第四話 婚約破棄
途中から第一話と、まるっと重複します。
でも、最後の一行は違います。
王城の謁見の間は重い静寂に包まれ、中央で皆の視線をまっすぐ受け止めながら、一人の少女が静かに跪いていた。彼女の名前はリリア・ヴァリー。侯爵令嬢だった。
リリアは、なぜ自分がここに呼ばれたのか分からなかった。ただ「国王陛下がお望みだ」とだけ告げられ、理由も説明もないまま、この重々しい謁見の間へ連れてこられたのだ。
玉座には国王ギルバード・コロバインが座り、その傍らに王太子のエドガー・コロバインが立っている。左右には宰相や騎士団長、重臣たちが並び、父、ローランド・ヴァリー侯爵も列席していた。だが、その目がリリアを見ることはなかった。……いや、見ることができなかった。
エドガーがリリアの前へ一歩進み出た。だが、その苦しげな表情と目を合わせようとしない態度が、リリアの胸に不安を落とす。静かな声が彼女の名を呼んだ。
「リリア・ヴァリー侯爵令嬢」
「……はい」
「……君との婚約を、本日をもって解消する」
その言葉にリリアは目を大きく見開き息をのむ。突然告げられた婚約破棄――。
(え……?婚約破棄……?どうして……?理由……言ってくれないの……?わからない……何が起きてるの……)
リリアには、意味も分からなければ、納得する理由もなかった。だから、「理由を説明してくれる」「きっと何か事情がある」そう信じてエドガーの次の言葉を待った。
しかし、エドガーは何も語らずただ静かに一歩下がり、代わりにギルバードが口を開いた。
「リリア・ヴァリー。十年前の和平式典において、そなたは湖へ落ちた子どもを助けたことを覚えているか」
「……はい」
今聞かれる意味が分からず、でも、リリアは素直にうなずく。
「……溺れていた男の子を、確かに助けました」
(それの何か問題なの?なぜ今更になって問われるの?何の意味があるの?)
なぜ幼い日の出来事を、今になって問われているのかリリアは理解できなかった。
ギルバードは真っ直ぐリリアを見据える。
「その子どもは、ウェスティン帝国の身分の高い者だった」
その言葉にリリアは目を見開いた。
「え……?身分の高い……子ども?」
リリアが初めて知る事実だった。あの子はただ溺れていた子どもではなかったのか。だが、それが何なのか。リリアの心は困惑する。
「あの時の私は、そのようなことは知りませんでした。ただ助けを求める男の子を助けただけです」
ギルバードの表情は変わらない。
「知っていたかどうかの問題ではない。そなたは敵に情けをかけたのだ」
静かな声で断言した。だが、その一言は鋭い刃のようにリリアの胸へ突き刺さる。
「……違います!」
思わず声が漏れた。
「あの時助けたのは、敵ではありません」
謁見の間に張りつめた空気が流れる。
「湖に溺れ、助けを求める、ただ一人の子どもでした。あの子は敵ではありませんでした」
その瞳に迷いはなかく、ただギルバードを見つめている。
ギルバードは静かに目を閉じ、やがて口を開いた。
「……だからこそ、お前は王妃にはなれぬ」
「……っ!」
リリアは言葉を失い、ただギルバードを見つめた。
「王妃とは一人を救う者ではない。国を守る者だ。情けより国を選ばねばならぬ。国民に敵に情けをかけたと疑われる者を、王家に迎えることはできぬ」
その言葉に、リリアはゆっくりとエドガーへ視線を向けた。幼い頃から共に学び、未来を誓った婚約者。
エドガーならきっと信じてくれる。リリアはそう願っていた。わかってくれると信じていた。
(私は、敵に情けをかけたわけではないわ。ただ、身分など関係なく、命を救うべき一人子どもを助けただけ)
しかし、エドガーは苦しそうに拳を握りしめながらも、何も言わなかった。ただ、苦しげに目を伏せただけ。
リリアにとって、その沈黙だけで十分だった。
(エドガー様。……信じて、もらえなかった……)
一瞬だけ胸が締めつけられる。
(私は……間違っていたの?溺れていたあの子を助けてはいけなかったの?)
