第七話 二人の再会
夜が明け皇城に淡い光が差し込む。カイルはいつもより早く執務室へ姿を見せた。
側近たちは驚かなかった。昨夜の報告を受けた瞬間の殿下の歩み、――あの迷いのない背中を見て、誰もが察していたからだ。
カイルは机に置かれた書類へ目を落とす。だが昨夜と同じく文字は頭に入らない。胸の奥にあるのはただひとつ。
(……本当に、リリアなのか)
朝の慌ただしさが落ち着いたころ。執務の手を止めたカイルは側近へ静かに視線を向けた。
「確認は済んだか」
側近が深く頭を下げる。
「はい。保護された女性は、リリア・ヴァリー侯爵令嬢で間違いございません」
その言葉にカイルの胸がわずかに震えた。だが表情は変えない。皇太子としての冷静さを崩すわけにはいかない。
「ご体調に大きな問題はございません。ご本人のお疲れも考慮し、夕刻、控えの間へご案内いたします」
「……そうか」
小さく頷く。
(……あの子に……会える)
今すぐ駆けつけたい衝動を胸の奥へしまい込み、カイルは静かに机の書類へ視線を落とした。
気づけば思い浮かぶのは、十年前の夕暮れに出会った、小さな少女の笑顔ばかりだった。
夕刻になり、執務室にいるカイルのもとへ側近がやってきて告げる
「リリア・ヴァリー侯爵令嬢の支度が整いました」
「案内を。……すぐに向かう」
短く告げるとカイルは立ち上がった。歩幅はいつもと同じ。しかしその歩みに宿る迷いのなさは、側近たちの目に明らかだった。
――カイルは待っていたのだ。静かに、しかし確かに。あの名を、あの存在を。
皇城の朝の空気がわずかに緊張を帯びる。カイルはまっすぐ控えの間へ向かって歩き出した。
側近が前を歩き、控えの間へと続く廊下を案内する。
夕暮れの気配が静かに満ちていた。西日が差し込む部屋は、どこか温度を失いかけたように淡く明るい。窓の向こうには、紫を帯びはじめた宵の空が広がり、昨夜よりも澄んだ光が床に長い影を落としていた。
(……リリア)
胸の奥でその名を呼ぶたび、十年前の記憶が静かに揺れる。
やがて側近が立ち止まり、深く頭を下げた。
「殿下、リリア・ヴァリー侯爵令嬢はまもなくこちらへ参ります。どうぞ控えの間でお待ちください」
カイルは小さく頷き、控えの間の扉の前に立つ。幼い頃の面影とはもう違うだろう。それでも十年間忘れたことのない少女が、ようやくここへ来る。胸の奥が、わずかに高鳴る。
「……開けてくれ」
――扉が静かに開かれた。
◇◇◇
柔らかな朝の光が薄いカーテン越しに客室へ差し込んでいた。リリアはゆっくりとまぶたを開ける。一瞬どこにいるのか分からず、胸がきゅっと縮まった。
(……ここは……)
昨夜の出来事がゆっくりと記憶の底から浮かび上がる。
敵国のはずなのに誰も乱暴に扱わなかったこと。侍女頭が皇太子殿下へ報告すると告げたこと。湯あみを勧められ疲れに負けて眠ってしまったこと。
(本当に……帝国の城なんだ)
そう思った瞬間胸の奥がざわつく。不安は消えていない。けれど、昨夜よりも少しだけ呼吸がしやすかった。
ふと部屋の隅に控えていた侍女が静かに頭を下げた。
「おはようございます、リリア様。ご気分はいかがでしょうか」
リリアは驚きに目を瞬かせる。
(様……?敵国なのに……)
侍女は続けて柔らかい声で告げた。
「夕刻、皇太子殿下との謁見の準備を整えます。ご支度をお手伝いさせていただきますね」
その言葉にリリアの心臓がまた大きく跳ねた。
(……皇太子、殿下……)
コロバイン王国でのウェスティン帝国、皇太子カイル・ウェスティンの噂。“冷酷な戦神”といわれている。……その噂が頭をよぎる。けれど同時に、――なぜ自分を保護したのか、その理由を知りたい気持ちも芽生えていた。
リリアはゆっくりと身を起こし、帝国の朝の光の中で静かに深呼吸をした。
夕刻、支度を終えたリリアは侍女に伴われて静かな廊下を歩いていた。帝国の城は広くどこも整然としていて、足音だけが小さく響く。
(皇太子殿下……どんな方なんだろう)
夕暮れの光が控えの間を静かに染めていた。西日が差し込む窓辺には、宵の空が淡く滲みはじめている。昨夜よりも澄んだ光が床に細い影を落とし、その影はリリアの足元へ寄り添うように伸びていた。
胸の奥がゆっくりと波のように揺れる。ここへ連れてこられた理由はまだ分からない。けれど、夕暮れの光はどこか優しくて、不安と緊張の中にほんのわずかな温度を残していた。
リリアはそっと息を整えた。扉の向こうにいる人物を思うだけで、胸の奥が静かに熱を帯びる。
侍女が立ち止まり、扉の前で丁寧に頭を下げた。
「こちらでございます。皇太子殿下がお待ちです」
リリアは息をのみ、そっと頷いた。
――扉が静かに開かれる。
◇◇◇
案内された先は広々とした控えの間だった。部屋の奥では一人の青年が窓辺に立ち、暮れゆく空の色を静かに見つめていた。
その背にどこか遠いものを思うような静けさが宿っている。夕暮れの光が黒髪の輪郭を淡く縁取り、肩越しに見える横顔には、深い思索の影が落ちていた。
――リリアが一歩踏み入れた瞬間、カイルの肩がほんの少しだけ揺れる。
ゆっくりと振り向いたその瞳に、驚きとも、喜びとも、戸惑いともつかない光が淡く揺れた。
黒髪に落ち着いた蒼い瞳。その姿には威圧感があるはずなのに、不思議と冷たさは感じなかった。
リリアは緊張した面持ちで頭を下げる。
「コロバイン王国、リリア・ヴァリーでございます」
◇◇◇
あの時の彼女との再会が、本当に訪れたのだと確かめるように、――カイルはそっとリリアを見つめた。
若草色の髪とエメラルドグリーンの瞳。十年前と変わらない、どこかあたたかい眼差し。
(……やっと会えた……)
胸の奥でそっとその想いを抱きしめる。声にはしない。今は、まだ。
あふれそうな感情を静かに沈め、穏やかさを崩さぬように口を開いた。
「ようこそ、ウェスティン帝国へ」
――それが二人の再会だった。




