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Episode 17|消失


 誰も、動かなかった。


 風が、樹冠の上を渡っていく。木々の揺れる音が、低く続いている。地面は、まだ夜の冷えを残している。鎧が触れたあたりの土が、わずかに湿っている。


 半刻、過ぎた。


 もう一度、過ぎた。


 三度目を、誰も、数えなかった。


 フウは、アキラの手を握ったままだ。顔は伏せている。毛先が、アキラの手の甲に落ちていた。動かない。


 フウの指は、白くなっていた。


 爪の付け根まで、白い。


 アキラの手は、まだ、温い。


 フウは、その温度を、自分の指で、抱え込んでいた。


 ジンは、膝をついたままだ。盾は、地面に下ろされている。刀の柄に手が乗っている。手の甲の血管が、いつもより浮いていた。


 サトルは、一歩引いた位置に立っている。視線は空にあった。樹冠の隙間から覗く、白い空。だが、見ていない。視界の中の、別の何かを、追っている目だ。チップの中の記録を、めくっているのだろう。指が、虚空を、ごく短く、撫でた。一度、二度。撫でて、止まる。


 ケイの指は、まだアキラの首の後ろにあった。


 離せなかった。


 離した瞬間に、何かが確定する気がした。


 ——指を、抜く。


 それは、診終わる、という意味だ。


 診終わるとは、もう読まない、という意味だった。


「他に反応は」


 ケイが、ようやく言った。声が低い。自分の声に聞こえなかった。


 フウが、首を横に振った。


 顔は、上げない。


「……ないよ。今は」


 今は、と言った。


 ケイは、その「今は」を聞き取った。聞き取って、訊き返さなかった。


 アキラの呼吸が、続いていた。


 浅い。


 胸が、小さく、上下している。


 止まりはしない。だが、戻りもしない。


 ケイは、もう一度、首の後ろの構造を読もうとした。


 骨はある。指の腹が、頸椎の硬さを確認する。肉はある。指の側面が、皮膚の下の柔らかさを確認する。血も、止まっていない。指先が、ぬるい温度を拾う。


 骨。肉。血。


 ——だが、読める形をしていない。


 いつもの感覚を入れる。入れて、滑る。鍵穴がない。掛け金がない。解錠する場所がない。


 ただの、肉の塊だ。


 ケイは、目を伏せた。


 誰も、それ以上のことを言わなかった。




 光の角度が、変わった。


 樹冠から斜めに差していた光が、真上から落ちる光になっていた。冬の北の、薄い光だ。それでも、最初に倒れたときよりは、確かに上がっている。


 昼を、少し過ぎた頃だった。


 フウが、顔を、少し動かした。


 耳を、何かに向けるような動きだ。視線は、伏せたままだ。


 それから、顔を上げた。


 握っていた手を、わずかに開いた。


 手の中が、空になっていた。


 フウは、その空の手のひらを見ていた。指を曲げない。閉じない。開いたまま、しばらく、動かなかった。


 ケイが、視線を下げた。


 アキラが倒れていた場所。


 草が、残っていた。


 踏み倒された草。鎧の重みで、沈んだ形のままだ。沈んだ角度のまま、戻っていない。


 ただ、その上に、何もなかった。


 鎧がない。剣がない。荷物がない。腰の革袋も、首にかけていた金具も、ない。


 骨も、肉も、血も、ない。


 草だけが、残っていた。


 ケイは、しゃがんだまま、その草を見ていた。


 ——違う。


 声には、出さなかった。


 ひとつめは、レドだった。


 遺体が、あった。重さが、あった。砂を入れる場所が、あった。


 ふたつめは、霧の中の転移者。


 遺体が、なかった。鎧も、剣も、なかった。霧が晴れた後、踏み荒らされた草だけが、残っていた。地面に、染みもなかった。


 みっつめが、アキラだ。


 鎧が、消えた。剣が、消えた。骨も、肉も、消えた。


 草は、残った。


 ——消え方が、違う。


 ケイの中で、引っかかりが、輪郭を持ちはじめる。まだ、言葉にならない。だが、形が見えはじめていた。三つある。三つとも、違う。


 ジンが、立ち上がった。


 膝の土を払わない。盾を、ゆっくり拾った。


「……戻ったんですね」


 サトルが、言った。


 確かめる声だった。誰に確かめているのか、わからない。自分にか、ケイにか、それとも、いない者にか。


 ケイは、答えなかった。


 ジンも、答えなかった。


 フウは、まだ、空の手のひらを見ていた。


 ——本当に、そうか。


 ケイの中で、その問いだけが、残った。


 答えは、出なかった。




 ジンが、盾を背に回した。


「撤収する」


 短い。


 いつもの声だった。


 フウが、立ち上がった。足元の毛布を、抱え直す。それから、振り返らずに歩き出そうとした。