リリアはそっと目を閉じた。十年前の夕暮れが、鮮やかに脳裏へよみがえる。
冷たい湖に沈みかけ、必死にもがいていた少年。差し出した枝をつかもうと震える手を精一杯伸ばしていた。不安と恐怖に肩を震わせながら、それでも諦めずに自分へ手を伸ばしていた、――あの少年。
……あの少年の必死な想いだけは、ずっと消えずにいる。
(……いいえ。私は間違ってなんかいない)
すぐに心の奥で一つの答えが浮かぶ。
リリアはゆっくりと息を吸ったて、そして吐いた。
(あの時助けたのはただの一人の子ども。その想いは、誰にも否定させない)
「真実はどうあれ、王妃となる者に疑惑があることは許されぬのだ」
ギルバードはリリアに厳かに告げる。
「侯爵令嬢リリア・ヴァリー。本日をもって王太子妃候補の資格を剥奪する」
そう告げた後、ギルバードは口を閉じた。
謁見の間は静まり返り、誰一人も声を上げない。
父ローランドだけが拳を固く握り締めて、掌から血がにじんでも、その拳を緩めることはできなかった。
(……すまない。……リリア。……王命には逆らえないのだ……)
ローランドはリリアを見た後、そっと瞳を閉じて、何もしてやれないことを悔やんでいた。
――沈黙が続く。誰一人として口を開かず、この場を支配しているのは、リリアの鼓動だけだった。
長い沈黙が永遠のように続いたかと思った矢先、ギルバードがゆっくりと口を開いた。
「リリア・ヴァリー。何か言い残すことはあるか」
その問いに、リリアは少しだけ俯き静かに目を伏せる。言いたいことはあるけれど、何を口にしても、この決定が覆ることはないことを知っている。
それに──。
(あの日、水辺で助けを求める手を見て、とっさに私は手を差し伸べていた。無我夢中だった。でも、名前も知らないあの子の事を助けたことは、絶対後悔なんてしない)
もし時間を巻き戻せたとしても、きっと同じことをするだろう。だって、困っている人を見捨てることなんてできないから。
(私は、間違っていない。正しいことを……母が教えてくれた“正しさ”を……、だから、これでいいんだ)
リリアはゆっくりと顔を上げて、そしてまっすぐと前を向き、ギルバードへ一言だけ答えた。
「……ございません」
謁見の間に小さなどよめきが広がる。
「……リリア……」
リリアの答えに、父、ローランドの目が大きく見張る。
ギルバードはリリアと目を合わせると、静かに告げた。
「そうか。リリア・ヴァリー。本日をもって其方に国外追放を命ずる」
その一言に、謁見の間は再び静まり返った。その言葉に異を唱得る者はいなかった。父も、婚約者だったエドガーも。ただ沈黙だけが、その場を支配していた。
「何か、言い残すことはあるか」
沈黙を破って、ギルバードは彼女に向けて、再び同じ言葉を問いかける。その問いにリリアは少しだけ考えて、そしてゆっくりと頭を下げてから答えた。
「……なにも、ございません」
リリアの声は皆が思わず驚くほど、どこまでも穏やかだった。
「リリア・ヴァリー。日の入りまでに国境を越えよ」
ギルバードは一言だけ告げると王座を立ち、静かに謁見の間を去った。
続いてエドガー、ローランド、宰相、騎士団長、重臣たちが、彼の背を追うように退出していく。
その間、リリアに向けられた言葉はひとつもなかった。残されたのは、ただ静寂だけだった。
(もう、この城へ戻ることはない。……この国に戻ることはない。ここは、もう……私の帰る場所じゃない)
その日の夕刻、見送る者はいないまま一台の馬車が王城を後にした。
王都の門を抜けた先で護衛は引き返し、リリアはただ一人、夕暮れの街道へと歩き出す。夕暮れの空はどこまでも静かで、振り返ってももう帰る場所はない。
だから、彼女は足を止めなかった。自分が信じたことだけは、間違っていなかったと胸に抱きながら、前を向いて歩いていく。
――ただ、歩き出した彼女は、まだ知らない。その宵の空の下に、十年前のあの日からずっと自分を忘れずにいた人がいることを。




