第五話 宵の国へ
ウェスティン帝国――。
宵の静けさが皇太子執務室を包む中、密偵の一人が膝をつき深く頭を垂れていた。そばに控える側近が緊張を帯びた声で口を開く。
「殿下。コロバイン王国より、リリア・ヴァリー侯爵令嬢の事で至急お耳に入れておきたい報告が届きました。お聞きになられますか」
その名を聞いた瞬間カイルの表情がわずかに揺れ、確認していた書類から目を離して顔を上げる。そして「続けてくれ」とだけ言葉を発する。
「っは。ご報告いたします。リリア・ヴァリー侯爵令嬢が王太子エドガー殿下との婚約を破棄され、国外追放となりました」
「……何だと」
静かな声だった。しかし、その場にいた側近たちは初めて見る皇太子の反応に息をのむ。
カイルは迷いなく立ち上がり執務室を後にした。歩きながら短く側近へ命じる。
その青い瞳に迷いはなかった。
「王国へ使者を出せ。リリア・ヴァリー侯爵令嬢の保護を申し入れる」
「はっ!」
側近は即座に頭を下げ指示を受けて走り出した。その背が遠ざかるのを見送りながら、カイルはふと廊下の窓へ目を向ける。宵の空が淡い紫に染まり静かに広がっていた。
淡い紫が滲む空はどこか遠く、静かだった。
だが、ほどなくして戻ってきた側近は苦い表情を浮かべていた。
「申し訳ございません、殿下。密偵からの報告ですと、すでに国外追放の命が下され、即日王国を出発したとのことです」
一瞬目を見開いたカイルは、振り返りゆっくりと目を閉じた。
「……間に、合わなかったのか」
その言葉は、宵の空に溶けるように弱く響いた。そしてカイルはゆっくりと顔を上げた。
「捜索に出ろ。彼女を見つけ次第、保護しろ」
「はっ!」
十年前の夕暮れが胸の奥からよみがえった。
冷たい湖の感触。沈みゆく自分へ向かって、必死に差し伸べられた一本の枝。若草色の髪が夕風に揺れ、涙を浮かべたエメラルドグリーンの瞳が自分を見つめていた。震えながらも「助けたい」と叫んでくれた、――あの少女。
……その優しさだけは、今も忘れられない。
『もう大丈夫』
『もう泣かないで』
『きっと大丈夫だから』
敵でも皇太子でもなく、助けを求める一人の子どもとして手を差し伸べてくれた、一人の少女。あの日の声は今も胸の奥に残っている。
だからこそ、忘れられなかった。
誰もが自分を「ウェスティン帝国の皇太子」としてしか見ていなかった。冷たい視線も、距離も、警戒も、――それが当たり前だった。
ただ一人、あの少女。リリアだけが違った。いつかもう一度会えたなら、あの日の礼を伝えたい。そして今度は自分が彼女を守りたい。
その願いは、――十年間、一度も揺らぐことはなかったのに。
……それなのに、今、手を伸ばしたはず、なのに……間に、合わなかった。
その事実が胸に落ちた瞬間、カイルは小さく息を吐いた。痛みというより、力が抜けるような感覚だった。宵の空は淡い紫に染まり、どこまでも静かで、その静けさがかえって彼の心を締めつけた。
ほんの一瞬だけ、立ち尽くす。自分の影が長く伸びて、どこか頼りなく揺れた。それでも、――崩れ落ちるわけにはいかない。彼女を守りたいという願いは、まだ消えていないのだから。
――自分の気持ちを鼓舞するように、前を向く。
◇◇◇
その頃、リリアは一人きりで街道を歩いていた。背後を振り返っても胸が痛むだけで、もう帰る家はない。王国にも戻れず、頼れる人もいない。残された道はたった一つ。
「……帝国へ」
けれど、その名を口にしただけで胸がきゅっと締めつけられた。
帝国、――昔和平協定を結んだ国。だけれど今は“敵”だと教えられてきた国。足を向けることさえ恐ろしいはずの場所。
(そこへ向かうしか私の生きる道はないのよ。大丈夫。……きっと、大丈夫)
気づけば日が沈み、空には宵の星が瞬き始めていた。
国境を越える頃には足は鉛のように重くなっていて、森の入り口で力尽きるようにそっと腰を下ろした。冷たい土の感触が、ようやく自分が一人だという現実を静かに伝えてきた。
「もう……私には帰る場所なんてない。怖いけど、……それでも、行くしかないんだわ……」
ため息をつきながらリリアは小さくつぶやいた。そして、また歩み始めるために立ち上がった時だった。
行くしかない、――そう思って歩みを進めようと決意したとき、遠くから馬の蹄の音が響いた。瞬間、リリアの心臓は跳ね上がった。
はっと顔を上げたリリアの目に飛び込んできたのは、闇の中から姿を現したウェスティン帝国の巡回騎士たちだった。
(あれは、ウェスティン帝国の騎士!?……私、見つかってしまったの?……捕まって、しまうの……?)
昔、和平協定を結んでいたとはいえ帝国は敵国。怖い場所。捕らえられるかもしれない、――そう覚悟しながら思わず身体が強張った。
しかし、リリアの前まで来た先頭の騎士は馬を降りると、警戒を含んだ声で問いかけた。
「こんな時間に女性がお一人とは……。何か事情がおありですか」
騎士はリリアを静かに見つめると、周囲にも警戒するように視線を巡らせた。リリアは身を固くし息を呑む。
そのとき後ろに控えていた一人の騎士が小さく声を上げた。
「隊長。この女性……報告にあった特徴と一致します」
先頭の騎士は一瞬だけ目を細め静かに頷く。
「……そうか」
そして再びリリアへ向き直ると、その声から警戒の色は消えていた。
「事情は後で伺います。まずはあなたを保護いたします」
「え……?」
思わず声が漏れた。敵国の騎士が、自分を助けようとしている、――その事実が信じられない。
(どうして……?帝国の騎士が、私を……?)
婚約破棄され、国外追放され、戻る家もなく、怖いと教えられてきた帝国へ向かうしかなかった自分。その帝国の騎士が“保護する”と言っている。
理解が追いつかず、リリアはただ立ち尽くすしかなかった。
――こうして、怖いはずの帝国で、リリアは初めて“助けられる側”になったその意味を、理解できないまま。




