第十一話 守りたい人
第五話と重複します。ほぼ、まるっと同じですが、ちょっとだけ違います。
あの時のカイルの気持ち追加バージョンです。
そして、最後の一行は違います。
大事なことなのでもう一度。最後の一行、違います。
宵の静けさが皇太子執務室を包む中、密偵の一人が膝をつき深く頭を垂れていた。そばに控える側近が緊張を帯びた声で口を開く。
「殿下。コロバイン王国より、リリア・ヴァリー侯爵令嬢の事で至急お耳に入れておきたい報告が届きました。お聞きになられますか」
その名を聞いた瞬間カイルの表情がわずかに揺れて確認していた書類から目を離して顔を上げる。そして「続けてくれ」とだけ言葉を発する。
「っは。ご報告いたします。リリア・ヴァリー侯爵令嬢が王太子エドガー殿下との婚約を破棄され、国外追放となりました」
「……何だと」
静かな声だった。しかし、その場にいた側近たちは初めて見る皇太子の反応に息をのむ。
「……彼女が」
思わず漏れた声は驚きに満ちていた。誰よりも優しく、人を見捨てることのできない少女。困っている人がいれば迷わず手を差し伸べる人。
そんな彼女が――
国を追われるなどどうしても信じられなかった。
側近が静かに続ける。
「……理由は十年前の和平式典にて、ウェスティン帝国の身分の高い者を救助した件である、と……」
「……っ」
硬くこぶしを握り締めてカイルは目を閉じる。
あの日救われたのは自分だった。だから五年前、再会した彼女が幸せそうに笑っている姿を見て自分は身を引いた。それでいいと思っていた。
けれど――
握る手に自然と力が入る。
「……違う」
小さく漏れたその言葉に側近が顔を上げた。
「殿下?」
カイルは迷いなく立ち上がり執務室を後にした。歩きながら短く側近へ命じる。
その青い瞳に迷いはなかった。
「王国へ使者を出せ。リリア・ヴァリー侯爵令嬢の保護を申し入れる」
「はっ!」
側近は即座に頭を下げ指示を受けて走り出した。その背が遠ざかるのを見送りながら、カイルはふと廊下の窓へ目を向ける。宵の空が淡い紫に染まり静かに広がっていた。
淡い紫が滲む空はどこか遠く、静かだった。
だが、ほどなくして戻ってきた側近は苦い表情を浮かべていた。
「申し訳ございません、殿下。密偵からの報告ですと、すでに国外追放の命が下され即日王国を出発したとのことです」
一瞬目を見開いたカイルは振り返りゆっくりと目を閉じた。
「……間に、合わなかったのか」
その言葉は、宵の空に溶けるように弱く響いた。そしてカイルはゆっくりと顔を上げた。
十年前。助けられたのは自分だった。
五年前。幸せならそれでいいと願った。
そして今。
その願いは無残にも砕け散った。静かに目を閉じる。胸に浮かぶのは、あの日の少女の笑顔だけだった。
「私は……」
誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやく。
「今度は、あなたを守りたい」
皇太子だからではない。恩を返したいからでもない。一人の人として。悲しみを抱えた彼女に、もう一度笑ってほしい。ただ、その願いだけだった。
窓の外では一番星が静かに輝いている。カイルはその光を見つめながら心の中でそっと誓う。
(今度こそ、あなたを幸せにする)
「捜索に出ろ。彼女を見つけ次第、保護しろ」
「はっ!」
十年前の夕暮れが胸の奥からよみがえった。
冷たい湖の感触。沈みゆく自分へ向かって必死に差し伸べられた一本の枝。若草色の髪が夕風に揺れ、涙を浮かべたエメラルドグリーンの瞳が自分を見つめていた。震えながらも「助けたい」と叫んでくれた、――あの少女。
……その優しさだけは、今も忘れられない。
『もう大丈夫』
『もう泣かないで』
『きっと大丈夫だから』
敵でも皇太子でもなく助けを求める一人の子どもとして手を差し伸べてくれた、一人の少女。あの日の声は今も胸の奥に残っている。
だからこそ忘れられなかった。誰もが自分を「ウェスティン帝国の皇太子」としてしか見ていなかった。冷たい視線も、距離も、警戒も、――それが当たり前だった。
ただ一人、あの少女。リリアだけが違った。いつかもう一度会えたなら、あの日の礼を伝えたい。そして今度は自分が彼女を守りたい。
その願いは、――十年間一度も揺らぐことはなかったのに。
……それなのに今、手を伸ばしたはず、なのに、……間に、合わなかった。
その事実が胸に落ちた瞬間、カイルは小さく息を吐いた。痛みというより、力が抜けるような感覚だった。宵の空は淡い紫に染まり、どこまでも静かで、その静けさがかえって彼の心を締めつけた。
ほんの一瞬だけ立ち尽くす。自分の影が長く伸びてどこか頼りなく揺れた。それでも、――崩れ落ちるわけにはいかない。彼女を守りたいという願いはまだ消えていないのだから。
――『今度こそ、あなたを幸せにする』それは、誰にも告げることのない、皇太子カイル・ウェスティン、ただ一人の決意だった。




