第六話 それぞれの想い
日付も変わった深夜のウェスティン帝国皇城。静まり返った皇太子執務室の扉を一人の騎士が控えめに叩いた。
「失礼いたします」
再び机に向かっていたカイルが静かに顔を上げた。仕事に没頭しているように見せていたが、リリアのことが気になって書類はほとんど進んでいなかった。その証拠に机の上の書類は真っ白だった。
扉が開き、騎士が深く頭を下げる。
「申し上げます。国境付近でリリア・ヴァリー侯爵令嬢と思われる、コロバイン王国の女性を保護いたしました」
カイルの胸がわずかに、しかし確かに跳ねた。
(……本当に、彼女なのだろうか)
冷静を装いながらも、願いと恐れが入り混じり確かめずにはいられなかった。報告を受けたカイルは静かに息を吸い、短く問う。
「……名は?」
騎士はわずかに肩を揺らし慎重に答えた。
「まだ伺っておりません。今は休ませることを優先いたしました」
「……そうか」
短い一言が落ちた瞬間執務室の空気が張りつめる。沈黙が重く降り、誰もが次の言葉を待った。
「明朝、確認してほしい。確かめたら……案内を」
低く命じるとカイルは迷いなく執務室を後にした。騎士は深く一礼し足早に部屋を出る。
側近も続いて歩き出す。カイルの歩幅はいつもと変わらない。けれど、その背を見送った側近たちは気付いていた。
――普段は決して急がない皇太子が、今夜だけは、迷いなく部屋を出ていったことを。その歩みには抑えきれない焦りと願いが滲んでいた。
執務室を出て長い回廊を歩きながらも、カイルの胸の奥では静かな熱が消えなかった。普段と変わらぬ歩幅。普段と変わらぬ速度。けれどその内側では十年分の想いが静かに波を立てていた。
自室に戻ると扉を閉める音がやけに大きく響いた。誰もいない空間にようやく息を吐く。
(……本当に……リリアなのだろうか)
胸の奥で押し隠してきた願いが現実の形を持ち始めている。
窓辺に歩み寄り、夜の闇を見つめながらカイルはそっと目を閉じた。
(やっと……会えるのかもしれない)
十年前のあの日の言葉。あの日の笑顔。あの日の別れ。ずっと忘れたことはなかった。
静かに息を整え、皇太子としての顔をもう一度かぶり直すようにカイルは目を開いた。
――その想いを口にすることはない。今はまだ、その時ではないと知っている。
◇◇◇
その少し前、――リリアは静かな客室へと案内されていた。
敵国の城の中。それだけで胸が強くざわつく。けれど、騎士たちは何も問わずただ休ませることを優先しているようだった。
(どうして……?捕らえられると思っていたのに)
理解できないまま、リリアは客室の扉をそっとくぐった。
巡回騎士たちは丁寧に接してくれ、温かいお茶まで用意してくれた。「どうぞ。お寛ぎください」そう言われた瞬間、リリアは耳を疑ったほどだった。
(どうして……)
敵国のはずなのに誰一人として乱暴な言葉を向けてこない。困惑していると厳格な雰囲気をまとった侍女が静かに頭を下げた。
「私は侍女頭です。ご報告の義務があるため、皇太子殿下へ報告申し上げます」
リリアの心臓が大きく跳ねた。
(皇太子……殿下)
王国で聞かされてきた噂では、――“冷酷な戦神”。情けを知らず、敵には容赦しない人物。
そんな人の前へ連絡がいくのだ。自然と手に力が入る。
(どんな人なんだろう)
ほどなくして別の侍女が柔らかい声で告げた。
「ただ、今夜はもう遅い時間ですのでお休みくださいませ。疲れを落として明日あらためて皇太子殿下との謁見を整えます」
続いて、また別の侍女が控えめに微笑む。
「本日は湯あみをしてゆっくりとご就寝いただければと思います。湯へご案内いたしますね」
その優しさが、かえって胸をざわつかせた。敵国なのに誰も自分を責めない。誰も冷たくしない。
そして深夜、――湯あみを済ませ温かさに少しだけ緊張がほどけた頃、リリアはふかふかの寝具に身を沈めようやくベッドの上で眠りにつくことができた。
疲れと眠気には勝てず、リリアは静かな客室でそっと目を閉じた。
(どうして……帝国なのに……)
――その疑問は胸に残ったまま。




