Episode 14|証明
◆
霧が、夜のうちに、五メートル広がっていた。
夜明けだった。
霧の縁に、全員が揃った。
ケイ。アリス。ジン。フウ。サトル。アキラ。
レドが率いる騎士団が、十二人。
空は青みが薄い。風が、止んでいる。
霧は、街道の手前まで、迫っていた。
白く、静かに、立ちはだかっている。
「フウ」
ケイが声をかけた。
フウが、霧の縁に近づいた。目を閉じた。
しばらく、そのまま。
「……呼んでる」
目を開けた。
「霧が呼んでる。こっちに来てる——まだ遠い。でも、増えてる」
「どのくらい時間がある」
「早い。十分もない」
レドが副官を見た。
副官が頷き、騎士たちに何かを言った。
騎士たちが散開する。周囲を警戒し始めた。
ケイは、霧を見た。
始める。
◆
霧の縁に近づく。
指先を、差し入れた。
冷たい。重くなる。
——読む。
構造の輪郭が、見えてくる。
蔓型より、層が、深い。
一枚、一枚、剥がしていく。
「来る」
フウの声が、変わった。
「早い。右から複数——前からも来てる」
声はない。
ジンから届いた。
——右、自分が出る。
アキラから来た。
——左はオレが見る。
「騎士団、前へ」
レドが叫んだ。
刃を抜く。先頭に立った。
使い込まれた鎧が、朝の光を受ける。
「副官、左翼を頼む。お前は中央だ」
短い指示。揺れがない。
部下の名を、一人ずつ、目で確認する。
頷きが、返ってくる。
霧から、目を離さない。
——構造の底が、見えてきた。
木立が揺れる。枝が折れる。地面を踏む音が、速い。多い。
エラントの上位種。
八体。いや、十体以上。
木立の中から、街道の両側から、一斉に出てくる。
背の羽が、広がっている。
ジンの刀が閃いた。右翼の二体が倒れた。
また一体。
アキラが左から走る。一体を抜く。次の一体を流す。
サトルの防壁が、展開した。
逃げ場が、塞がる。
——底まで、あと少し。
◆
「副官殿、退がれ!」
レドの声が、聞こえた。
振り返らない。
——今は、離れられない。
重い音がした。
鎧が、歪む音。
振り返った。
レドが、地面にいた。
副官を、庇った位置。
上位種が、圧し掛かっている。
体長が、二メートル近い。
胸板の鎧が、大きく潰れている。
ジンが走った。刀が、一閃した。
上位種が、両断された。
間に合わなかった。
レドは、動かなかった。
鎧が、地面に沈んでいた。
目が開いたまま、空を見ていた。
騎士の一人が、膝をついた。
「隊長」
声にならない声で、名を呼んでいた。
もう一人が走り寄った。
「隊長」
副官が、立ったまま、動けない。
目だけが、レドの胸の上にあった。
「全部」
フウが言った。
「もういない」
霧の縁が、静かになった。
——家族が、待っている。
——レドの、言葉だった。
アキラが隣に来た。
視線が、レドの方向にある。
しばらく、何も言わなかった。
「……真っ先に、出たんだな」
息を吐いた。
「まあ、転移者とは違うか。転移者は死んでも向こうに戻るだけだろ。じゃなきゃ、死体くらい残るはずだろうが」
アキラは、それきり口を閉じた。
ケイは、霧を見た。
◆
目を、戻せなかった。
しばらく、誰も、口を開かなかった。
サトルが防壁の魔法陣を解いた。
フウが、地面にしゃがんだ。
ジンは立ったまま、剣を握っていた。
アキラが、息を吐いた。もう一度、吐いた。
「……どうする」
誰に向けても、なかった。
ケイは、答えなかった。
答えるべきことを、まだ、決めていなかった。
霧は、変わらない位置にある。
白く、静かに、立ちはだかっている。
ここで、止めれば。
誰かが、また、ここに来る。
その誰かは、レドではない。
レドは、もう、来ない。
——もう一度。
声には、出さなかった。
立ち上がった。
立ち上がる動作だけで、答えになった。
ジンが頷いた。
アキラが、刀の柄を握り直した。
サトルが、防壁を、もう一度、組み始めた。
フウが、目を閉じた。
◆
縁に、もう一度、近づいた。
指先を、差し入れた。
冷たい。重くなる。
レドの名を、呼ぶ声。低い。
——続きだ。
一層ずつ、剥がしていく。
蔓型と、同じ手順だ。
外から読んで、底まで辿り着けば——
フウの声が、変わった。
「来る。また来てる。さっきより、多い」
声はない。
アキラから届いた。
——任せろ。そこから動くな。
ジンから届いた。
——前、自分が抑える。
構造から、手を離さない。
また一層。
木立が揺れる。羽が広がる音。地面を踏む音が、速い。多い。
ジンの刀が閃く。アキラが左から走る。サトルの防壁が展開する。
振り返らない。
——今は、離れられない。
また一層。底に、近づいている。
あと少しで——
「ケイ」
フウが叫んだ。
「右。木の上から来てる」
