第九話 宵を見上げる人たち
ウェスティン帝国での暮らしが始まり数日が過ぎた。リリアは少しずつこの国の人々に触れていく。
「おはようございます、リリア様」
朝、侍女はいつも優しく微笑みながら部屋を訪れる。食事を運ぶ侍女も、廊下ですれ違う騎士たちも、誰一人として彼女を敵国の人間だからと蔑む者はいなかった。
そのさりげない心遣いが冷えきっていた胸の奥をゆっくりと温めていく。
(……ここは、とても優しい国だわ。こんなにも穏やかで……いい所なのね)
気づいた瞬間リリアは自分でも驚くほど静かに息を吐いた。張りつめていた緊張がほんの少しだけほどけていく。
侍女が朝食を置いてくれた時、リリアは自然と微笑んでいた。
「おはようございます。今日も一日よろしくお願いね。いつもありがとう」
その言葉は気負いも作りもなく、ただ心からこぼれたものだった。
侍女は少し驚いたように目を瞬かせすぐに柔らかく微笑み返した。
リリアの胸の奥でまたひとつ、温かいものが広がっていく。
城下へ出れば、民たちは皇太子の話を嬉しそうに語っている。
「そういえば、この前の市場でのことよ」
「殿下、視察の途中で迷子の子どもを見つけてね」
「騎士たちが慌てて保護しようとしたんだけど……」
「殿下が先にしゃがんで、子どもの目線に合わせて話しかけたのよ」
「『お母さんを一緒に探そう』って、手を取ってね」
「ははは、その子殿下のこと“優しいお兄さん”って呼んでたわ」
「騎士たちが真っ青になってたけどね」
みんなが笑いながら話すその光景は、カイルがどれほど民に慕われているかを自然に示していた。
その笑顔に、偽りは見えない。
(敵国……)
リリアはふと考える――
(私が知っていた敵国って、何だったのだろう。ウェスティン帝国は本当に敵国だったのかしら……)
幼い頃から教えられてきた話と、目の前にある現実が、少しずつ重ならなくなっていく。
◇◇◇
夕暮れ時。城の廊下を歩いていたリリアは、バルコニーに一人立つカイルの姿を見つけた。西日に照らされながら、静かに空を見つめている。その背中には、不思議な寂しさがあった。
(また……)
仕事が終わると決まって夕暮れの空を眺めている。ここ数日、何度か見かけていた場面。
(常々思うけれども、本当に私が思っていた皇太子殿下と全然違う。変わった方だわ)
そう思いながら、リリアも隣へ歩み寄る。
「殿下。夕暮れ時はいつもここにいますね。何が見えるのですか?隣失礼いたします」
カイルは静かに振り返り、目を細めながら小さく頷いた。
「……リリア嬢。このバルコニーから見る夕日に染まる城下街が、とてもきれいなのですよ」
カイルの言葉に促され二人は並んでバルコニーに立ち、ゆっくりと沈んでいく夕日を見つめた。
しばらく誰も口を開かなかった。けれど、その沈黙は不思議と心地よく胸の奥を静かに満たしていく。
やがてリリアがそっと口を開いた。
「……夕日、お好きなのですね」
その声は夕日の色に溶けるように柔らかかった。
カイルはわずかに目を細めて、夕日に染まる街を見つめたまま静かに息を吐く。
「夕日は一日の終わりですから。終わりというのは……嫌いではないのです」
カイルは夕日に染まる街並みを見つめたまま、ほんのわずかに目を細めた。その横顔はどこか遠い記憶を見ているようだった。
(……あの日も、夕日だった。十年前あなたと別れた時も。そして、――出会った時も)
けれどその想いを口にすることはない。今はまだその時ではないと知っているから。
リリアは宵の空へ目を向ける。ゆっくりと一番星が姿を現す。
「王国では、夕暮れになると花の香りが風に乗っていました」
カイルは何も言わず、静かに耳を傾ける。
「でも帝国では……」
城下を見下ろすと、家路につく人々の中には足を止めて夕空を見上げている姿があった。
その穏やかな光景に、自然と頬が緩む。
「夕空を見上げる人が多いのですね」
カイルは小さく微笑む。
「宵の空は、一日を無事に終えられた証だから」
その言葉にリリアも自然と笑みを浮かべた。
「……素敵な考え方ですね」
その笑顔を見つめながら、カイルは誰にも聞こえないほど小さく息をつく。
(私は――)
若草色の髪が夕日に染まる。エメラルドグリーンの瞳が宵の星を映している。
(あなたを忘れた日は、一日もなかった)
その想いは、胸の奥にそっとしまったままでいい。
――カイルの思いはまだ伝えない。伝えるのは、彼女が心から笑えるようになってから。




