第二話 夕暮れの庭園
十年前――。
コロバイン王国とウェスティン帝国は、長く続いた争いに終止符を打つため、和平式典を執り行っていた。
王城には両国の王族や貴族が集い、普段は張り詰めている空気もこの日ばかりはどこか穏やかだった。軽やかな音楽と人々の笑い声が庭園に響いている。
大人たちが今後の和平について語り合う一方、子どもたちは身分や国を越え、庭園で思い思いの時間を過ごしていた。
やがて夕暮れが近づき、庭園の空は茜色の光に包まれていく。そんな中庭園の奥を一人歩いている少年がいた。
ウェスティン帝国の皇太子、カイル・ウェスティン。十三歳になったばかりの少年は、賑やかな場所よりも静かな時間を好んでいた。
なぜなら、向けられる視線は敬意でも親しみでもく、「皇太子」という肩書への視線ばかり。なので、カイルの心はいつもどこか孤独を感じていた。
(また「皇太子」……。そのたびに、僕という存在が薄れていく気がする。皆は僕を役職でしか見ていない。名前で呼ばれることさえ許されないのか。僕は「皇太子」じゃない。僕は、――カイルだ)
だからいつも一人になりたかった。一人の時間は静かで心地よかった。そんな静かな時間が、自分をただの「カイル」にしてくれる。
今日もそんな気持ちを抱き、少しだけ一人になりたくて、だれにも告げず庭園の奥へ足を運んでいた。
小鳥のさえずりだけが耳に届き、心地よい風が木々を揺らす。その時だった。
ふと背後で小さく草を踏む音がしたので、カイルが振り返ろうとした瞬間、何者かに後ろから強く肩を押された。
「――っ!(落ちる!)」
気づいたときには足元が大きく崩れ体が宙に浮いた。次の瞬間庭園脇の湖へと落ちていた。
激しい水しぶきが夕暮れの静けさを裂き、冷たい水が一気に体を奪った。肺が急に縮むような感覚に襲われ、思わずもがく。水の重さが腕を引き下ろし、呼吸が乱れる。
岸辺には男の人影がひとつ。揺れる視界の中で、目が合った、――そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
(……だれ……?まさか……彼が僕を湖に突き落としたの……?どうして……何のため……)
疑念が浮かんだ途端思考が乱れ、意識はどんどん遠のいていく。水の重さが体を引き下ろし、息が続かない。
(……僕……ここで死ぬの……?いやだ……死にたくない……息が……できない……誰か……助けて……!)
逆光に照らされて男の表情は見えない。ただ、風に揺れる深い緑色のローブだけが静かに揺れ、その裾には金糸の刺繍が光っていた。
男は助けを呼ぶこともなく、静かにその場を立ち去っていった……
その一部始終を見ていた小さな少女がいた。ただ少女の所から男の顔を確認することはできなかった。
「……っ!(男の子が湖に落ちた!……早く、助けなきゃ!)」
八歳のリリアは、助けたいという気持ちだけに突き動かされ、湖へと走り出した。
岸辺にたどり着いたリリアは、ドレスが邪魔で泳げないことを悟った。飛び込んでも助けられない、――それだけははっきり分かっていた。
必死に辺りを見回し、近くに置かれていた庭師の長い枝を見つけると、それをを抱え上げて溺れている少年のほうへ駆け寄った。
「これにつかまって!」
湖へ落ちた少年へ向かって、リリアは夢中で枝を差し出した。
(お願い……つかまって!)
カイルはリリアの声に意識を向け、朦朧としながらも枝を求めるように震える手を伸ばした。
リリアもまた、カイルの手を掴もうと必死に手を伸ばした。震える彼の指先を追いかけ、その小さな手の中にある枝を伸ばす。
(あと少し……お願い、届いて……!)
カイルは意識が遠のく中、震える手で最後の力を振り絞り、枝を掴んだ。
「(届いた……!)もう少し……!そのままつかまっていて!」
リリアは必死に枝を引っ張った。けれど八歳の小さな腕では、枝は少しも動いてくれない。一生懸命なのに助けられない、――その悔しさに、涙があふれそうになった。
(だめ……!今は泣いてる場合じゃない!助けなきゃ……!絶対に……!)
「誰か……!」
小さな声では聞こえない。届かない。リリアは大きく息を吸い込み、精一杯叫んだ。
「誰か来てください!早く!お願い!!だれか!!!」
リリアの必死の叫びに、近くにいた騎士がはっと顔を上げる。次の瞬間、庭園の向こうから数人の騎士がリリアのもとへ駆け寄ってきた。
「ご令嬢。どうしたのですか。何かあったのですか」
だが、駆け寄ってきた一人の騎士が湖の中の子どもを見て足を止めて、ぼそりと声をこぼした。
「……敵国の……」
その言葉で場の空気が凍りつく。だがリリアは思わず騎士を振り返って怒りをあらわにしながら叫んだ。
「敵とか味方とか、関係ありません!今、目の前でこの子がおぼれているんです!」
十歳の少女とは思えないほど、真っ直ぐな叫びだった。
「早く助けないと、この子が死んでしまいます。あなたたちはそれを見ているだけですか!あなたたちは、それでも騎士と名乗るのですか!!」
リリアの言葉に騎士たちは我に返った。一人の騎士が枝をつかみ、力いっぱい引き寄せる。
「……すまない。少年。もう少しだ。頑張れ」
数人が湖へ飛び込み、カイルを岸へと引き上げる。カイルは何度も咳き込みながら、水を吐き出した。
朦朧としていた意識は回復してきて、ようやく息を取り戻したカイルは小さく肩を震わせた。
「もう大丈夫」
リリアはそっとしゃがみ込み、胸元から白いハンカチを取り出すと濡れた頬を優しく拭く。
救われた安堵と湖で溺れた恐怖の余韻が入り混じり、カイルは自分が泣いていることさえ気づかずに涙を流していた。
「もう泣かないで」
安心させるように、にっこりとカイルに微笑んだ。
「きっと大丈夫だから」
(……僕は、泣いているのか……)
自分の涙に気づかないほど混乱していたカイル。拭っても止まらない涙を抱えたまま、リリアの優しい笑顔に救われるように、そっと頷いた。
「リリア!」
どれほど時間がたっただろう。遠くから父が自分を呼ぶ声がして、リリアは静かに振り返った。
「お父様!」
父の姿を見つけると、ほっと胸をなで下ろして、カイルを気遣うように立ち上がった。
「あ……」
カイルが何かを言いかけたが、リリアは小さく笑う。
「お父様が呼んでいるから。じゃあね。」
そう言って、その場を駆け出した。
カイルの名前を聞くこともないまま父の隣へ駆け寄ると、父と手をつなぎ、振り返ることなく夕暮れの庭園を後にした。
彼女の父の声が呼んだその名を、カイルは胸の奥で反芻するように呟いた。
「……リリア……」
もう一度。今度は確かめるように――
「リリア」
風になびく若草色の髪が揺れ、夕日に照らされたエメラルドグリーンの瞳が輝く。
そして、自分の手の中に残る白いハンカチの温もり――
――そのすべてが一人の少年の胸に忘れられない印象として刻まれた。




