第八話 戸惑う心
夕暮れの柔らかな光が客室の窓から差し込んでいた。茜色に染まる空は、ゆっくりと夜へと移り変わろうとしている。窓の向こうには一番星が小さく輝き始めていた。リリアは窓辺に立ち、その景色をぼんやりと眺めていた。
王国を追われてから、まだ数日しか経っていない。それなのにまるで遠い昔の出来事のように感じられた。
(ウェスティン帝国、皇太子カイル・ウェスティン……なんだか、思っていたのと違いすぎるわ)
リリアは謁見をへて、心の揺れはまだ収まらない。あの穏やかな声が耳の奥に残っている。
――昨日。
案内された先は広々とした控えの間だった。部屋の奥では一人の青年が窓辺に立ち、暮れゆく空の色を静かに見つめていた。
その背にどこか遠いものを思うような静けさが宿っている。夕暮れの光が黒髪の輪郭を淡く縁取り、肩越しに見える横顔には、深い思索の影が落ちていた。
――リリアが一歩踏み入れた瞬間、カイルの肩がほんの少しだけ揺れる。
ゆっくりと振り向いたその瞳に、驚きとも、喜びとも、戸惑いともつかない光が淡く揺れた。
黒髪に落ち着いた蒼い瞳。その姿には威圧感があるはずなのに不思議と冷たさは感じなかった。
リリアは緊張した面持ちで頭を下げる。
「コロバイン王国、リリア・ヴァリーでございます」
「ようこそ、ウェスティン帝国へ」
カイルはしばらくリリアを見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「……リリア・ヴァリー殿、ですね」
カイルの静かな声が響く。
「……はい」
「長旅でお疲れでしょう。まずは温かいお茶でもいかがですか」
「……え?」
思わず顔を上げてしまう。
“冷酷な戦神”。敵には容赦しない、――そう聞かされてきたはずなのに。自分のことなど、敵国の人間としか見ないだろう。捕らえられたのもそのせいだと思っていた。責められる覚悟だってしていた。なのに返ってきたのは労いの言葉だった。
彼はまるで別人のように穏やかで、その声は驚くほど優しかった。
戸惑うリリアに気づいたのか、カイルは穏やかな口調で続ける。
「安心してください。ここでは、あなたを敵国の人間として扱う者はいません」
その一言に、戸惑いが胸の奥で静かに揺れる。
(どうして、――どうしてこんなふうに迎えてくれるの……?……思っていた人と、違う)
目の前にいるのは、疲れた自分を気遣い温かいお茶を勧めてくれる一人の青年。それだけだった。
カイルがすすめた茶をリリアは戸惑いながらも素直に口にした。
「美味しい……」
その様子を静かに見守りながら、カイルは柔らかい声で告げる。
「お口に合ったようで安心しました。この後のデザートも、きっと気に入っていただけると思います。どうか楽しみにしていてください」
どこまでも穏やかで優しい声音だった。その優しさが、かえって胸の奥をざわつかせる。
(……どうして……?どうして、こんなふうに優しくするの……?私は敵国の人間なのに……)
リリアはそっと視線を落とし、しばらく迷ったあと意を決して口を開いた。
「……あの……ひとつ、伺ってもいいでしょうか」
カイルは静かに頷く。
「どうして……私がここにいる理由を、聞かないのですか?」
その問いは震えるほど小さな声だった。責めるようでもなく、怯えるようでもなく、ただ純粋な戸惑いが滲んでいた。
カイルは一瞬だけまなざしを柔らかくし、胸の奥でそっと微笑んだ。
(……やっと会えた……十年前から、ずっと願っていた再会。でも、――この想いを口にするのは、まだ早い)
その想いを静かに沈めてから、穏やかな声で答えた。
「あなたがここにいる理由は……あなた自身が話したいと思った時に聞きましょう。無理に問いただすつもりはありません」
カイルの言葉を聞いた瞬間、リリアの胸の奥でふたつの感情が静かにぶつかった。
(……聞かないの……?どうして……?)
敵国の皇太子なら理由を問いただし責め立てられるものだとばかり思っていた。けれど目の前の彼は違う。問いもしない。追い詰めもしない。ただ、話したくなった時でいいと、――まるで、リリアの心の傷に触れないようにそっと距離を置いてくれている。
戸惑いが胸を締めつける。でも、その奥で、ほんの少しだけ温かいものがほどけた。
(……よかった……少なくとも今すぐ責められるわけじゃない……)
ほっとした気持ちが自分でも驚くほど静かに広がっていく。
「……ありがとう、ございます」
けれど同時にどうしてこんなふうに優しくするのか、――その理由が分からないことがまた新しい戸惑いを生んでいた。
窓の外では、宵の星が静かに二人を照らしていた。
――こうして、リリアの世界を静かに揺らし始めていた。




