第十三話 帰る場所
ウェスティン帝国へ一行の使節団が訪れた。先頭に立つのはコロバイン王国、国王ギルバード・コロバイン。その隣には王太子エドガー、そしてリリアの父ローランドの姿もあった。
応接の間で向かい合ったリリアは、静かに一礼した。久しぶりに見る王の姿に胸の奥がそっと揺れる。穏やかな沈黙が流れていたが、その奥には確かな緊張が潜んでいた。
やがてギルバードはゆっくりと立ち上がると、深く頭を下げた。
「……すまなかった」
その言葉に、部屋の空気が張り詰める。国王が臣下へ頭を下げる。それは誰も想像していなかった光景だった。
「私は、お前を信じることができなかった。敵国の身分の高い者を助けたことではない……助けを求める子どもへ手を差し伸べた、お前の心を信じられなかった」
ギルバードは顔を上げることができないまま言葉を続けた。
「王である私が誰よりも先にお前を疑った……それが、私の罪だ」
静かな声だった。だが、その一言一言には深い後悔が滲んでいた。
リリアはしばらく黙っていた。そして、小さく息を吸い優しく口を開く。
「陛下。私は……コロバイン王国を恨んではおりません」
ギルバードがゆっくりと顔を上げた。
「ですが……あの日の私には、もう戻れません」
少しだけ寂しそうに微笑んだ。
その言葉に誰も口を開けなかった。
あの日。
――王を信じていた少女。
――婚約者を信じていた少女。
――国を信じていた少女。
その心は、確かに壊れてしまったのだ。
ギルバードは苦しげに目を閉じる。そして最後の願いを口にした。
「……帰ってきてはくれないか」
その問いにリリアはゆっくりと首を横へ振る。
「申し訳ありません。私が帰りたい場所は、もうコロバイン王国でなく、ここウェスティン帝国なのです」
その声はとても穏やかだった。窓の向こうには夕暮れの空が広がっている。宵の星が小さく輝き始めていた。
リリアはその光を見つめながら続ける。
「コロバイン王国で過ごした日々があったから、私は人を信じることの難しさを知りました。でも……カイル殿下と出会って人を信じることの温かさも知ることができたのです」
リリアはカイルへそっと視線を向け、ほんの少しだけ微笑んだ。張りつめた空気がわずかに和らぐような優しい笑みだった
その言葉にギルバードは何も返せなかった。返す資格がないことを、誰よりも理解していたから。
「……そうか。私が、戻れなくしてしまったのだな」
ギルバードは目を伏せたまま、その言葉の重さに耐えるように息を整えた。
リリアの言葉を受け止めた静けさの中で、カイルはゆっくりと前へ進み出る。
「恐れながら陛下。過去は変えられませんが、未来は選べます。我が帝国も、コロバイン王国も――
これからは互いに手を取り、同じ空を見上げることができるはずです」
その声は穏やかで、しかし確かな力を宿していた。
「和平は、ただの約定ではありません。人が人を信じるところから始まるものです。私たちは、その第一歩を今日ここで踏み出せます」
ギルバードは深く息を吸い、静かに頷いた。
「……ああ。コロバインも、私も、過ちを繰り返すつもりはない。共に歩もう。未来のために」
リリアはその言葉を聞き、ほんの少しだけ、柔らかく微笑んだ。
◇◇◇
使節団が去り、応接の間に静けさが戻る。
応接の間の静けさを背に、リアはそっと歩き出した。夕風を求めるように一人バルコニーへと向かう。
西の空はゆっくりと茜色から藍色へと変わり始めている。今日もまた、宵の星が静かに輝いていた。初めてこの国へ来た日も、こんな空だった。あの頃は、不安しかなかった。帰る場所を失い自分には何も残っていないと思っていた。
――けれど今は違う。
背後から、穏やかな足音が近づいてくる。
「リリア譲」
聞き慣れた声に振り返る。少し離れた場所で、カイルが優しく微笑んでいた。その笑顔を見るだけで不思議と心が落ち着く。
カイルは静かに問いかける。
「……帰り、ますか」
その一言にリリアは小さく笑った。
(……帰る)
その言葉の意味はもう一つしかなかった。
リリアはゆっくりと歩き出しカイルの前で立ち止まる。
「はい」
穏やかな笑みを浮かべながら答える。
「私の帰る場所は、ここです」
その言葉を聞いたカイルは安心したように目を細めた。
リリアはそっと一歩近づく。その距離を受け入れるようにカイルは静かに両腕を広げた。
優しく包み込まれる。温かなぬくもりに、張りつめていた心がほどけていく。
耳元で、穏やかな声が響いた。
「……おかえり……リリア」
その一言だけで十分だった。リリアは目を閉じ、小さく微笑む。
「……はい。ただいま。カイル様」
――リリアは初めてその言葉を自然に口にすることができた。カイルの隣で。