 動かなかったのは、サトルだった。


 眼鏡に、指が伸びた。押し上げようとして、止まった。フレームに触れたまま、動かない。


 サトルの喉が、一度、上下した。


 言葉を、選んでいた。


 選んで、置き直していた。


 息を、一つ吐いた。


 長い息だ。


 それから、もう一度、息を吸った。


「一つ——」


 声が、続かなかった。


 唇が、一度閉じた。


 もう一度、開いた。


「言っておかないと、いけないことが、あります」


 全員が、止まった。


 フウが、振り返った。ジンが、サトルを見た。ケイは、しゃがんだまま、視線だけを上げた。


 サトルが、ようやく眼鏡を押し上げた。フレームの縁を、二本の指で、慎重に持ち上げた。


 視線を、上に向けた。


 視界の一点を、指で、軽く突いた。記録を、開いたのだ。今朝の、戦闘の前にはなかった印だ。倒れたアキラの首の後ろを、確認したときに、付けたものだ。


 サトルが、その記録を、パーティに送った。


「アキラさんの首の後ろ。延髄の近くを、さっき確認しました」


 一拍。


「延髄に、体内チップが埋め込まれているはずです。私たちが、元の世界で、皆そうしていたように」


 もう一拍。


「こちらに来ても、念話が、使えています。だから、私たちは、チップを持ったまま転移してきた、と、考えてきました」


 間。


「パーティ間の通信は、すべて、そのチップを介して、繋がっている」


 もう一度、間。


「アキラさんの延髄に、それが、ありませんでした」


 静寂。


 風の音が、止まったように聞こえた。実際には、止まっていない。木々はまだ揺れている。だが、音が、後ろに引いた。


 ジンの首が、動いた。


 体は、そのままだ。視線だけが、サトルの方を向いた。


 サトルが、続けた。


「損傷で失った、わけではないと思います。傷の形を見ると——切れた跡も、抜けた跡もありません。皮膚は綺麗でした。最初から、なかった状態に見えました」


 ケイの視界に、図が開いた。フウとジンの視界にも、同じものが届いているはずだ。首の後ろの輪郭と、本来チップがあるべき位置を示す丸。その丸が、空白で描かれている。塗りつぶされていない。線だけだ。


「ただ——」


 サトルが、もう一度、息を吸った。


「アキラさんとは、今日もずっと、チップで通信していました。戦闘中も。展開の指示も、迂回の合図も、全部、通信で受けていました」


 誰も、口を挟まなかった。


「体内チップが、ない。それなのに、通信が、できていた。そういうことに、なります」


 図が、閉じられた。


 ゆっくりだった。


 フウが、ジンを見た。ジンも、フウを見た。


 ジンが、一度、自分の首の後ろに手をやった。指が、皮膚に触れる。確かめるように、押す。それから、すぐに下ろした。


 サトルも、確かめるように、自分の後頭部の付け根に、指を、近づけた。


 フウだけが、自分の首の後ろに、触れなかった。


 触れなかった、というより、触れられない、ように見えた。


 その代わりに、ケイを見た。


 ケイは、見られたのを、視界の端で捉えた。フウの目は、いつもより、少し、開いていた。それだけだ。何も言わない。


「もしかすると」


 サトルが、言った。


 言葉を選んでいた。一語ずつ、置くように。


「アキラさん、だけじゃない、かもしれません」


 ケイは、答えなかった。


 答えられなかった。


 自分の首の後ろを、誰かに、確認させたことが、あったか。


 ない。


 自分で、確認したことが、あったか。


 ない。


 だが、通信は、できている。今も。


 ——自分にも、たぶん、ない。


 声には、出さなかった。


 埋め込まれた記憶が、思い出せない。誰かに埋め込まれた記憶も、思い出せない。ずっと、確かめてこなかった。意識しないようにしてきた、というほどでもない。ただ、確かめる機会が、なかった。それなのに、通信は、できていた。聖詔者の声も、パーティの声も、ずっと、聞こえていた。


 骨はある。肉もある。血も流れている。


 ——たぶん、自分も、読める形を、していない。


 自分の首の後ろを、もし、サトルが今、確認したら。


 同じ図が、描かれるかもしれない。


 線だけの、空白の丸が。


 ケイの指は、まだ、アキラの首の後ろに触れたままだった。


 離していない。


 離す、きっかけが、なかった。


 風が、また吹いた。


 草が、揺れた。


 アキラがいた場所の草も、揺れた。


 ただ、その上には、何もなかった。


 ——消え方が、違う。


 ケイの中で、その言葉だけが、残っていた。


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