じられた。
ゆっくりだった。
フウが、ジンを見た。ジンも、フウを見た。
ジンが、一度、自分の首の後ろに手をやった。指が、皮膚に触れる。確かめるように、押す。それから、すぐに下ろした。
サトルも、確かめるように、自分の後頭部の付け根に、指を、近づけた。
フウだけが、自分の首の後ろに、触れなかった。
触れなかった、というより、触れられない、ように見えた。
その代わりに、ケイを見た。
ケイは、見られたのを、視界の端で捉えた。フウの目は、いつもより、少し、開いていた。それだけだ。何も言わない。
「もしかすると」
サトルが、言った。
言葉を選んでいた。一語ずつ、置くように。
「アキラさん、だけじゃない、かもしれません」
ケイは、答えなかった。
答えられなかった。
自分の首の後ろを、誰かに、確認させたことが、あったか。
ない。
自分で、確認したことが、あったか。
ない。
だが、通信は、できている。今も。
——自分にも、たぶん、ない。
声には、出さなかった。
埋め込まれた記憶が、思い出せない。誰かに埋め込まれた記憶も、思い出せない。ずっと、確かめてこなかった。意識しないようにしてきた、というほどでもない。ただ、確かめる機会が、なかった。それなのに、通信は、できていた。聖詔者の声も、パーティの声も、ずっと、聞こえていた。
骨はある。肉もある。血も流れている。
——たぶん、自分も、読める形を、していない。
自分の首の後ろを、もし、サトルが今、確認したら。
同じ図が、描かれるかもしれない。
線だけの、空白の丸が。
ケイの指は、まだ、アキラの首の後ろに触れたままだった。
離していない。
離す、きっかけが、なかった。
風が、また吹いた。
草が、揺れた。
アキラがいた場所の草も、揺れた。
ただ、その上には、何もなかった。
——消え方が、違う。
ケイの中で、その言葉だけが、残っていた。