声はない。
サトルから届いた。
——右、防壁を展開します。
アキラから届いた。
——サトルは展開だけしてろ。押し込むのはオレがやる。
魔法陣の展開音。叩きつける音。
振り返らない。
——底まで、あと——
底が、ない。
指が、止まった。
息を、止めていた。
もう一層。もう一層。
端が、来ない。
蔓型は、外側から閉じていた。
霧は、違う。
霧は——
指先が、わずかに、震えた。
そういうことか。
全体が、一つの式だ。
鍵穴がない。
外から差し込む場所が、ない。
霧は、自分自身の外側を、持っていない。
——外から来たものを、弾く。
——ならば、内から出たものは。
外の音が、止んだ。
フウの声が、落ち着いた。
「終わった。外、もういない」
霧の縁から、気配が消えた。
鍵は、霧の中から、作るしかない。
構造を、頭に展開した。
この式から逆算すれば、霧そのものが、鍵の形を持っている。
始めた。
◆
どのくらい経ったか、わからない。
指先の感覚が、薄くなっている。
頭の奥が、重い。
膝が、震えているのに気づいた。
気づくと、ジンが隣にいた。
いつから、いたのか、わからない。
盾を、前に出したまま、動いていない。
式の最後の層が、揃った。
——これだ。
霧の構造から逆算した鍵の形が、頭の中に展開している。
巨大だ。蔓型のときとは、比べ物にならない。
式の量が、違う。
頭の端から、崩れようとしている。
押さえている間にも、形が、滲む。
「アリス」
呼んだ。声にならない。
もう一度。
「アリス」
振り返った。
アリスがいた。
縁から少し離れた位置に、ずっと立っていた。
振り返ると、アリスが、すぐに動いた。
「できた。大きい。早く」
アリスが近づく。
指先に展開した式に、目を落とした。
長い。
何も言わなかった。
ただ、読んでいた。
ケイは、崩れそうになる形を、押さえ続けた。
頭の奥で、何かが軋む音。
「——見えます。霧から、出たものです」
一歩、さらに縁に近づいた。
手を、胸の前で組んだ。
「縁を踏むな」
「問題ありません」
目を、閉じた。
声が、変わった。
「この鍵は、霧から来たものです」
霧の表面が、揺れる。
細かく、細かく、内側から、振動するように。
「霧の構造から導かれた、霧自身の鍵」
縁が、光る。
押し返すように。
一瞬、霧が濃くなる。
——合う。
ケイは、形を、押さえ続けた。
「ヴェリタス教団の名において——これを証明します」
音が、消えた。
霧が、内側から、割れた。
光ではない。
透明になった。
輪郭が一瞬だけ鮮明になって、次の瞬間、散った。
端から端まで、一気に。
冷たい風が、流れ込んできた。
霧の中に閉じ込められていた空気が、外に出てきた。
手を、離した。
膝が、折れかけた。
ジンの腕が、横から来た。
何も言わなかった。
支えたまま、立っている。
◆
霧の中が、見えてきた。
最初に見えたのは、地面。
踏み荒らされた草。倒れた木。
人がいる。
騎士が三人、地面に膝をついている。
光る鎖が、溶けていく。
一人が顔を上げた。
もう一人が、周囲を見回した。
三人目が、立ち上がろうとして、膝が折れた。
奥に、村人。
男が二人、女が一人。
輪になって、座っていた。
封印が解けると、女が声を上げた。
外から、騎士が駆けてきた。
助かった。
奥を、見た。
もう一人、いる。
霧の中心に近い位置に、転移者がいる。
騎士より、深く封じられている。
鎖が、幾重にも巻きついている。
封印が、解けた——その瞬間、転移者が、消えた。
跡形もない。
しばらく、誰も動かなかった。
ジンが、剣の柄を、握り直した。
サトルが、消えた場所を、見ていた。
視線が、動かない。
眼鏡の奥の目が、瞬きをしていなかった。
アキラが、霧の跡地に入った。
足元を見た。
草を、踏んだ。
何もない。
「……向こうに戻ったんだろ」
静かな声。
「死体が、残らない。転移者は、そういうもんだろ」
誰も、答えなかった。
助かった騎士の一人が、消えた場所を見ていた。
何かを言いかけて、口を閉じた。
地面を見た。
レドの体が、まだ、そこにある。
転移者のいた場所には、何もない。
——消え方が、違う。
何かが、引っかかった。
——転移者は、向こうに戻る。
——本当に、そうか。
頭の奥が、痛んだ。
◆
地面に、レドが、いる。
空には、雲が、流れていく。
風が、戻ってきた。
冷たい。
ケイは、ふたつの場所を、目で測った。
ここに、ひとつ。
あそこに、ひとつ。
ひとつには、体がある。鎧がある。名前を呼ぶ者がいる。
ひとつには、何もない。
——死が、ふたつ。
ひとつは、まだ、温かい。
ひとつは、跡形もない。
ケイは、もう一度、数えた。
——本当に、ふたつ、だけか。




